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野煙る ・ エッセイ
関東大震災と俳句
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関東大震災

関東大震災  1923年(大正12年)9月1日12時少し前に、神奈川県西部を震源とする巨大地震「大正関東地震」が起こりました。

この地震は東京・神奈川の大都市圏の近くで発生したため、大きな災害となり多数の人命が失われましたが、それらを総称して関東大震災と呼びます。

大正関東地震では、震源域の中心に近かった神奈川県横浜市では震度 7 の強烈な揺れとなり、1万6000戸の建物が崩壊するなど大きな被害が発生しました。
鎌倉市でも震度 7 の激震となり、同市由比ケ浜には大きな津波が押し寄せて300人以上が津波に呑まれて行方不明になったということです。

震源域の中心から50kmほど離れていた旧東京市では、横浜市より小さい震度6の揺れが起こりました。当時は東京でもまだ耐震建築が少なかったこともあり、東京市ではこの地震で1万2000戸の建物が倒壊したということです。

しかし、その後発生した大火災は地震の揺れによる建物の倒壊をはるかに上回る惨禍をもたらしました。東京市の大火災は2日間にわたって猛威をふるい、地震の揺れで倒壊した建物とあわせて約30万戸の建物が失われました。この大災害によって、東京市だけで6万8000人の方々が命を奪われました。

俳人 高浜虚子
 近代日本にとって最初の大試練となった関東大震災は、日本人の社会思想、生活意識に大きなショックを与えました。文学界が受けた影響も非常に大きく、大震災後に作風が大きく変わった作家や詩人も多かったのです。

かねてより私は関東大震災が当時の俳人たちにどのような影響を及ぼしたかを知りたいと思っていました。今回ようやく時間を見つけてその調査をはじめたところ、関東大震災をテーマとして詠まれた俳句が案外に少ないのがわかりました。

その理由は一つにはもちろん当時の俳人たちが大震災によって生活の場、生活する術を奪われ、俳句を詠むゆとりを失ったということでしょう。また、俳人たちの多くが住んでいた東京、横浜などで10万人ほどの人命が失われたショックはすさまじく、「ゆとりの短詩」とされる俳句を詠む心が起こらなかったのではないかと思います。

俳人 高浜虚子  俳人高浜虚子(左の写真)の家は鎌倉・由比ケ浜から少し内陸に入ったところにありました。
震度7の激震はすさまじく、虚子は家の大黒柱にしがみついて耐えるのみでした。しかし幸い虚子庵は大きな被害はなく、また大地震直後の津波からもかろうじて逃れることができました。

俳誌ホトトギスの経営者であった虚子は、東京駅前丸ビルに開設していたホトトギスの事務所に一刻も早く行かなければなりませんでした。
虚子は鎌倉から横須賀まで三浦半島を歩いて横断し、そこから船で東京・芝浦に行きました。そこからさらに歩いて東京駅前丸ビルに着きました。

大震災に際してこのような体験をした虚子は、大震災の俳句をいっさい残していません。虚子は俳句など短詩にはそれぞれサイズに応じた適所持分があるとしており、後に起こった太平洋戦争や原子爆弾についても俳句を詠んでいません。また、震災忌、敗戦忌、原爆忌を季語として認めていなかったそうです。

当時俳句界をリードしていた虚子のこのような姿勢も、大震災について詠まれた俳句が案外に少ない理由の一つになっているのではないかと思います。

作家 幸田露伴

作家 幸田露伴  幸田露伴は1867年(慶応3年)に江戸(現東京都)下谷に生まれました。夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉と同年の生まれです。

露伴は当初電信技士になりましたが、すぐに作家に転向しました。1893年に露伴は谷中天王寺をモデルとした小説 『五重塔』 を発表し、作家としての地位を確立しました。

露伴は少年時代から俳諧に親しみ、松尾芭蕉の俳句を研究していました。関東大震災の前からは大作 『芭蕉七部集注釈』 にとりかかり、17年かけて晩年の1947年(昭和22年)に刊行しました。

露伴と同年生まれの夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉のうち、子規は1902年(明治35年)、紅葉は1903年(明治36年)に相次いで早世しました。漱石はそれら二者よりは長生きし、 1916年(大正5年)に49歳で死去しました。
露伴は明治、大正、昭和の三代にわたって生き、上掲4人のうちでただ一人1923年(大正12年)の関東大震災を体験することになりました。

当時露伴は東向島の「蝸牛庵」と名づけた自宅に住んでいました。蝸牛庵はさいわい大きな被害を免れましたが、井戸の水質が悪化したため、翌年小石川に転居しました。
関東大震災後、露伴は「この大災害を契機に壮美な大東京建設を目指そう」と呼びかけたということです。

     天鳴れど
         地震ふれど牛の
             あゆみ哉    幸田露伴

俳人 河東碧梧桐

河東碧梧桐  俳人 河東碧梧桐は1873年(明治6年)に愛媛県松山市に生まれました。伊予尋常中学時代から、一歳年下の高浜虚子とともに正岡子規から俳句の指導を受けました。

1902年に子規が没した後、1905年(明治38年)ごろから碧梧桐は従来の五七五調の形にとらわれない「新傾向俳句」を提唱し、日本全国に俳句行脚を行いました。

これに対して高浜虚子は伝統的な五七五調による「花鳥風詠」の俳句を唱えて碧梧桐らの新傾向俳句派と激しく対立しました。

碧梧桐は51歳のときに東京牛込の自宅で関東大震災にあいましたが、幸い家の被害は少なかったということです。碧梧桐は、その後この時期の様子を記録した「大震災日記」を自分が主催する俳誌「碧」に掲載しましたが、その中で「震災後は水もガスも使えなくなり、生活が一世紀も前に戻ったようだ」と嘆いたそうです。

前記のように高浜虚子は関東大震災の俳句はなにも詠みませんでしたが、碧梧桐は「震災雑詠」に無季自由律の俳句を多数残しています。

      ずり落ちた 瓦(かはら)ふみ平(な)らす人ら

      青桐吹き煽(あふ)る風の 水汲む順番が来る

      焼跡を行く 翻(ひるが)へる干し物の白布     河東碧梧桐

大都市が大地震に遭ったときの光景は現在とまったく変わらなかったようです。その様子を碧梧桐はあたかもスナップ写真を撮るように自由に記録しています。      

作家 佐藤紅緑

佐藤紅緑  作家 佐藤紅緑は1874年(明治7年)に青森県弘前市に生まれました。1893年(明治26年)に上京して新聞記者になり、その後正岡子規の勧めで俳句を始めました。

紅緑は政治記者をしながら新聞小説などを書き、さらに新派の脚本を多数手がけました。

1923年、外務省嘱託として映画研究のためヨーロッパに外遊していたときに関東大震災のニュースを聞き、急きょ帰国しました。
翌年、紅緑は関西に移って新設の東亜キネマの所長となり、阪神沿線鳴尾に住みました。

この時期の昭和2(1927)年に、講談社の依頼で雑誌 『少年倶楽部』 に 『あゝ玉杯に花うけて』 を連載して大ヒットになりました。その後も同誌の専属として少年小説を多数発表し、少年小説の第一人者になりました。

紅緑は、多忙の中、俳句の世界でも正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐らと親しく付きあい、多数の俳句を残しました。

    今は昔
        地震を語る
            火鉢かな   佐藤紅緑

紅緑は上記のように関東大震災のときはパリに暮らしていてニュースでその惨状を知りました。 関東大震災については実体験がある人とは違うイメージを持っていたのでしょうか。

物理学者 寺田寅彦

寺田寅彦  寺田寅彦は1878(明治11)年に東京市に生まれ、その後、熊本の第五高等学校に入学しました。当時、熊本五高には夏目漱石が英語教師として着任していました。

寺田は漱石のもとで英語を勉強するとともに、当時漱石が熱中していた俳句についても手ほどきを受けたということです。

1909年からのドイツ留学では、ベルリン大学で地球物理学を研究しました。

1923年の関東大震災後は、地球物理学の立場で地震の詳しい調査を行いました。

関東大震災は、寺田寅彦の以後の学者人生にも大きな影響を与えました。 もともと地球物理学者、海洋物理学者であった寺田は、震災後震災予防調査会の震災特別委員会委員に任命され、被災関東地方各地に調査に行って災害の状況をつぶさに記録しました。
  穂芒や
     地震に裂けたる
         山の腹
    山さけて
       成しける池や 
          水すまし
     
     
     寺田寅彦
秦野市では大正関東大地震により市木沢という川が幅200mにわたって陥没したため、流れがせき止められて「震生湖」という湖ができました。寺田はその湖に2度調査に訪れましたが、上記右側の俳句はその際に詠んだものです。

詩人 北原白秋

北原白秋  詩人 北原白秋は1885年(明治18年)に九州熊本に生まれ、柳川市で育ちました。その後、上京して早稲田大学英文科に入学しました。

卒業後、雑誌 『明星』 などに詩を発表し、さらに短歌でも活動して与謝野晶子、石川啄木、森鴎外らと交際しました。

白秋は詩、短歌以外にも童謡、新民謡などにも多くの作詞をしており、《からたちの花》、《ペチカ》、《城ヶ島の雨》 など国民的な歌謡の作詞者として名を残しました。
また、校歌、応援歌などを非常に多数手がけたことでも有名です。

 詩、短歌に比べると数は少ないですが、白秋は俳句も多数残しています。白秋は小田原在住中に大正関東大地震に遭遇しました。大地震の震源に近かった小田原では地震の揺れはすさまじく、海岸にはかなりの津波が押し寄せたそうです。

次の俳句は、大正関東大地震の後、庭の芙蓉の花が地震の前と変わらず静かに咲いているのを詠んだものでしょうか。
  朝咲いて
     晝間の芙蓉に
         震絶えず
   日は閑に
       震後の芙蓉
          なほ紅し
     
     
     北原白秋

 また、白秋は大正関東大地震の短歌もいくつか残しています。

   この大地震(おほなゐ) 避くる術なし ひれ伏して 揺りのまにまに 任せてぞ居る

   篁(たかむら)に 牝牛草食む 音きけば さだかに地震(なゐ)は はてにけらしも

大正関東大地震の後に詠まれた俳句や短歌を調べていて、地震後の牛の様子を詠んだものがかなりあるのに気がつきました。大地震の激動後にも牛が動ずる気配もないのに感銘を受けたのでしょうか。



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