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野煙る ・ エッセイ
関東大震災と俳句 (2)
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政治家 永田秀次郎
 政治家 /俳人永田秀次郎は1876年(明治9年)に兵庫県淡路島に生まれました。三重県知事をを経て二期にわたり当時の東京市の市長を勤め、数々の業績をあげました。
旧制高校時代に俳句の手ほどきをうけ、やがて高浜虚子の門下となって青嵐の号で本格的に句作をはじめました。青嵐は、生涯に数万句を詠んだということです。

当時、東京市長であった後藤新平が東京市の大改造計画を練っていました。永田は後藤に請われて東京市助役となり、1922年には47歳で市長に就任しました。

浅草寺 翌1923年9月に大震災が勃発すると、永田は直ちに東京市民の安全確保と被災者の救援に向かいました。
夜になって浅草に行ったとき、遠くの大火災が反映する夜空のもと、大きなお寺がそびえているのが見えました。浅草寺は幸いにも倒壊を免れ、その後下町一帯を襲った大火にもあわなかったのです。
あたり一帯の建物が倒壊した中、残った大寺のシルエットを見て、青嵐は感に堪えず次の俳句を詠みました。

永田青嵐
   天の川の 下に残れる 一寺かな

永田はその後後藤新平に協力して東京市を復興させるとともに世界に通用する近代都市に改造する事業に取り組みました。
そのころ永田は次の俳句を詠みました。

   焼けてすぐ 芽ぐむ力や 棕梠の露

兵庫県淡路島洲本にある永田の実家には、永田秀次郎の次の句碑が置かれているそうです。

   震災忌 吾に古りゆく 月日かな

                 永田青嵐

作家 内田百

 内田百  内田百閧ヘ1889年(明治22年)に岡山県に生まれました。少年時代に当時刊行された夏目漱石の 『吾輩は猫である』 を読み、文学を志しました。

東京帝国大学在学中の1911年(明治44年) に病気療養中の漱石を見舞いに行き、その弟子になりました。まもなく同じく漱石の弟子になった芥川龍之介と親しくなりました。
百閧ヘ漱石に傾倒した少年時代から俳句を詠んでいましたが、芥川と知り合ったころからさらに俳句に熱中するようになったということです。

百閧ヘ、大学卒業後陸軍士官学校、法政大学のドイツ語教師として勤めました。

1923年(大正12年)に当時東京新宿区にあった陸軍砲工学校の教授に任ぜられましたが、その年の9月1日に関東大震災に罹災しました。
百閧ヘ、デリケートな性格で怖がりだったそうです。大震災後10年も経ったころ、ようやくその体験を短編小説などに書き始めたということです(私はまだそれらを読んでいません)。

同じころの作かと思われますが、百閧フ大震災を詠んだ俳句をいくつか目にしました。私はこれまで百閧フ俳句を知りませんでしたが、優れた俳句が多いのに驚きました。

    茶の花を 渡る真晝の 地震かな

    山村に 晝の地震や 梨の花

    蝙蝠や 途次の地震を 云ふ女    内田百                  

俳人 山口青邨

俳人 山口青邨  俳人 山口青邨は1892年(明治25年)に岩手県盛岡市に生まれました。東京帝国大学工科大学採鉱科卒業後、古河鉱業勤務を経て1921年に東京大学助教授に就任しました。

その翌年の1922年、青邨は高浜虚子を指導者として水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと「東大俳句会」を結成しました。

その後も青邨は高浜虚子に師事し、俳誌 『ホトトギス』 で活躍しました。品格と節度のある写生句で知られ、「文人画的」と評されました。
生まれ故郷である東北地方を詠んだ俳句が多いことでも有名です。

高浜虚子は、大災害、戦争などは俳句になじまないとして関東大震災を俳句に詠むことはしませんでした。それにならってか、ホトトギス同人の俳人たちはあまり関東大震災の俳句を詠んでいません。その中で、青邨は大震災後に次の静謐な俳句を残しました。

    琴の音の
        しづかなりけり
            震災忌   山口青邨

青邨は96歳の長寿を全うしたので、終戦後の平和な時代にも盛んに俳句を詠みました。そのころの作品でしょうか、次の瑞々しい俳句を見つけました。

    ショートケーキ 苺を高く 銀座春    山口青邨

晩年の青邨は甘党だったのでしょうか。大震災の記憶は年月の中に薄れ、ゆったりと銀ブラを楽しんだのでしょう。平和はまことにありがたいものです。

俳人 水原秋櫻子

水原秋櫻子  水原秋櫻子は1892年(明治25年)に東京に生まれました。上記山口青邨と同年の生まれです。

東大在学中に山口青邨らとともに高浜虚子に師事するようになり、短歌的な詩的世界の俳句を盛んに 『ホトトギス』 に発表して注目をあびました。

1923年に関東大震災が起こると、虚子は鎌倉から三浦半島を歩いて横断して横須賀に行きました。その後、船で東京湾を渡って東京芝浦に上陸し、さらに歩いて丸ビル内のホトトギス発行所に入りました。その後ホトトギス同人たちを動員して俳誌 『ホトトギス』 の発行継続に奔走しました。

この間、秋櫻子は虚子に協力してホトトギス発行継続のために忙殺されたと思われます。その年の暮れに秋櫻子が関東大震災を詠んだ俳句が残っています。

    地震過ぎて
        夜空に躍る
            冬の梅    水原秋櫻子
その後、言葉の日常性を抑えその詩的連想性を重視する秋桜子と、従来からの客観写生路線を唱える高野素十およびそれを支持する虚子との間で俳句上の論争が絶えなくなりました。 ついに1934年、秋桜子は 『ホトトギス』 を離脱し、俳誌 『馬酔木』 を創立して独自の俳句活動をはじめました。

俳人 川端茅舎

弥勒仏  俳人 川端茅舎(ぼうしゃ)は1897年(明治30年)に東京日本橋に生まれました。高名な日本画家川端龍子とは異母兄弟にあたり、自らも画家の勉強を始めましたが、それと並行して少年時代から俳句に熱中しました。

その後肺患により画家の道をあきらめ、俳諧に専念するようになりました。30歳ごろから 『ホトトギス』 の雑詠欄に投句をし始め、やがて高浜虚子の弟子となりました。茅舎の句は虚子に高く評価され、1934年に 『ホトトギス』 同人となりました。

茅舎は仏教を深く信仰し、『茅舎浄土』 と評された仏教の俳句を多数残しました。

1923年9月、26歳だった茅舎は東京日本橋の自宅で関東大震災にあいました。その後起こった猛火に追われて、茅舎は父母とともに隅田川にかかる新大橋の上に避難し、かろうじて生きながらえることができました。

その数日後、茅舎は両親とともに東京を脱出して信州渋温泉に移りました。その地には「埋もれ弥勒」と呼ばれる弥勒石仏があります(上の写真)。この石仏は平安時代に温泉の薬効を祈って立てられた後、地崩れにより埋まっていましたが、平安末期に発見され、以来下半身が地面に埋まった状態で人々の信仰を集めているということです。

茅舎はその弥勒石仏を見て深く感銘を受け、次の俳句を詠みました。

    露径(つゆこみち)
        深う世を待つ
            弥勒尊   川端茅舎

関東大震災の際、東京で生死の境を見た茅舎は、この地で長く地中に埋もれていた後復活した弥勒石仏を見て感無量だったのでしょう。

作家 横光利一

横光利一  作家 横光利一は1898年(明治31年)にに福島県に生まれました。その後早大英文科に入学しましたがまもなく中退し、菊地寛の知遇を得て 『文藝春秋』 の同人になりました。

横光は大正10年ごろから象徴主義的、表現主義的な手法による短編小説を多数書きました。1923年(大正12年)に邪馬台国の女王卑弥呼を主人公とする短編小説 『日輪』 を発表しました。

横光は、芭蕉につながる家系の出とされることもあり、早くから俳句に親しんでいました。また、石田波郷など水原秋桜子門下の若手俳人と交流を強め、句会「十日会」を結成しました。

横光は、神田の東京堂書店の店先で雑誌を立ち読みしていたときに大震災に遭遇しました。それから10年以上経ったころ、横光は講演の中で次のように語っています。
狭い道路で家が建て込んで居て、その家がバタバタ と倒れて行く。それと同時に壁土やなんかが もうもうと上つて、其の辺は真黒になる。
私はその時これが地震だとは思はなかつた。これは天地が裂けたと思つた。絶対にこれは駄目だ、地球が 破滅したと思つた。
当時の神田に多かった古い家は、耐震性能がまるでなかったので、巨大地震の最初の揺れであっけなく倒壊したのでしょう。横光は、それを目の当たりにしても現在起こっていることを信じられず、頭の中が真っ白になったようです。

そのころ、横光は次の俳句を詠みました。

    二百十日
        塀きれぎれに
            蔦(とび)の骨    横光利一

長い塀の各部分がばらばらになって倒れている様子を「蔦の骨 」と詠んだのでしょうか。

俳人 山口誓子

山口誓子  俳人山口誓子は1901年(明治34年)に京都に生まれました。第三高等学校に進学してから俳句に関心を持ち、高浜虚子のもとに入門しました。

その後東京帝国大学法文学部に入学し、「東大俳句会」に参加しました。山口青邨は、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4名を「ホトトギスの4S」と呼んだそうです。

1923年、東大在学中の24歳のとき、誓子は高等文官試験(司法科)の受験勉強をしていました。
誓子は「法律の勉強には条文の丸暗記や論理的な解釈が必要で、味気ないわびしい勉強だ」と語ったとのことです。

その年の9月1日、誓子は東大近くの下宿で関東大震災にあいました。関東大震災後の冬に誓子がを詠んだ俳句が残っています。

    学問の
        さびしさに堪へ
            炭をつぐ    山口誓子

この試験勉強で無理したのか、やがて誓子は肺患となって大学を休学し、高等文官試験の受験は断念することになりました。

誓子はその後もホトトギスで活動しましたが、1935年になって 『ホトトギス』 を離れ、盟友水原秋櫻子が創立した俳誌 『馬酔木』 に同人として参加しました。以降、誓子は秋桜子とともに昭和の新興俳句運動を推進して行くことになりました。

誓子は1953年に兵庫県西宮市苦楽園に転居し、1994年(平成6年)3月、92歳の長寿を全うしてこの世を去りました。その翌年1月、淡路島を震源とする阪神・淡路大震災がおこり、誓子が住んでいた西宮市の家は倒壊しました。

俳人 京極杞陽

京極杞陽  俳人 京極杞陽(きょうごく きよう)は1908(明治41)年に東京市に生まれました。

学習院中等科(現在の学習院中・高等科)に通っていた1923年に、関東大震災に羅災しました。
杞陽一家の屋敷は倒壊し、その後起こった猛火で祖母、父母、弟妹ら家族8人中7人を失ないました。杞陽自身も猛火に追われましたが、かろうじて難を逃れたそうです。

1934年に東大を卒業し、ドイツ・ベルリンに留学しました。1936年4月、高浜虚子がベルリンを訪れたので、ベルリン日本人会が句会を催しました。

かねてより俳句に関心のあった杞陽は句会に参加し、その場で虚子のもとに入門しました。その後杞陽は句作に熱中し、『ホトトギス』 には9回巻頭に選ばれたということです。

しかし、関東大震災で家族7人を失ったトラウマはあまりにも大きく、しばらくはとても大震災の俳句を詠むことはできなかったようです。大震災から実に35年経った1958年に、杞陽はようやく意を決して次の震災忌の俳句を詠みました。
  電線の
     からみし足や
         震災忌
    わが知れる
       阿鼻叫喚や
          震災忌
     
     
     京極杞陽
関東大震災から90年近く経った2011年3月11日、ふたたび巨大地震が東日本を揺るがし、多くの人命が失われました。関東大震災の際の杞陽と同じように家族知人を失ってトラウマに陥った方々も多いことでしょう。犠牲者の皆様のご冥福を深くお祈り申し上げます。



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