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野煙る ・ 俳句エッセイ
奥の田植え唄
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奥州の歌枕

 1683年1月、松尾芭蕉は「八百屋お七の大火」によって深川の草庵から焼け出されました。その年の9月になって、門人・知友ら50人の勧進喜捨により、焼失した第一次芭蕉庵から遠くない長屋に新たな庵を造り、また芭蕉庵と命名しました。

その後芭蕉はこの草庵を拠点として活発な創作活動を行いました。前年、芭蕉は母の死の報を受けながら帰郷できず、大変悲しい思いをしました。やっと生活も落ち着いたので、芭蕉は翌1684年8月、母を弔うために郷里大垣に向かいました。芭蕉の句集 『野ざらし紀行』 は、この母の墓をもうでる帰郷の旅で作られたものです。

奥州の歌枕  芭蕉はかねてより平安末から鎌倉時代にかけての歌人西行に傾倒しており、和歌の奥深さを取り入れた新境地を開きたいと願っていました。

西行は日本各地を旅行して多くの和歌を詠みましたが、それら和歌の芸術世界とその題材とされた名所旧跡とが融合して歌枕と呼ばれます。

この時期に、芭蕉は句作の上で行き詰まりを感じたといわれます。敬慕する西行が歩いた東北の歌枕を訪ねて、なにか突破口を見つけたいと考えたのでしょう。1689年春、芭蕉は深川の芭蕉庵を売却して大旅行の路銀をつくりました。

奥州への旅立ち

 元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は弟子河合曾良を伴って奥の細道の旅に出立しました。新暦では5月16日にあたり、江戸では風薫る時期のことでした。

弟子曽良は、その大旅行のために奥羽・北陸の名所旧跡・歌枕・神社仏閣などついて調べ、メモを作りました。芭蕉主従はそのメモを参考にして北に向かって歩きました。

4月1日に主従は日光に着き、完工してまもない東照宮を参拝しました。
4月3日には主従は那須野黒羽町に入り、弟子翠桃の家を訪ねました。

甲斐の国谷村  左の地図は、現在の栃木県・福島県の県境部を示します。東京を出た東北新幹線は、那須塩原駅、新白河駅を通り、郡山駅に向かって北上します。

栃木県黒羽町の弟子翠桃の家で長逗留した芭蕉一行は、その後現在の東北新幹線に沿うように北上し、那須の名所殺生石を見物しました。

その地の東には西行が

道のべに清水ながるる柳陰
    しばしとてこそ
         立ち止まりつれ

と詠んだ歌枕の地「遊行柳」があり、芭蕉はかねてよりそこに行くのを願っていました。

遊行柳

遊行柳  旧暦4月20日、芭蕉と曾良は「遊行柳」 の地、那須芦野に着きました。上の地図下部@の地点で、現在の那須町の少し東側になります。

この年は西行が没してから500年目に当たります。敬慕する西行の500年忌に歌枕の柳を見て、芭蕉は大いに感激したことでしょう。
『奥の細道』 のなかでは芭蕉は「いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」と書いています。

西行の後、16世紀に観世小次郎信光作の謡曲 『遊行柳』 がこの柳を題材としたことから、この地は一躍非常に有名になりました。

遊行柳  水田が広がる中に道が一筋伸びており、その中ほどに大きな柳の木が2本繁っていました。
上の写真で向かって左側の木が「遊行柳」 の子孫とのことで、その根元には芭蕉がこの地で詠んだ俳句の句碑が置かれていました。

  田一枚
      植て立去る
          柳かな   松尾芭蕉

芭蕉がここにきたのは、新暦では6月初旬ごろでした。現在では、東京など関東南部では田植えは5月中旬に行うことが多いようです。

東京より少し北方にある那須では、この時期に田植えをしたのでしょう。もうかなり暑くなったこの時期に長い道中を歩いてきた芭蕉は、涼しい柳のもとで休みながら、目の前の水田で田植えが行われる様子をながめたのでしょう。

みちのくに入る

 遊行柳を見た後、芭蕉と曽良は、北東9kmほどのところにあるという白河の関跡に向かいました。この道筋については『奥の細道』 本文には記述がなく、『曽良随行日記』 に「関の明神」という県境の神社が「下野」側と「奥州」側に一つずつあったと書かれています。
数年前に私どももこの道筋(旧奥州街道)を自動車で通ったのですが、実はこれらの神社の由来はよく知らず、前を素通りしてしまいました。

曽良日記によると、主従はその日のうちに「旗宿」という宿場に入り、念願のみちのくで最初の晩を過ごしました。源頼朝が関東で挙兵したとき、平泉にいた弟源義経は兄の軍勢に加わるため関東に向かいました。その途中、義経はこの地に立ち寄り、白河神社で必勝祈願をしたとされます。悲劇の武将源義経への思い入れが強かった芭蕉は、義経に縁のあるこの宿場に泊まって感無量だったことでしょう。

白河の関跡
 白河の関は、奈良時代から平安時代にかけて関東と奥州との境界として重要な役割を果たしました。平安時代、11世紀の歌人能因法師が

    都をば 
        かすみとともに立しかど
            秋風ぞふく白河の関    能因法師

と詠んだ歌枕の地です。その後は西側に新しい奥州街道が開通したためにこの関は利用されなくなりました。

芭蕉がこの地に来たのは関が廃絶されてから500年以上も経った後のことで、すでに白河の関がこの土地のどこにあったのかも知る人は少なくなっていました。
幸運にも芭蕉たちが宿泊した旗宿の主人がその場所を知っていたため、翌朝主従は教えられた場所に行き、かろうじて能因法師の和歌の精神に触れることができました。

その後、幕末も近くなった1800年に、当時の白河藩主松平定信は白河の関跡の調査検証を命じた結果、平安時代に白河の関があった場所が特定されました。それが上の地図下部Aの地点で、現在の白河市の少し南側になります。
定信はその場所に「白河神社」を建立させましたが、その一帯が現在は「白河の関跡」として、国の史跡に指定されています。

白河の関跡

 私どもも、数年前に那須芦野に続いてこの白河の関跡を訪れました。シーズンもやはり芭蕉と同じころ、新暦5月末のことで、山郷全体を覆いつくす新緑の美しさに圧倒されました。

現在、上の写真の奥には石段があり、それを登った丘の上には松平定信が建立させた白河神社があります。定信は神社建立と同時に周囲の山林も整備させたことでしょう。私どもが行ったときは白河の関跡一帯は亭々たる落葉樹の森になっており、陽光がほとんど隠されて初夏でも吹く風が冷たく感ずるほどでした。

上を見上げると、巨樹には山藤やつたがからまって天に向かって伸びています。高いところに山藤がたくさん咲いているのが実にみごとでした。この光景は定信が白河の関跡を整備させた200年以上前からまったく変わっていないのでしょう。

まづ早苗にも風の音

早苗にも風の  『奥の細道』 の中には、芭蕉が白河の関跡で詠んだ俳句は掲載されていません。
しかし、曽良が書いた『俳諧書留』の中に芭蕉作として次の俳句が記載されています。

  西か東か
      まづ早苗にも
          風の音   松尾芭蕉

芭蕉主従は旗宿の周辺で能因法師が詠んだ歌枕の痕跡を求めてほうぼうを探し回りました。その苦労がこの俳句の上の句「西か東か」に反映されているといわれます。

早苗にも風 芭蕉が白河の関跡に行ったときは、丘のふもとにただ藪が茂っているだけだったと思われます。能因法師の歌枕の興趣は見出せず、芭蕉が少なからず落胆した様子がうかがえる俳句です。

旗宿でもほうぼうの水田で田植えが行われていましたが、芭蕉は植えられたばかりの苗の上をわたる風の音を聞いて能因法師の和歌に詠まれている風を思ったのでしょう。

私どもが上の写真の白河の関跡を出てしばらく水田のなかを自動車で走ったところに、この俳句の句碑がありました。早苗田をわたる風の音は、芭蕉の時代も現代もまったく変わりませんでした。

須賀川に向かう
 曽良日記によると、白河の関跡を出た芭蕉主従は北に向かい、その日は白河の関跡から4里ほどのところにある現在の福島県矢吹町に宿をとりました。

翌旧暦4月22日、二人はそこから15km近く北にある須賀川に向かいました。上の地図で上部のBの地点です。須賀川には江戸で知り合った俳人相楽等躬がおり、芭蕉と曽良はにその等躬の家を訪れてその後6日間逗留しました。

曽良日記には旧暦4月24日に等躬の家で田植えがあったと書かれているので、芭蕉は早乙女たちが田植え唄を歌いながら早苗を植える様子を見たのでしょう。

奥の田植え唄

風流の初め
 その日の午後、等躬は土地の俳人たちを家に呼び、句会を催しました。その席で、芭蕉は次の有名な俳句を詠みました。

   風流の
       初めや
           奥の田植え唄    松尾芭蕉

その日の午前中に見た早乙女たちの田植えを題材とし、それが奥州の風雅を知る最初になったと詠んだものです。芭蕉は各地に旅行して句会を催すとき、まずその土地の風光を賞賛する「挨拶句」を詠むことが多かったそうです。

この1週間ほどは、芭蕉は新緑に包まれた栃木・福島の県境を古人の歌枕を訪ねつつ歩きました。その地域では関東地方よりやや遅い田植えが進行中であり、人々が忙しく働いた後の水田では瑞々しい早苗が田の面に広がっていました。その光景を目にした芭蕉は、それまでの江戸での生活とはまるで異なる感銘を受けたことでしょう。

また、上掲句の場合は田植え唄という音楽があたかも舞台のバックに流れる音楽のように俳句を引き立てる効果を発揮しているのを感じます。このように音楽のイメージを活用した俳句は、わたしは上掲句のほかには知りません。

奥州の田植え

奥の田植え唄  『奥の細道』 の文中、上掲句の前文には「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず」とあります。それでも句会の4日後、ようやく疲れの薄れた芭蕉と曽良は北方の郡山を目指して旅立つ準備をしました。その後、須賀川の十念寺、諏訪明神に参詣して道中の無事を祈りました。

須賀川・十念寺の境内には、上掲「奥の田植え唄」の俳句を刻んだ句碑が置かれています。須賀川の女流俳人市原多代女という人が幕末に近いころに建てたものだそうです。昔から芭蕉の研究家はみなこの句碑を訪れるようです。

この年の旧暦3月末に、芭蕉は弟子曾良を伴って現在の千住大橋の近くから日光街道を北に向かって歩き始めました。芭蕉は俳境の行き詰まりを感じており、それを打開する道をもとめて旅に出たともいわれます。

見送りに来ていた弟子たちは、すでに当時としては高齢になっていた芭蕉の長旅に懸念をいだいたことでしょう。芭蕉は旅立ちに際して次の有名な俳句を詠みました。

    行く春や
        鳥啼き
            魚の目は泪    松尾芭蕉

まさに不安がいっぱいという心境が感じられます。芭蕉は、道中で死んでもかまわないという悲壮な覚悟で奥州に向けて出立したのです。

しかし、新緑に包まれた栃木・福島の県境を歩き、瑞々しい田植えの光景を何度も見ることで、芭蕉はふたたび創作の意欲を取り戻したように思われます。
それにより芭蕉は奥州の旅に本格的に踏み出すことになり、やがて生涯の大事業であった俳文集 『奥の細道』 を完成することができました。みちのくの田植えは、芭蕉にとって生涯のメルクマールの一つになったのでしょう。



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