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断髪と洋装
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第一次大戦時の女性

第一次大戦時のイギリス女性  第一次世界大戦は、1914年6月末にバルカン半島のサラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が暗殺されたことから始まりました。

やがて各国が相互に締結していた同盟関係によりヨーロッパの大多数の国々が戦争に参加することになり、戦火はヨーロッパ全域に拡大しました。

当時、フランス、イギリスでは男性が多数戦地に赴いたため労働力不足に陥り、それを補うために女性たちが工場などさまざまな場所で働きました。

左の写真は、ドイツの空爆を受けたイギリス・ロンドンで女性たちが結成した消防隊です。

女性消防隊の皆さんは、断髪に消防隊の制帽をかぶり、ワンピースの制服にはきりりとベルトを締めています。もちろん彼女らがコルセットなどを着用していたわけがありません。

このように、第一次世界大戦中に男性たちを補うかたちで女性たちが社会の各所で働きましたが、世界大戦が終了しても男性たちの戦死が多かったので女性たちの社会進出が続きました。それら女性たちの中には、社会進出で業績をあげて男性たちと対等以上に仕事をするようになった人も現れました。

フラッパーの出現
 そのようにして経済的自立を得た女性たちは、それまでイギリスの社会で形成された女性の伝統的イメージにとらわれない自由な生き方をする人が多くなりました。1918年に第一次世界大戦が終了した後は、そのような独立心旺盛で享楽的な生活を好む若い女性層は「フラッパー」 と呼ばれるようになりました。

ヨーロッパ全体を4年にわたって戦場とした第一次世界大戦では、アメリカは実質的な損害はほとんどこうむりませんでした。逆に、戦争に必要な兵器など軍需品や食糧を大量にヨーロッパに供給したことで、アメリカは莫大な利益を手にしました。

それにより、アメリカは空前の好景気を謳歌することになりました。アメリカ合衆国の1920年代は、狂騒の20年代(Roaring Twenties)とか「ジャズ・エイジ」と呼ばれています。.

華麗なるギャツビー ヨーロッパのフラッパー文化は、たちまち大西洋を越えてそのアメリカ合衆国に伝播しました。

作家スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダは派手な性格で、ニューヨークの社交界に入り浸っていました。ゼルダは上記のようにアメリカに流行したフラッパーの一人だったのでしょう。

フィッツジェラルドは1925年に一生の代表作となった 『グレート・ギャツビー』 を出版しました。
アメリカ人の心のふるさととなったジャズ・エイジのニューヨーク社交界を描いたもので、発表以来人気を得て何度も映画化されてきました(左の写真)。

 ココ・シャネル 当時のフラッパーのスタイルは、同時期にフランス・パリで流行したデザイナー ココ·シャネル(左の写真)のファッションに大きく影響されました。

髪はボブカットと呼ばれるショートヘア、ドレスはウェストのくびれがないストレートなノースリーブ、ひざ丈のスカートにハイヒールというものでした。

ココ・シャネルが日焼けした肌を推奨した後、フラッパーの間でも小麦色の健康肌が流行しました。
鮮やかな赤い口紅、アイライン、アイシャドウなどの化粧を若い女性たちが普通にするようになり、年配の婦人たちを驚かせました。

黄色いロールスロイス アメリカでは1908年ごろからヘンリー・フォードらにより自動車の生産が本格的に始まりました。1906年にはアメリカ全土で10万台だった自動車は、1926年には300万台以上に急増しました。

社会に進出し、男性と同じ仕事をするようになった女性たちは次第に自動車に親しみ、自動車運転の免許を取得する女性が増えてきました。

上記フィッツジェラルドの 『グレート・ギャツビー』 では、主人公の恋人デイジーが黄色いロールスロイス(左の写真)を運転していて夫と不倫関係にあった女性マートルをはねて死なせる場面があります。

大正美人のイメージ

大正美人  インターネットで調べているうちに、ノンフィクション作家森まゆみさんがこの時期についての著作が多いのを知りました。森まゆみさんは1954年に東京都文京区に生まれ、東京都の地域文化史、明治以降の女性史に大きな業績をあげてきました。

左の写真は森さんが2000年に刊行した書籍の表紙ですが、、明治17年生まれの日本舞踊家林きむ子の写真を掲載しています。林きむ子は大正三美人の1人として数えられ、明治から大正にかけて流行した「美顔水」を考案したということです。
この写真から、大正の初めごろ、30歳代の女性の服装、髪型を知ることができます。

上の写真の髪型は「庇髪(ひさしがみ)」といい、明治末期から大正中ごろにかけて、日本女性の代表的なヘアスタイルでした。前髪の部分にはすき毛などを挿入して大きく膨らませており、後頭部はさまざまなかたちの髷を結っていました。明治時代の日本髪に比べると、髷は形がシンプルでサイズも小さくなっているということです。

なお林きむ子さんは、先日なくなられた俳優藤田まことさんの伯母にあたるそうです。

断髪のモダンガール

耳かくし  ココ・シャネルらが主導したヨーロッパの第一次世界大戦後のファッションは、戦勝国の一つであった日本にもいちはやく伝わりました。

左の写真は大正10年ごろ流行した「耳かくし」というヘアスタイルです。前記ココ・シャネルのヘアスタイルと同じく短髪でウェーブをかけていますが、前髪は七三に分けていました。

当時は洋装は髪から靴までそろえるとかなりお金がかかったこともあって、一般にはなかなか普及しませんでした。そこで、和装にも洋装にもよく似合うこのようなヘアスタイルが大いにうけたのです。

まもなくアメリカのフラッパー・スタイルが、来日したアメリカ人女性たちを通じて横浜、東京に流入し始めました。このころ日本のインテリ階級ではキリスト教に入信する家も多く、それらの子女からアメリカ文化に憧れてフラッパー・ファッションを身にまとう人が出てきました。

ノンフィクション作家森まゆみさんは、2008年に 『断髪のモダンガール』 を発表し、大正中期以降に断髪で活躍した女性たち42人のプロフィールを紹介しました。その本で最初に書かれているのが、婦人記者のはしりといわれた望月百合子さんについてでした。

 ココ・シャネル 望月百合子さん(左の写真)は1900年(明治33年)生まれ、市ヶ谷の女学校に通っている時期にアメリカ人アグネス・アレクサンダーの唱導する平和運動に加わりました。アグネスからは英語も教えてもらい、世界に向けて目を開くようになりました。

第一次世界大戦が終わってまもない1919年に、望月さんは読売新聞社の婦人記者になりました。

毎日取材に歩く仕事でしたが、毎朝髪を結うのが面倒でなりませんでした。また、着物に草履で市中を歩くのは大変で、足袋の汚れにも困りました。
ついに友達といっしょに外国人女性行きつけの美容院に行き、断髪を敢行しました(左の写真)。

それに合わせて東京の紳士服店に行き、友達はピンク、自分は白いドレスをあつらえました。婦人靴は、東京では見つからなかったので横浜・元町に行って購入し、同時に下着、靴下も買いました。帽子はアグネスさんがくれたそうです。

さて、その断髪・洋装で望月さんは市中取材に出かけましたが、町行く人から笑われたり、ぞろぞろとついて歩く人が出てきたりと大変な目にあったそうです。元祖モダンガール望月百合子さんは、まさにパイオニアの悩みを味わうことになりました。

洋装制服の登場

バスガール  日本でも、第一次世界大戦の後は女性の社会進出が各方面で次第に進展しました。
それまでは女性の職業といえば学校教師、電話交換手、看護婦などでしたが、大正9年(1920年)にいたって東京市街自動車に女性車掌(バスガール)が登場しました(左の写真)。

機能的なツーピースの制服は白い襟が人気となり、バスガールの応募者が殺到したそうです。

女性たち個人の洋装はかなりお金がかかることもあり、普及には若干の時間がかかりましたが、バスガール、電話交換手など公的職業の制服としては洋装は大正の中期以降急速に広まりました。

看護婦 看護婦は、明治時代中ごろから女性の職業として確立しました。1904年から始まった日露戦争においては2160名もの日赤看護婦が内地の陸海軍の病院に勤務し、以後看護婦は新しい女子の職場として大いに人気が高まりました。

明治時代の看護婦の写真を見ると、髪型は大きな庇髪でだぶだぶした白衣を着けています。
それに対して左の写真は大正20年ごろの看護婦の勤務情景で、耳を出したコンパクトな髪型になりスマートな白衣を着ています。

このような新時代の看護婦の姿が、その後の断髪・洋装の普及に大いに影響したと思われます。

看護婦 左の写真は、上とほぼ同じ時期の日赤看護学校の制服です。写真左側はかなりフォーマルなツーピースのように見えますが、こちらは入学式、免状授受式などの際に着たとのことです。

写真右側は薄いジャケットにロングスカートの組み合わせで、通常の登校時に着用したようです。
どちらも看護学校生のイメージに合ったきりっとしたスタイルで、第一次世界大戦後の若い女性たちの間で評判になったことでしょう。

左の写真では、髪型は上の看護婦のヘアによく似た短髪で、髪の毛の末端は後頭部にまとめ、そこに看護帽をのせたようです。

女学校の制服

女学校の制服  大正初めの女学生は、テレビアニメ 「はいからさんが通る」でおなじみの背中に垂らした長い髪を大きなリボンで結び、矢絣柄の着物をつけるのが普通でした。

やがて通学の利便性、体操教育の必要性が高まり、また和装はお金がかかるなどの理由から、女学校では洋装が検討されるようになりました。
京都の平安女学院では、第一次世界大戦後の大正9年(1920年)に日本の女学校で最初に洋装の制服を採用しました。礼拝奉仕する修道女のイメージや和服の着物襟に近くなじみがあるなどの理由で、セーラー衿のついたワンピースとしました(左の写真)。

セーラー服 平安女学院の洋装制服は大人気となり、ミッション系の女学校を中心に次々と採用されるようになりました。

大正11年(1922年)には、福岡女学院(福岡市)で最初のセーラー服が制服として採用されました。
セーラー衿のついた上着とジャンパースカート(袖のないワンピース状のスカート)を組み合わせた上下セパレーツ(左の写真)で、通学、体操教育にも便利であったことから人気を集めました。

これら女学校の洋式制服が大正から昭和にかけての洋装の普及に大きく影響を及ぼしたのは明らかです。

作家 田村俊子
 田村俊子は、1884(明治17)年に東京で生まれました。東京府立第一高女時代から作家を志望し、幸田露伴の許に弟子入りしました。その後日本女子大学校国文科に入学しましたが、1学期で中退したということです。岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になり、まもなく彫刻家の田村松魚と知り合って1909年に結婚しました。

1911年、大阪朝日新聞の懸賞小説に 『あきらめ』 で応募して一等になり、文壇にデビューしました。その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」などの雑誌に次々と小説を発表し、大正末期の人気作家の一人になりました。

作家 田村俊子 1918年、田村松魚と別れ、新聞記者鈴木悦の後を追ってカナダ・バンクーバーに移住しました。その地では邦字紙大陸日報の編集に参加しました。

左の写真はバンクーバー在住の時期のものと思われ、ウェーブをかけた短髪につばの短い帽子をかぶり、毛皮のコートを着ています。

1936年、鈴木悦が死去したため、俊子は18年ぶりに日本に帰国し、作家活動を始めました。
昭和13年(1938年)、日本を離れて上海に渡り、中国語婦人雑誌 『女声』 を主宰しました。
昭和20年、日本敗戦の少し前に、俊子は上海で脳溢血により客死しました。享年62歳でした。

俳人 杉田久女
 杉田久女は、1890(明治23)年に鹿児島県に生まれました。東京のお茶の水高等女学校を卒業した後、明治42年に画家杉田宇内と結婚し、九州小倉に赴任しました。

久女は、育児の傍ら兄の影響で俳句を始め、やがて高浜虚子の主宰する俳誌ホトトギスの雑詠欄に投句するようになりました。こうして久女は、女流俳人の先駆者として有名な長谷川かな女に続く初期の女流俳人グループの一人になりました。

大正8年には後に久女の代表句といわれるようになった次の俳句がホトトギスの雑詠欄に入選し、久女は天才的女流俳人として高名になりました。

    花衣
      ぬぐや纏わる
       紐いろいろ 杉田久女

俳人 杉田久女 左の写真左側は、結婚後小倉に住み着いた明治末期ごろ、久女が21歳ぐらいのときの姿と思われます。大きな庇髪ですが耳を出しており、若い奥さん風の髪型なのでしょう。

左の写真右側は、俳人として高名になった大正8年ごろの姿と思われます。
やはり和装ですが、髪型はご覧のように短髪で前は七三に分けており、新時代の文芸に打ち込む様子を感じさせます。

作家 吉屋信子
 吉屋信子は、1896年(明治29)年に新潟県に生まれ、後に栃木県に移って栃木高等女学校を卒業しました。卒業後に上京して作家を志し、1916年(大正5年)から 『少女画報』 誌に短編連作集 『花物語』 を連載しました。それが少女読者層の熱狂的な支持を集め、吉屋信子は少女小説の人気作家となりました。

第一次世界大戦後の1919年に大阪朝日新聞の懸賞小説に 『地の果まで』 で応募し、一等を獲得して小説家としてデビューしました。信子はこのころから同性愛の傾向があり、それをテーマとした小説 『屋根裏の二處女』 も書いています。

吉屋信子 左の写真は、大正末期ごろ、自分の書斎で撮影したものと思われます。耳の下で見事にカットした断髪を七三に分けた髪型で、シャツの上にスウェーターのようなものを着ています。

1928年(昭和3年)、信子はパートナーの教師門馬千代を伴ってシベリア鉄道経由でヨーロッパに渡り、1年近くパリに滞在しました。その間にイタリア、イギリスに旅行をしたということです。

1937年(昭和12年)に発表した長編小説 『良人の貞操』 は、主人公が女学校時代の同級生と夫との関係を知って悩むストーリーです。この小説は1937年に映画化され、話題になりました。

吉屋信子は上記のように同性愛者として有名でしたが、今で言う「おやじギャル」的な趣味を持つのでも知られました。太平洋戦争の前までは、当時は女性には少なかったゴルフに熱中しました。太平洋戦争後は作家吉川英治に誘われて馬券を買ったのがきっかけで競馬に夢中になり、やがて5頭の競走馬の馬主にもなりました。

食通、愛酒家としても有名で、酒を詠んだ俳句をいくつも残しています。

「アッパッパ」の登場
 大正末期には女学校のセーラー服など洋式制服が広まりましたが、一般の女性には洋装は髪から靴までそろえるとかなりお金がかかったのでなかなか普及しませんでした。
大正16年に資生堂が東京・銀座を歩く女性たちのファッションを調査したところ、断髪・洋装の女性はまだ少数にとどまっていたということです。

アッパーパー その大正末期ごろに、B級洋装の実力派エースともいうべき日本独自の簡単服が出現しました。

それまで日本の女性たちは、夏でも外出時は帯を締めた和装で暑さに耐えていました。

その時期の日本には外国のファッション雑誌などが盛んに流入してきたので、欧米の夏のドレスからヒントを得たホームウェアが考案されました。

左の写真のように襟がなく短い袖の付いたワンピースで、胴にはベルトはなく頭からすぽんとかぶってそのまま着用しました。
えり、すそ、脇から空気が通るので夏には涼しさが抜群で、それまで和装で日本の厳しい夏に耐えてきた女性たちの熱い支持を得て瞬く間に日本中に広まりました。

服の作りは非常に簡単なので、洋裁の技術がない人でも容易に縫い上げることができました。当初は和装の浴衣地をつかって作る人も多かったということです。このタイプのワンピースは、当時「アッパッパ」という愛称で呼ばれました。

一説によると、アッパッパはハワイの女性のドレス「ムームー」をもとにデザインされたということです。アッパッパとムームー、どちらも着やすいワンピースのイメージそのままのおおらかな呼び名ではありませんか。しかし、ハワイのムームーは別に簡単服ではなく、男性のアロハシャツと同じくどんな公式の場でも正装として着用できることになっています。

モガ・モボの時代
 昭和に入ると、日本の国力増加につれ、女性の社会進出はさらに活発になりました。従来の看護婦・教師・電話交換手・タイピストなどのほか、医師・薬剤師・事務員などの新しい分野で女性が活躍するようになりました。

それに従って、官公庁、郵便局、一般事業会社では活動に適した服装として和服を廃止し、機能的な洋服に改めるようになりました。女学校に洋式制服で通学し、自宅ではアッパッパを着用した女性たちは、新時代の社会活動に都合がよく日本の気候にもあった洋装を身にまとい、断髪のへスタイルで社会に進出し始めました。

エノケン 「日本の喜劇王」とも呼ばれたエノケンこと榎本健一は、1919年(大正8年)に浅草オペラの初舞台を踏みました。関東大震災後は映画界に入りましたが、やがてまた浅草オペラに復帰しました。
昭和5年に当時アメリカで流行していたジャズを取り入れた歌曲 《洒落男》 を唄いました。

  ♪ 俺は村中で一番

    モボだと言われた男

    うぬぼれのぼせて得意顔

    東京は銀座へと来た

という歌詞でした。

エノケンの 《洒落男》 はまさにこの時代を象徴する歌曲であり、大衆に受け入れられて大ヒットになりました。モガ・モボ時代の申し子エノケンは、その後も舞台、映画、レコードで活躍し、日本の喜劇界に新時代を画しました。

この歌にあるように、第一次世界大戦終了後、大正半ばから昭和初めにかけてモダンボーイは社会の大流行になりました。しかし、欧米でも日本でも、この時期にドラマティックな大変身をとげ、大きな存在感を示したのは女性のほうだと思います。

その傾向はその後昭和10年代に入ると日本の軍国化により一時弱まりましたが、昭和20年の太平洋戦争敗北後は意気消沈した男たちとは対照的に女性たちは一段と輝きを増すことになりました。本2014年は、第一次世界大戦が始まってから100年にあたります。



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