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野煙る ・ 小説・評論
戦場の作家たち
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火野葦平と戦争
 1937年7月、当時中国北部に駐屯していた日本軍と中国国民党軍が盧溝橋で衝突し、日中戦争が勃発しました。それが継続していた1941年12月、日本帝国海軍の機動部隊がアメリカ合衆国ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まりました。

開戦後、日本軍は中国東岸各地、東南アジア諸国、南太平洋諸国に進出し、それら地域のかなりの部分を実質的に支配下に収めました。

日中戦争  1937年11月、日本軍は中国上海南方の杭州湾に大軍を送って上陸させました。

作家火野葦平は当時早稲田大学英文科に在学中でしたが、急きょ召集され、ちょうど書き上げた短編小説 『糞尿譚』 で芥川賞に応募したまま杭州湾に向かいました。
短編小説 『糞尿譚』』 は翌1938年に選考の結果、大多数の選考委員により高い評価を受け、第6回芥川賞を受賞しました。
この授賞式は、選考委員の一人文芸評論家小林秀雄が賞状を携えて中国にわたり、戦地杭州の火野葦平を訪ねて行なったそうです。

火野葦平  当時ヨーロッパではヒトラーがナチス政権を確立していましたが、ナチスの宣伝相ゲッペルスは作家、音楽家、画家など芸術家を利用してナチス政権の正当化宣伝を行わせていました。

日本陸軍はナチスにならって宣伝活動に乗り出し、まず陸軍に所属して中国で兵役に就いている芥川賞作家火野葦平に接近しました。
まもなく火野は陸軍報道部に転属し、前線の部隊ともに移動しながら戦闘の様子をレポートする従軍作家として活躍するようになりました。

こうして火野は、戦争に向かって突き進む時局に呑みこまれ、軍部との関係を深めて行きました。

『麦と兵隊』

火野葦平  1938年4月、日本陸軍は南京北方徐州で中国国民党軍の大部隊を南北から挟撃する作戦を開始しました。火野は陸軍の命により徐州作戦に従軍し、春たけなわの中国中部を部隊とともに移動しながら、砲弾が飛び交う日中戦争最前線の生々しい様子を日記風に日本に書き送りました。

同年、その従軍記は 『麦と兵隊』 として出版され、緊迫する最前線の兵士の人間性を描いたことで評判を得て当時の大ベストセラーになりました。

『麦と兵隊』 に引き続いて火野は杭州作戦の従軍記 『土と兵隊』 、杭州警備駐留部隊の日々を描いた 『花と兵隊』 を相次いで出版しました。

「ペン部隊」
 1938年、内閣情報部の要請により、日本国内で活動していた作家たちが従軍作家として戦場に派遣されることになりました。同年9月11日、当時軍部に協力していた菊池寛らによって選考された作家グループが、中国大陸に向けて出発しました。後にこれら従軍作家たちは「ペン部隊(文化人部隊)」とよばれました。

この1938年に派遣された作家には、劇作家岸田国士と小説家林芙美子が入っていました。当時は反戦活動は軍部によって弾圧されたり、告訴されたりしたこともあり、大多数の作家たちは程度の差こそあれ戦争を肯定していました。
小説家林芙美子は特に軍部に協力的で、「女でもできることがあったらお役にたちたい、自費でもいいから中国の前線に行きたい」と述べたそうです。

翌1939年以後は、尾崎士郎、井伏鱒ニ、横光利一、海野十三、石川達三などの第一線作家たちがペン部隊に参加して中国などの戦地に赴き、取材活動を行いました。

1941年12月、太平洋戦争が始まると、内閣情報部の指導により、菊池寛らが中心となって「日本文学報国会」が結成されました。菊池寛のほかに横光利一、火野葦平、林芙美子、山本有三、吉川英治などは日本文学報国会で熱心に活動し、日本全国に招かれて講演をして人気を博したということです。

小説家 横光利一

横光利一  作家 横光利一は1898年に福島県に生まれました。早大中退後、菊地寛の知遇を得て 『文藝春秋』 の同人になりました。このころから菊地寛の影響を強く受けたと思われます。

1936年、ベルリン・オリンピックの取材でドイツを訪れ、ナチスが台頭した状況を目にしました。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、横光は海軍の報道員となり、翌1942年には海軍報道班員として南方に派遣されました。

国内では日本文学報国会に参加し、文芸銃後運動を起こして各地で講演を行いました。

小説家 林芙美子
 作家 林芙美子は1903年に下関に生まれました。尾道市立高等女学校卒業後上京し、さまざまな職業を転々としながら文学への道をあきらめず、日記をつけ続けました。

昭和5年に、その日記をもとに芙美子は浮草のように寄辺のない自分の人生を語った 『放浪記』 を発表しました。これが、思いもかけず記録的なベストセラーになり、以後芙美子は人気作家の一人になりました。

上記のように日中戦争勃発後の1938年、林芙美子は志願してペン部隊の一員として中国大陸に渡りました。1938年6月から始まった武漢作戦にはペン部隊の紅一点として従軍し、陥落直後の漢口に一番乗りしたそうです。

ヴィエトナム  太平洋戦争が始まってまもなくの1942年10月から翌年5月まで、芙美子は陸軍報道部報道班員としてシンガポール、ジャワ、ボルネオに派遣され、かなりの期間その方面に滞在しました。

その東南アジア諸国旅行の経験が、後にヴィエトナムを舞台にした小説 『浮雲』 を書くときに生かされました(芙美子はヴィエトナムに行ったことはないということです。左はヴィエトナムの地図)。

芙美子は、菊池寛、横光利一らと同じように国内では各地で盛んに戦意高揚の講演を行いました。
芙美子は講演はなかなか上手で、各地の婦人会などで面白い話をして人気が高かったそうです。

小説家 大岡昇平

大岡昇平  作家 大岡昇平は1909年に東京に生まれました。京都大学仏文科卒業後、新聞記者、翻訳者などをした後、川崎重工業に入社しました。大岡は仏文学者としてスタンダールに強く傾倒しました。

1944年、陸軍に召集され、フィリピンの首都マニラに向かいました。その後、マニラの南方にあるミンドロ島の守備隊に配属されました。

大岡はミンドロ島守備隊ではなんと暗号手として働いたということです。終戦後大岡は推理小説も書いており、また記号論の著作もあるそうですが、それらには暗号手の経験が役に立ったのでしょうか。

日本敗戦後
 1942年6月のミッドウェイ海戦での大敗北以後、太平洋戦争の戦局は急速に日本にとって不利に傾きました。大陸の中国・満州、南太平洋の島々、東南アジア諸国でも日本軍の敗戦が続き、日本は次第に追いつめられて行きました。

1945年8月の原爆投下が止めの一撃になり、日本は1945年8月14日に連合軍に対し無条件降伏をしました。海外で行われていた戦闘はすべて終結し、派遣されていた軍隊はみな現地の連合軍に降伏しました。
海外で暮らしていた日本民間人たちも、一部はシベリアなどに抑留されましたが、大部分は逐次焦土と化した日本国内に引き揚げてきました。

9月8日、日本国内ではアメリカ軍が横浜から首都東京に進駐し、連合国最高司令官マッカーサー元帥による日本統治が始まりました。翌1946年から5月から1948年11月にかけて、日中戦争、太平洋戦争を推進し、世界に多大な損失をもたらした戦争犯罪者を裁く東京裁判が行われました。

作家の戦争責任
 太平洋戦争が終結してまもなく、民主主義文学の創造を目指す文学団体 「新日本文学会」 が新たに結成されました。その機関誌として雑誌 「新日本文学」 が創刊されましたが、その誌上で「文学者の戦争責任追及」が提案されました。
翌1946年、新日本文学6月号で河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、佐藤春夫、武者小路実篤、尾崎士郎ら25名が「戦争責任を負う文学者」として名を挙げられました。

1946年1月、連合国最高司令官覚書により、各界の戦争犯罪人、軍国主義者・超国家主義者らが「公職に適せざる者」として公職から追放されることになりました。
それらの中には、マスコミ界で旧日本軍部に協力したとして作家・大映社長菊池寛が入っていました。菊池は公職追放中の1948年に狭心症により死去しました。

1948年2月、従軍作家などで戦争に協力した文筆家の公職追放が始まり、300人近い作家たちが政治的発言・行動を禁止されることになりました。
従軍作家として活動し、「兵隊三部作」などを著した作家火野葦平は、戦争協力者として1948年から2年間公職追放となりました。火野葦平と同じように従軍作家活動をした作家林房雄、尾崎士郎らも同様の処分を受けました。
火野葦平、林房雄、尾崎士郎は、追放が解除になった2年後からふたたび文筆活動を開始し、新時代にマッチした作品を多数発表して人気を得ました。

作家 横光利一は日中戦争開始以来旧日本軍部との関係を深めていましたが、戦後は文学者としての戦争責任を問われ、文学界で孤立しました。1947年12月、横光は長年わずらっていた胃潰瘍から急性腹膜炎を併発し、49歳の若さでで急逝しました。

林芙美子 『浮雲』

浮雲  終戦前後の作家たちの動向を調べて、林芙美子の活動力の大きさがひときわ目に付きました。

太平洋戦争が始まる直前、1941年8月に芙美子は下落合4丁目に豪邸を造りました。

1944年、東京にアメリカ軍の空襲が始まると、芙美子一家は長野県の温泉地に疎開しました。そのころから機を見るに敏な芙美子は日本の敗戦を予感したのでしょう。

終戦時、芙美子はまだ42歳で作家として油の乗った時期でした。さいわいにも公職追放を免れた芙美子は、さっそく文筆活動を再開しました。

1946年から1948年にかけては 『泣蟲小僧』、 『うず潮』、 『晩菊』などを雑誌に連載し、 その後順次単行本として刊行しました。もはやみな女性路線の作品で、少し前の戦意高揚のトーンはまったく失せていました。

1949年には、芙美子は生涯の傑作 『浮雲』 を雑誌に連載しはじめました。この小説は主人公たちが南ヴィエトナム(当時は仏印)の高地ダラットで出会うところから始まりますが、その場面では芙美子が従軍作家として南方に赴いた経験が生かされました。
また、戦後の闇市の様子、外地からの引揚者、アメリカ兵相手の娼婦などのストーリーが随所に挿入され、作品のリアリティを高めるのに役立っています。

1951年6月、芙美子は雑誌社主催の食べ歩き取材から帰宅した後苦しみだし、深夜になって心臓麻痺で死去しました。まだ48歳の若さでした。

芙美子没後の1955年、小説 『浮雲』 は主演高峰秀子、森雅之、監督成瀬巳喜男で映画化され、戦後映画の傑作の一つになりました(上の写真)。

火野葦平のその後
 前記のように作家火野葦平は、戦争協力者として1948年から2年間公職追放となりました。その後火野は作家活動を再開し、 『日本艶笑滑稽譚』、『新遊侠伝』 といった大衆小説的な作品を多く書きました。1951年には長編小説 『赤道祭』 を新聞に連載し、大人気になりました。 『赤道祭』 は連載終了後まもなく映画化され、こちらも大ヒットしました。

1950年に父親が死去した後は、火野はその跡を継いで沖仲仕「玉井組」の親分になり、作家と任侠の親分と二足のわらじを履きました。それもあってか、このころは火野は長編小説 『花と竜』 など任侠路線の作品を多く発表しました。

こうして火野葦平は、林芙美子と同じように、兵隊小説作家のイメージをうまく払拭し、大衆小説家に転進して成功を収めたように見られました。しかし、葦平自身の内面では過酷な戦争の現場に身をおいて戦闘の日々を小説に書いたことへの葛藤が常にあり、人知れず苦悩していたのです。

1959年から日本全体が日米安保条約締結をめぐって揺れ動いていました。その中、葦平は自らの戦争責任をテーマとした自伝的小説 『革命前後』 を書き進めました。
翌1960年1月、日米安保条約発効の5日後の1月24日、葦平は自宅で多量の睡眠薬を飲んで自殺を遂げました。書斎には、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために」 というメモが残されていたそうです。

大岡昇平 『俘虜記』

俘虜記  1944年10月、アメリカ軍は空軍、海軍の支援のもとフィリピン・レイテ島に上陸しました。
それに対抗するため、日本軍も兵力を送り込みましたが、当時フィリピン・ミンドロ島にいた大岡昇平もそれに動員されました。

大岡はレイテ島の戦闘で負傷して米軍の捕虜になり、1945年1月 、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容されました。その後1年近く捕虜収容所での生活をすごしましたが、そこでは十分な食事が与えられ、待遇は悪くありませんでした。

収容所の捕虜たちは、盗みと賭博と演芸で堕落した日々を送っていました。

大岡は英語とフランス語ができたということで、自然とアメリカ軍と日本人捕虜との間の連絡・調整役を勤めることになりました。いわばアメリカ軍と日本人捕虜との中間の位置にいたので、大岡は両サイドを冷徹な目で観察するようになりました。
優れたフランス文学者でスタンダールの研究者でもあった大岡は、西洋近代小説の批判精神を思わせる手法で捕虜収容所での生活を記録しました。

その1945年の8月に日本が敗戦した後、12月になって大岡はレイテ島の捕虜収容所を出て日本に帰還しました。大岡はレイテ島の戦闘から収容所での生活などについて書いていましたが、敗戦直後は発表するにはさまざまな懸念がありました。
1948年ごろにいたってようやく「捉まるまで」の章を発表し、次いで1949年に収容所での生活までも含めて 『俘虜記』 として刊行しました。

横光利一文学賞を受賞
 この時期には日本では敗戦後の混乱がやや落ち着き、この戦争とはなんであったかを冷静に判断しようという気運が出てきました。西洋的なタッチで書かれた大岡昇平の 『俘虜記』 は、戦後の新時代を象徴する文学作品と受け取られ、大きな反響を呼びました。

『俘虜記』 はレイテ島での惨澹たる敗走と収容所での堕落した生活を描いています。勝者側の戦争文学ではなく、いわば「敗戦文学」とでも呼んだほうがいいかも知れません。
そして結果的に 『俘虜記』 は反戦文学作品ともなっていると思います。

『俘虜記』 は大岡の最初のまとまった著作ですが、それが大岡の代表作の一つになり、そして太平洋戦争に関する文学作品の名作となりました。

横光利一は前記のように1947年に没しましたが、その後横光作品は次第に再評価されるようになり、没した翌年1948年には改造社から横光利一全集が刊行されました。
翌1949年には「横光利一文学賞」が同じ改造社主催で創設され、同年に刊行された大岡昇平の 『俘虜記』 がその第一回受賞作となりました。横光利一文学賞の選考委員には川端康成、小林秀雄、中山義秀、河上徹太郎、林芙美子ら、かつて従軍作家として戦地に赴いた小説家たちが名を連ねました。

前記のように、横光利一は敗戦後は戦争協力者としてそしりを受け、失意のうちに病死しました。その横光を記念する文学賞の第一回に「敗戦文学」、反戦文学のおもむきのある 『俘虜記』 が選定されたところに、世界大戦前後の時代の変遷を感じます。



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