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野煙る ・ 小説・評論
古代の食物
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縄文時代
 日本の古代史は、縄文時代、弥生時代、古墳時代に大別されます。縄文時代は現在から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約2,300年前まで、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代とされます。

この時代には、人々は弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで暮らし、生活には打製石器、磨製石器、骨角器などを作製して用いました。

縄文土器  この時代には、独特の縄目を思わせる紋様のある 「縄文土器」 (左の写真)が日本の各地で作られるようになりました。

この時代にはナウマンゾウのような大型哺乳類が日本列島で絶滅したと考えられ、人々は主食を獣肉から木の実や堅果類に変えつつありました。そこで、縄文土器は堅果類などの食料を煮るためにも用いられました。

木の実や堅果類の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じました。
採取した堅果類を1年分蓄えるには、かなり大型の縄文土器が多数必要になり、それらを製作する技術が急速に向上してゆきました。

「縄文時代小説」
 最近、インターネットで調べて、縄文時代にテーマをとった小説がかなり書かれており、また縄文時代に日本人のルーツを求めるテレビ番組も制作されているのを知りました。かなり書かれて 「縄文時代小説」 なるものがかなり書かれているのを知りました。

荻原浩氏が著した 『二千七百の夏と冬』 という小説は、ダムの建設現場から縄文晩期の少年のものと考えられる1体の人骨が発見されたところから始まる 「本邦初の本格縄文時代小説」 だそうです。著者荻原氏は
 縄文時代は情報が少ない。得られる情報でファンタジーに見せかけた自分なりの時代小説を目指した。
きちんと調べると、縄文時代は狩猟民族だから紛争があり、弥生時代は農耕民族だから平和、ではなく、狩猟時代から農耕時代になってから争いが起きはじめた。その縄文時代の小説をずっと書いてみたかった。
と語っています。

ライアの祈り  また、田中 幸作著の 『縄文時代』 という小説もあります。「縄文時代、南方から丸木舟で流れ着いた男を主人公にして、当時の人々の大らかさを描いた官能ロマン」 だそうです。

森沢明夫著の青森三部作の一つ 『ライアの祈り』 は、 「縄文と現代のふたつの恋が時空を超えて奇跡のようにリンクする祈りの物語」 だそうで、発表後大評判になり、2015年6月には映画化されて全国公開となりました。

2015年9月には、「縄文時代の小説を書く」 をテーマに勉強会「縄文時代ワークショップ」が開催されました。その案内には 「なるべく小説を書いてからお越しください」 とありました。

弥生時代

弥生時代  日本の古代史で、紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでは弥生時代と呼ばれます。この時代名称は、同時期に特徴的に見られた「弥生土器」に由来するものです。

大陸から渡来した稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まりました。
農耕社会の成立によって、日本各地で地域集団が形成されました。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれました。
弥生早期には大陸より鉄器が渡来し、弥生中期には北九州一帯に広まりました。

卑弥呼の時代

卑弥呼  20世紀に入ると、日本の古代史を文献学、考古学の立場から実証的に研究する気運が高まりました。1910年に東京帝国大学教授白鳥庫吉が邪馬台国北九州説を発表すると、まもなく京大教授内藤湖南がそれに反論して 「邪馬台国畿内説」 を唱えました。
当時新進作家であった横光利一は、それら邪馬台国論により日本古代史のロマンに創作欲を刺激され、邪馬台国の女王卑弥呼を主人公とする短編小説 『日輪』 を発表しました。

短編小説 『日輪』 は当時大評判になり、戦後の1953年になって、東映で第一回総天然色映画として映画化されました。

 『魏志倭人伝』等の中国の史書には、女王卑弥呼は西暦247年あるいは248年ごろに即位していたと記述されています。この時期は日本では弥生時代の後期にあたります。

少し前までは、日本における稲作開始は弥生時代になってからとされましたが、現在ではさらに古い時期のプラント・オパール(土中に見られる植物由来の珪酸体)が発見されたことなどから縄文時代晩期までには稲作が始まったと考えられています。

堅果類の利用

どんぐり  堅い皮や殻に包まれた果実・種子を総称して堅果類といいます。堅果類は通常油脂などの多量の栄養分を含み、また加熱して簡単に食べられるものが多いので、古代においては食生活の中心となりました。

堅果類 は堅い殻に包まれていて水分が少ないので、保存性が非常に優れています。これも、食糧を保存する手段があまりなかった古代では大変有難い特性でした。

ブナ科の、特にカシ・ナラ・カシワなどコナラ属樹木の果実は、ドングリと総称[されます。コナラ属樹木は山野に多数生育しているので、ドングリは古代の最重要の食品になりました。

くり  なお、動物を引き合いに出して失礼ですが、毎年秋にクマやイノシシが冬に備えて食べるものも、ドングリが主力だそうです。

くりはやはりブナ科に属する堅果類で、いがという毬状の殻斗に包まれています。くりの実はドングリに比べて大きく味もよいので、古来人々に好んで食されてきました。

青森県三内丸山遺跡は、縄文時代、4000〜5500年前の大規模な集落ですが、その居住地をかこむ広大な栗林が確認されたそうです。この時代には栗など堅果類が主要な食料であり、それを安定して得るために集落の近くに大規模な栗林が造成されていたのです。

畠作、稲作の普及

あわ  東北地方や北海道南部にあるいくつかの縄文時代の遺跡からは、ヒエ・アワ・キビの種子が多量に発見されているとのことです。
狩猟・採集が生活基盤であったとされる縄文時代においても、これら雑穀がある程度は畠で栽培されていたのでしょう。

また、縄文時代後期にはすでに稲作が始まりつつあったとの研究報告もあるそうです。
弥生時代に入るとそれら畠作、稲作が次第に普及して行きますが、その時代の雑穀類、米の生産性は高くなかったので、大麦、小麦、ヒエ(左の写真)やアワ、豆類などを米と混ぜ合わせて食していたと考えられます。

 弥生時代にはどんぐりは縄文時代ほどは食されなくなりましたが、くりは味がよく保存性があるという特長により米・雑穀類とともに重要な食料として広く栽培されました。

前記のように、邪馬台国の女王卑弥呼は弥生時代の後期に生きていたとされます。その卑弥呼を主人公とした横光利一の短編小説 『日輪』 を読むと、宴会などでの食物を記述したくだりが何ヶ所かあります。私が読んだかぎりでは、それらの中に「米」は見当たらず、アワや山の果実などが盛られていたと書かれてありました。

やはり、古代においては麦作、稲作が次第に普及しましたが、それらの生産性はあまり高くなかったので、ヒエ、アワ、豆類など雑穀とともにくりなどの堅果類がずっと後になるまで食されていたのでしょう。

くりの栄養価

くりの栄養価  現在の私どもは、くりは炊き込みご飯に入れたりお菓子の材料として少量を食べるだけです。古代の人々がこれを主たる食料として毎日食べていたといわれても、いったい腹の足しになったのだろうかと思ってしまいます。

くりの主成分は、粒子が細かい良質のでんぷんだそうです。くりの単位重量あたりの熱量は果実類で最高で、たんぱく質、ビタミン類、カリウムもかなり豊富です。

日本のくりは概してサイズが大きく、大き目の茹でた栗の可食部は1個でおよそ35kCal前後もあります。小中の茹でた栗の可食部は、1個でおよそ25kCal前後の熱量があります。

普通のお茶碗1杯のご飯は約150gで、その熱量は220kcalほどになります。従って、大き目の茹で栗を7個食べると、そのカロリーは茶碗1杯のご飯を軽く上回ります。
また、「日本食品標準成分表」 によると、ゆでた日本栗可食部100g当たりの熱量は167kcalです。同表では、蒸したさつまいもの可食部100g当たりの熱量は131kcalとなっており、ゆでた日本栗のほうが蒸したさつまいもより30パーセント近く多いことになります。

これらから、広い面積の栗林を集落の近くに造っておけば、そこから収穫するくりの実を集落の住民の主食として利用することができたと考えられます。

備荒食・兵糧として

かちぐり  歴史時代に入ると、稲作、麦作の技術が飛躍的に向上したため、くりは主たる食料として用いられることは次第に少なくなりました。

しかし、くりは山地で栽培できる、保存性が高い、カロリーが高いなどのメリットがあるため、米、麦、雑穀の収穫を補うために平安時代以後も長く利用されました。

平城京の跡からは奈良時代の木簡が出土していますが、それらの中には租税として納めた産物を記録したものが多数見られるそうです。
備中国(現在の岡山県)や 丹波など栗の産地からは栗が納められていたのが木簡に書かれているということです。

 平安時代927年に編纂された格式(律令の施行細則) 「延喜式(えんぎしき)」 には、「搗栗子(かちぐり)」(くりを天日で乾燥させて皮をむいたもの、上の写真)や、「平栗子(ひらぐり)」(くりを蒸して粉にしたもの)などの記述があるということです。
それらを産し、朝廷に献上する国として、「丹波」 などの名前が書かれているそうです。

また、延喜式には飢饉に対する備えとして栗を栽培するようにという文面が残っているとのことです。その後の時代でも、くりは備荒食の一つとして重視されて行きました。

戦国時代になると、かちぐりが兵糧、携行食として盛んに用いられるようになりました。かちぐりの軽量、高カロリー、保存性などの特長が、戦時に多いに役に立ったのでしょう。

熊本城  加藤清正は、関ヶ原の戦いののち熊本城に移ると、すぐ城の近くに寺を建立しました。
寺が建つと、清正は自ら参詣し、家来に 「寺の門前には桜の木を植えよ。寺の裏手に栗の木を植えよ」 と指示しました。

豊臣秀吉、徳川家康のもとで数々の戦をした清正は、寺を建立する際もやはり将来起こりうる戦への備蓄食を考えたのでしょう。

栗の木は優れた用材となり、戦争の際にはさまざまな使い道があります。また、もちろん煮炊きや暖房のための薪にもなります。将来徳川家康との戦争を想定していたとされる清正は、栗の木を重要視したのでしょう。



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