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ヘミングウェイとキューバ
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アメリカとキューバ
 1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争の結果、アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むカリブ海のスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置きました。
アメリカは、1903年にキューバ・グァンタナモ湾を永久租借する契約を結び、現在に至るまでグァンタナモにアメリカ海軍の基地を置いています。

米西戦争以後、キューバは実質的にアメリカ合衆国の植民地となり、アメリカの大資本が乗り込んできて砂糖などの農産物を開発するとともに観光客向けのホテルなどが盛んに建設されました。この時期にはアメリカ大資本と結託した政治家の不正が次々に明るみに出て、キューバの現状に対する国民の不満は高まって行きました。

アーネスト・ヘミングウェイ

ヘミングウェイ  作家アーネスト・ヘミングウェイ(左の写真)は、米西戦争のころの1899年にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴの近郊に生まれました。

父の影響で、少年時代から釣りや狩猟、ボクシングなどに親しみました。高校卒業後、地方新聞の記者になりましたがすぐ退職し、第一次世界大戦が行われていたヨーロッパに渡って赤十字の一員として働きました。その時期にイタリア前線で砲撃に巻き込まれて重傷を負ったということです。

第一次世界大戦終了後は、ヘミングウェイはカナダの新聞社の特派員としてパリに駐在しました。

 ジャーナリストとして働きながら、ヘミングウェイは短編小説などを書き始めました。1926年に短編小説 『日はまた昇る』 を発表し、次いで1929年に長編小説 『武器よさらば』 を書いてハードボイルド派の作家として文名をあげました。

フロリダ・キーウェスト

キーウェスト  フロリダ州の最南端には小さな島々が南西に向かって連なっていますが、その最西端にあるのがキーウエストです。フロリダからキーウエストまでは島々を結ぶ多数の橋により自動車で行くことができ、アメリカ人憧れのシーリゾートになっています。

キーウエストは、カリブ海でのカジキ釣りなどスポーツフィッシングの基地として有名です。 それに惹かれてキーウエストを訪れたヘミングウェイは、スペイン統治時代の雰囲気を強く残すこの地に魅了されました。

キーウエストは、キューバの首都ハバナからわずか170kmほど北方にあり、現在でもスペイン系の住民が多いそうです。

キーウェスト  1931年、ヘミングウェイはキーウエストで左の写真の家を購入しました。2階にバルコニーをめぐらしたスペイン・コロニアル風の邸宅です。ヘミングウェイは、この家に妻ポーリンと2人の息子ともに住みました。

この家でヘミングウェイは8年間暮らしましたが、その間もアフリカで狩猟旅行するなど各地に出かけました。短編小説 『キリマンジャロの雪』 はその時期の作品です。

スペイン内戦
 スペインでは、1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制に移行しました(スペイン革命)。1936年には左派による人民戦線政府が成立しましたが、それに対し、教会、地主、大資本家、軍部など右派が結束し始めました。

1936年、フランコ将軍は植民地モロッコで反乱軍を組織し、人民戦線政府を打倒すべくスペイン本土に攻め上りました。反乱軍にはナチスドイツとムッソリーニが独裁するイタリアが公然と援助し、いっぽう人民戦線政府軍にはソビエト連邦が武器・人員を援助しました。

スペイン内戦の際には、世界各国から多数の知識人や労働者たちが義勇兵として人民戦線側に参加しました。当時パリでジャーナリストとして活動していたヘミングウェイも、ファシズムの拡大を防ぐべくその義勇軍に身を投じました。

誰がために鐘は鳴る  スペイン内戦では、ドイツなどの支援を受けた右翼側が攻勢を強める一方で、人民戦線側は内部分裂のため次第に弱体化しました。ついに1939年に反乱軍の猛攻により首都マドリードが陥落し、スペインにフランコ将軍の独裁政権が誕生しました。

ヘミングウェイは仕方なくパリに帰り、国際義勇軍従軍の経験をもとに、1940年に長編小説 『誰がために鐘は鳴る』 を発表しました。第二次世界大戦勃発もあってこの作品は世界的な大ベストセラーになり、1943年にはゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン主演で映画化もされました。

キューバに定住

キューバ  ヘミングウェイがキーウエストと同じくらい好きだったのが、キーウエストの南わずか170kmのところにあるキューバでした。

1928年にはヘミングウェイは初めてキューバを訪れ、その後キーウエストに住み着いた後の1932年にもふたたびキューバに行きました。キーウエストよりもさらに大物のカジキなどが釣れるキューバに魅力を感じたのでしょうか。

1940年にはヘミングウェイはキューバに定住するのを決め、ハバナ市の南東20kmほどのところにある邸宅を購入し、「フィンカ・ビヒア」と命名しました。フィンカ・ビヒアとは、スペイン語で眺望楼の意味だそうです。

 フィンカ・ビヒアは小高い丘の上の広大な農園の中にあり、椰子の樹などの熱帯性樹木に囲まれた豪邸です。ヘミングウェイはこの邸宅に1940年から1960年まで20年間住み、毎日のように近くの漁港コヒマルから自分のヨットに乗って釣りに出かけました。
また、土地の酒を愛し、闘鶏、射撃などキューバの生活を楽しみました。

フィンカ・ビヒア

小説 『老人と海』
 世界中で取材活動や狩猟旅行などをするうちに、ヘミングウェイは負傷することや病気にかかることも多く、次第に健康を蝕まれて行きました。アフリカの狩猟旅行で2度も飛行機事故にあい、生死の境をさまよったこともあるそうです。

それもあってか、1940年の長編小説 『誰がために鐘は鳴る』 以後は、ヘミングウェイはほぼ10年間にわたりまとまった著作を発表していません。ほとんどの時間を、上記邸宅フィンカ・ビヒアとその周辺で過ごしていたようです。

老人と海 1950年ごろ、50歳を過ぎたヘミングウェイは、コヒマルで釣り仲間のフィッシングボートの船長からある老漁師の話を聞きました。
老漁師が一人で小舟に乗って釣りに出たところ、巨大なカジキを釣り上げた。カジキがあまりにも大きくて、小舟の上に引き上げることができない。そこで、舟の横にカジキを縛り付けて帰途に着いたところ、途中でサメに襲われてカジキが食われてしまい、巨大な骨だけが残ったという話でした。

それを聞いてヘミングウェイは久しぶりに創作のエネルギーを感じて書き始め、1952年に短編小説 『老人と海』 を発表しました。

『老人と海』 は孤独な老漁師の命をかけた闘いが全世界の読者の共感を呼び、大ベストセラーになりました。その後、数回にわたって映画化をされたということです。『老人と海』 その他の功績により、ヘミングウェイは1954年度のノーベル文学賞を授与されました。

キューバ革命
 そのころのキューバは、軍人出身のフルヘンシオ・バティスタ大統領が独裁政権をしいていました。バティスタ政権は前記のようにアメリカ大資本と深く癒着して堕落した政治が行われ、農民など大多数のキューバ国民は貧困にあえいでいました。

ついに1953年7月、弁護士フィデル・カストロがバティスタ政権を打倒すべく130名の同志とともに武装蜂起しました。カストロ一派はいったんはバティスタ政権に撃退され、カストロはメキシコに逃れましたが、また1956年12月にキューバに上陸し、戦闘を継続しました。

カストロ バティスタ政権軍はアメリカから武器を供与されており、装備の面では勝っていましたが、国民の支持を得た革命軍は次第に優勢に立ちました。

1958年の末にはバティスタ政権軍は脱走兵が相次いで総崩れになりました。明けて1959年1月1日、カストロが率いる革命軍は首都ハバナに総攻撃をかけ、ついにハバナを陥落させました。

カストロは革命政府の首相に就任し、キューバに社会主義共和国が誕生したことを宣言しました。

この時期にはヘミングウェイは戦争による混乱を避けて、アメリカ合衆国に帰国していました。

ヘミングウェイは旧バティスタ政権の実態をよく把握しており、バティスタから招待を受けてもそれに応じることはありませんでした。逆にカストロが革命活動を始めると、ひそかにそれを資金面で応援したということです。

キューバ革命の翌年、1960年、ヘミングウェイはキューバ入りし、空港でハバナ市民たちの歓呼で迎えられました。その年の5月、ヘミングウェイはハバナでカジキ釣り大会を開催しました。その席で、ヘミングウェイはカストロと初めて面会したということです。
カストロは以前からのヘミングウェイ・ファンで、特にファシストに対抗するゲリラ活動を描いた小説 『誰がために鐘は鳴る』 は何度も読んだそうです。

その後、ヘミングウェイはまた体調が悪化し、まもなく愛するキューバを去ってアメリカ合衆国北西部アイダホ州にある自宅に帰りました。

ジョン・F・ケネディ

ジョン・F・ケネディ  さて、この時期に本ウェブページのもう一人の主役が登場します。ジョン・F・ケネディは1917年生まれで、カストロより9歳年長になります。

ケネディは、キューバ革命の2年後の1961年1月に第35代アメリカ合衆国大統領に就任しました。
ケネディの前任ドワイト・アイゼンハウアーは、かねてより反カストロ派の亡命キューバ人部隊を訓練し、キューバに上陸させる準備をしていました。

ケネディの就任後まもない1961年4月にその計画は実行され、亡命キューバ人部隊はキューバ南部のビッグス湾に上陸しましたが、あえなく革命政府軍によって撃退されました。

キューバ革命政府はこの侵攻作戦によって対米不信感を強め、次第にアメリカ合衆国と冷戦中であったソビエト連邦など共産圏諸国に接近して行くことになりました。
アメリカ合衆国とキューバ共和国は互いに外交関係を断絶し、アメリカはキューバ産の砂糖の輸入を停止しました。

ヘミングウェイの自殺

ヘミングウェイ  アメリカの自宅でキューバ侵攻作戦のニュースを聞いたヘミングウェイは、愛するキューバと自分の母国との間で戦闘があったのを嘆きました。
体調不良がつのる中でそのような心痛が重なり、ヘミングウェイは次第に引き返すことができない心境に入ってゆきました。

ヘミングウェイの家系は躁鬱症の傾向のある人が多かったということです。そのためか、ヘミングウェイの一族には自殺をした人がかなり見られます。
ヘミングウェイの父クラレンスは病気を苦にして1928年に猟銃で自殺しました。弟レスターも、やはり病気を悲観して拳銃で自殺しました。

女優になった孫娘マーゴ・ヘミングウェイも、1996年に睡眠薬を大量に飲んで死亡しました。病気やアルコール中毒で苦しんだ末の自殺と見られます。

アーネスト・ヘミングウェイも、前記のように飛行機事故や狩猟旅行での負傷などから躁鬱病が悪化し、アルコール中毒もあってアメリカ・アイダホ州の病院で治療していました。病院を退院した後もうつ病はさらにひどくなり、何度か自殺未遂を繰り返しました。ついに1961年7月2日、ヘミングウェイは長年愛用してきた猟銃で自分の頭を撃ち、自殺しました。

なお、上記孫娘マーゴ・ヘミングウェイが自殺したのは、祖父アーネスト・ヘミングウェイが自殺したのと同じ7月2日のことでした。

キューバ危機

キューバ危機  この時期にはアメリカ合衆国とキューバ共和国との関係は悪化の一途をたどりました。
1962年2月、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表しました。

1962年10月、アメリカ空軍のU-2偵察機がキューバ国内でソビエト連邦が核ミサイル基地を建設しているのを示す写真を撮影しました。

ケネディ大統領は、キューバでの核ミサイル基地建設を阻止するために、基地建設の資材を運搬する貨物船がキューバの港に入るのを禁止する海上封鎖の実施を決断しました。

 その後、ケネディ大統領とソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ首相が書簡を交し合った結果、キューバのミサイル基地は解体撤去され、核戦争は回避されました。
しかし、アメリカ合衆国のすぐ近くにあるキューバ島にソビエト連邦の核ミサイルを持ち込ませたカストロへの不信感は、アメリカ政府・国民から去ることはありませんでした。

キューバ危機から1年あまり経った1963年11月22日、ケネディ大統領は遊説中テキサス州ダラス市でライフル射撃により暗殺されました。暗殺者と目された人物も直後に殺害されたため、ケネディ大統領暗殺事件の真相は現在に至るまで謎となっています。一部には、ケネディ暗殺事件とキューバ危機とは関連があるとする研究者もいるようです。

ジョン・F・ケネディ以降の歴代アメリカ大統領もキューバとの関係改善には本格的には取り組まず、その後50年以上にわたってアメリカ合衆国とその南わずか170kmにあるキューバ共和国の間には国交は回復されていません。

国交は再開へ
 ところが、昨2014年の暮れになってアメリカ合衆国とキューバ共和国との関係が変化する兆しが見えてきました。2014年12月17日、アメリカのオバマ大統領は半世紀以上も国交が断絶しているキューバとの関係を正常化するための交渉を始めると発表しました。

オバマ大統領  キューバ建国の父フィデル・カストロは、現在では90歳に近くなり、政界からは退いています。
代ってカストロの弟でキューバ内戦時代からカストロとともに闘ったラウル・カストロが、2008年から国家評議会議長に就任しています。

キューバは、アメリカ合衆国の経済制裁により、国家財政は長年にわたり苦しい状況にありました。
また、ソビエト連邦から学んだ計画経済は極めて効率が悪く、農民など大多数の国民は貧困にあえいでいました。ハバナの街では半世紀前にアメリカ人たちが置いていったアメリカ製自動車が現在でも走っているそうです。

キューバとしては、財政の苦境から抜け出すためになるべく早くアメリカに経済制裁を撤廃してもらい、貿易を再開したいと願っています。国連にアメリカの対キューバ貿易禁止が不当であると提訴したことも何度かあるそうです。

いっぽう、アメリカ合衆国の資本家たちにとっても、サトウキビなどのキューバの農産物は半世紀前と同じく大変魅力的です。また、日本の本州の半分ほどもあるキューバ島は、アメリカ合衆国の各種産品にとって大きな市場になる可能性があります。

さらに、もう一つ、オバマ大統領にとっても、なるべく早くキューバとの国交正常化を推進したい事情があります。すでに2回合衆国大統領に選出されたオバマ大統領にとって、残る任期はわずか1年半になりました。その期間に歴史に残る業績としてキューバとの国交正常化をぜひ成し遂げたいのでしょう。

そう遠くない時期に、かつてのアーネスト・ヘミングウェイのようなスポーツフィッシング・ファンたちがアメリカ各地からキューバに入るようになるでしょう。この歴史的大転換を、すでに天国に行っているヘミングウェイやケネディはどのように見守っているのでしょうか。



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