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野煙る ・ 小説・評論
ロンドンの自転車乗り
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自転車のルーツ
 現在私どもが乗っている自転車は、大きさが同じ前輪と後輪をもっていて、後輪をペダルとチェーンで駆動します。人間が乗る座席(サドル)は、比較的低い位置に置いて安全性を高くしています。このタイプの自転車は、1879年にイギリスで開発されたといわれます。

1885年にイギリスでジョン・ケンプ・スターレーが「安全型自転車」の販売を開始しました。鉄のパイプを使った菱形のフレームによって前輪、後輪とハンドル、サドルを一体化した構造で、現在の自転車とほとんど同じスタイルになりました。
それまでの自転車は主としてスポーツ競技に使用されましたが、これ以降は自転車は次第に日常の交通手段として利用されるようになりました。

セーフティ型自転車

セーフティ型自転車  この時期までの自転車は、大多数は車輪が空気なしのゴム製(ソリッド)で、とても快適に乗れるものではありませんでした。

1888年になって、ジョン・ボイド・ダンロップが自動車用に空気入りタイヤを実用化すると、すぐに自転車用の空気入りタイヤが開発されました。
これにより自転車の乗り心地と速度は格段に向上しました。

セーフティ型自転車  また、このころ、「フリーホイール機構」が発明されて運転者は惰性走行の際にペダルを止めることができるようになり、自転車の運転がより容易になりました。

それらにより、イギリスでは1895年ごろから自転車の大流行が起こりました。比較的安価な乗り物で馬や馬車と同等のスピードで走れるとあって、多くの分野で利用されました。ロングスカートの女性でも運転できる自転車も製造され、若い女性たちにも利用が広がりました。

 上は当時のサイクリストの写真ですが、すでに後輪を駆動するチェーンにはカバーがかかっており、女性のロングスカートがチェーンに巻き込まれないように配慮されているのが見られます。1890年代の中ごろには女性サイクリストが急増した様子がうかがわれます。

その後、自転車を利用して家の外に仕事で出かける女性が多くなったそうです。結果として、自転車の普及はイギリス女性の社会進出に大いに貢献することになりました。

コナン・ドイル

コナン・ドイル  アーサー・コナン・ドイルは1859年にイギリス・エディンバラに生まれました。日本では明治維新の9年ほど前の時期です。

エディンバラ大学で医学を勉強し、卒業後診察所を開きましたが、あまりはやりませんでした。そこで、診察所での暇な時間を利用して小説を書き、雑誌社に投稿するようになりました。

1887年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説 『緋色の研究』 を書き上げ、二流雑誌に掲載されました。
その後アメリカの雑誌から執筆依頼がきて、以降ドイルはホームズシリーズの推理小説を次々に世に出しました。

コナン・ドイル  コナン・ドイルは、1904年にシャーロック・ホームズシリーズの第28作にあたる短編小説 『孤独な自転車乗り』 をイギリスの雑誌 『ストランド・マガジン』 に発表しました。

ある日、現在ではホームズファンならだれでも知っているロンドン・ベーカー街のシャーロック・ホームズ事務所を若い女性が訪ねてきました。ホームズの友人医師ワトスンは、事件の始まったその日を1895年4月23日と記しています。

面会したホームズは、その女性ヴァイオレット・スミス嬢の履いている靴を見て靴底の縁に僅かにペダルの端に擦れてざらざらした部分があるのをを見つけました。

 そしてホームズは、「あなたが困っているのは、少なくとも健康のことではありえない。あなたはそんなに自転車によく乗っているなら、体力は十分にあるはずだ」といいました。
スミス嬢は自分が熱心に自転車に乗っているのをさっそく見抜かれて驚きましたが、「実は困っているのはその自転車にも関係があるのです」と話しました。

彼女はロンドンの近く、サリー州境にあるカラザース氏の屋敷で一人娘の音楽家庭教師をしているとのことです。スミス嬢はその屋敷に住み込んでおり、毎週土曜日、屋敷から自転車でファーナム駅に行き、そこから列車に乗ってロンドンに帰ります。翌月曜日にはまたロンドンからファーナム駅に列車で行き、そこから自転車で屋敷に戻っています。
その間寂しい一本道を自転車に乗って通るのですが、その度に後ろを黒ずくめの男がつけてきているのに気づき、不安を感じているというのです。・・・・・・・・・

前記のように、ドイルはこの小説を1895年の話として書きました。1895年というと、イギリスではセーフティ型自転車の登場によって大自転車ブームが起こり、女性の間にも自転車熱が高まった時期です。女性たちが自転車を利用して社会に進出した様子が、この小説からはっきりと見えるように思われます。

夏目漱石のロンドン留学

夏目漱石  夏目漱石は1867年に江戸牛込に生まれました。前記シャーロック・ホームズシリーズの作者コナン・ドイルより8年後の生まれとなります。

東京帝国大学英文科を卒業後、1896年(明治29年)に熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任しました。
熊本で貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚し、まもなく長女筆子が生れました。

漱石は、1900年(明治33年)、文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられ、ロンドンに向かいました。漱石がロンドンで留学生活を始めてまもなく、1901年1月にヴィクトリア女王が没し、国葬が行われました。

 漱石は当初はロンドン市内に下宿しましたが、イギリスは当時も物価高だったようで、漱石は留学費が少ないので生活は困難であると文部省に報告しています。

ロンドンでは初めは大学で英文学の講義を受けましたが、まもなく大して益がないとして退学し、シェイクスピア研究家ウィリアム・クレイグのもとで学び始めました。同時に 『文学論』 の執筆にかかりましたが、このころから神経衰弱の傾向が強くなりました。

ロンドン最後の下宿
 漱石は同じくロンドンに在住した留学生仲間たちともほとんど交際しなくなり、下宿を何度も替えたということです。この時期の漱石については、英文学者清水一嘉の著書 『自転車に乗る漱石 百年前のロンドン』 (2005年)に詳しく解説されています。

漱石は留学の最初の年は日常生活の様子を日記に書きとめていました(留学2年目は神経衰弱に陥ったこともあり、日記をつけていません)。清水さんの著書は、漱石の日記中にあるさまざまな事項を詳細に調査して読者の目の前に生き生きと記述しています。

ロンドン最後の下宿  ロンドンに来てから8ヶ月あまりたった1901年7月、漱石は知人の紹介で、クラパムコモンにある下宿に移りました。ロンドン留学開始以来5番目の下宿でした。

クラパムは、ロンドンの中心部から南西に20kmほど、テームズ川の南にある住宅地です。テニス大会で有名なウィンブルドンの東約4kmのところで、漱石がきた当時はのどかな田舎町だったと思われます。

下宿の建物は現在でも残っており、建物の外壁には漱石がここに入居した旨を記したプレートが取り付けられています。

 漱石はこの建物の3階に入居し、1903年末に帰国するまでの約1年4ヶ月をそこで過ごしました。その間、ほとんど外出せず部屋にこもりきりだったそうです。
その様子を見た下宿屋の女主人が心配し、漱石に「最近このあたりで自転車に乗る人が多いが、夏目さんも気晴らしに自転車を練習されたらいかがですか」と勧めました。

漱石自身も気分転換の必要性を感じたのか、女主人のアドヴァイスにしたがって近所にあった自転車店を訪れました。当時は、1895年ごろからの爆発的な自転車ブームが一段落し、かっこうな中古自転車がたくさん出回っていました。漱石はその一つを買い求め、下宿近くのクラパム・コモン(公有地)で自転車の練習をはじめました。

漱石の 『自転車日記』
 漱石の心の病は文部省の知るところとなり、漱石は3年間を予定していたロンドン留学を中断して1903年末に帰国の途につきました。1903年(明治36年)1月末に東京に戻った漱石は、3月には現在「猫の家」として知られる本郷区駒込千駄木の貸家に引越しました。

その後漱石は、友人による運動のおかげもあり、4月に第一高等学校の英語講師の職を得ました。次いで、帝国大学文科大学英文科の講師もすることになりました。

ホトトギス 英文学講師の職は得ましたが、漱石はまもなくその「リードル」の仕事に嫌気がさしました。

当時は漱石の刎頚の友正岡子規はもう亡くなり、子規が始めた俳誌 『ホトトギス』 は子規の弟子高浜虚子が引き継いでいました。虚子は漱石の愚痴を聞いて、気晴らしに 『ホトトギス』 になにか書いたらどうかと勧めました。

その提案に従い、漱石はロンドンで自転車を練習した様子を描いた随筆 『自転車日記』 を書きました。虚子はそれを1903(明治36)年6月発行のホトトギスに掲載しました。
漱石が4月に第一高等学校で「リードル」の講義を始めてからわずか2ヵ月後のことです。

『自転車日記』 は現在インターネット上の仮想図書館「青空文庫」に収録されています。青空文庫にアクセスして 『自転車日記』 を検索すれば、だれでも自由に閲読できます。

漱石は、下宿の女主人の勧めに従い、近所の自転車店を訪れました。自転車店の主人は漱石の体格を見て、比較的容易に乗りこなすことができる婦人用の自転車を勧めました。しかし、漱石はいかつい髭を蓄えた男子が婦人用自転車などに乗れるかと断固としてそれを拒否し、店の奥にほこりをかぶっていた中古の男性用自転車を買い求めました。

見栄えのしないその自転車を押して、漱石は下宿の近くにあるクラパム・コモンという野原(公有地)に行き、見よう見まねで自転車の練習を始めました。
話が脱線して恐縮ですが、私の母は自転車に乗れませんでした。母がいうには、母の娘時代には自転車に乗る女は魚屋の女房ぐらいのものだったそうです。
また、後に私が子供といっしょに近所の神社に行ったところ、中年の女性がトレーナーを着て自転車を相手に格闘していました。自転車に乗ってこぎ始めますが、すぐにぐらついて自転車から飛び降ります。その様子を私の子供は信じられないという顔で見ていました。

自転車に乗るには、平衡感覚がなによりも大切です。体が固くなった大人がはじめて自転車の練習をするのは、想像以上に難しいのでしょう。漱石の随筆 『自転車日記』 を読むと、漱石が野原で自転車相手に悪戦苦闘した様子が詳細に書かれています。練習中に石垣に激突して脛(すね)をすりむいたり、乳母車に衝突しそうになって親に怒鳴りつけられたりしたこともあったそうです。

『自転車日記』 の最後に、漱石は
「その苦戦云うばかりなし、しかしてついに物にならざるなり。(中略)
貴重な留学時間を浪費して下宿の飯を二人前食いしに過ぎず、さればこの降参は我に益なく」
と書いて自転車の練習がうまく行かなかったのを嘆いています。

しかし、漱石の名誉のために付け加えると、漱石は練習開始後まもなくクラパム・コモンから4kmほど離れたバタシー公園までサイクリングをしています。さらにその後、スコットランドまで自転車で旅行をするまでになったそうです。熱心に自転車を練習した結果、かなり上手に乗りこなせるようになったのでしょう。

なお、漱石夫人鏡子さんの述懐によれば、漱石は東京に戻ってからは自転車に乗ることはなかったそうです。漱石は、東京の道路は狭くて曲がりくねっているので自転車で走るのは危険だと考えたようです。

国産自転車
 1890年代の初めころから、日本在住の外国人たちの一部が欧米から自転車を日本に持ち込み、日常生活に利用していたようです。それを目にして、将来性を見込んで日本で自転車の製造を行おうとする動きが出てきました。

東京本所で猟銃などの製造をしていた宮田栄助は、自転車の製造には鉄のパイプが必要なことを知りました。そこで、猟銃の鉄管製造の技術を生かして自転車用の鉄パイプを製造し、それらを組み合わせて自転車を製造する事業を開始しました。

宮田自転車  それが、現在も自転車を製造している(株)宮田製作所のはじまりです。同社の社史には、同社が1890年(明治23年)に試作成功したものとして左の写真の自転車の写真が掲載してあります。

しかし、自転車の歴史に詳しい専門家の意見では、左の写真の自転車は1890年の試作機としてはかなり進んだなデザインになっており、実際にはその10年後、1900年ごろの製品ではないかとのことです。

漱石が1903年に日本に帰ってきたころには、日本でも自転車製造の技術がかなり蓄積されつつあったと考えられます。しかし、そのころはタイヤ、リム、スポーク、ボール(鋼球)など自転車の部品は輸入品をかなり使用していたようです。

1904年から始まった日露戦争では、日本軍は大陸での前線で現在のマウンテンバイクのような頑丈な造りの自転車を多数利用したといわれます。それらの製造元は不明ですが、たぶん欧米の製造になるものが多かったのではないかと思われます。

1905年に日露戦争終了後、日本の自転車産業は本格的に発展し始めました。日本中に国産自転車が広まり、市民の日常生活に盛んに利用されるようになりました。



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