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凱旋門 / レマルク
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エーリッヒ・マリア・レマルク

エーリッヒ・レマルク  作家エーリッヒ・レマルク(左の写真)は、1898年にドイツ北東部、オランダ国境に近いオスナブリュック市に生まれました。

レマルクは、ギムナジウムに在校中の18歳のときに級友とともに軍隊に志願し、第一次世界大戦に出征しました。フランス国境・西部戦線に配属されて砲撃下での塹壕戦を経験しましたが、まもなく砲弾で負傷し、野戦病院に収容されました。

第一次世界大戦終了から11年経った1929年に、レマルクは自らの体験をもとに長編小説 『西部戦線異状なし』 を発表しました。

『西部戦線異状なし』

『西部戦線異状なし』  小説 『西部戦線異状なし』 は、第一次世界大戦の塹壕戦の記録文学ともいえるものです。
この小説で、レマルクは凄惨な塹壕戦で死んで行く若者たちの姿をひたすらありのままに描きました。ときにやや粗雑さを感じさせる文体で、レマルクは兵士同士の会話などを交えて圧倒的なスピード感、リアリティをもって書き進めています。

『西部戦線異状なし』 は大センセーションを起こし、25ヵ国語に翻訳されて350万部が売れました。
この小説は、戦争の悲惨さ、無益さをリアルに描いたことで、第一次世界大戦後、世界に反戦文学の代表として受け止められました。

そのころドイツではヒットラーのナチス党が台頭していました。レマルクはナチスから嫌がらせを受け、身の危険を感じて1932年にスイスへ亡命しました。

1933年にはヒトラーがドイツの政権をとり、ヨーロッパでは次第に緊張が高まってきました。1939年3月、ヒトラーはドイツ系住民保護の名目のもとにチェコスロバキアを併合しました。英仏など他のヨーロッパ諸国はそれを阻止できませんでした。

その数日後、レマルクはフランス北部のシェルブール港で豪華客船クイーン・メリー号に乗り、アメリカに向かいました。ニューヨーク港で下船した後、レマルクは大陸横断鉄道に乗り、アメリカ西海岸の大都市ロサンゼルスに行きました。

第二次世界大戦

パリ陥落  1939年に第二次世界大戦が勃発すると、それまで全力を挙げて戦争の準備をしてきたナチス・ドイツは英仏連合軍を圧倒し、1940年5月にはフランスの首都パリを陥落させました。

休戦協定により、フランス北部と西部海岸地域はドイツ占領下となり、フランス中央部ヴィシーにはドイツのかいらい政権ヴィシー政府が置かれました。

その休戦協定に反対するド=ゴールらは、ロンドンに亡命して自由フランス政府を宣言しました。1940年6月、ド=ゴールはイギリスBBC放送を通じてフランス国民にドイツ占領軍とヴィシー政府に対する抵抗運動を呼びかけました。

小説 『凱旋門』

 『凱旋門』  この時期に、レマルクはロサンゼルス近郊ビヴァリー・ヒルズで第二次世界大戦勃発直前のパリを描いた小説 『凱旋門』 を書き進めました。

当時レマルクは反ナチス派の女優マレーネ・ディートリッヒと暮らしていましたが、この小説は将来映画化されたときディートリッヒを主演女優にすると想定して書かれたということです。

ヨーロッパでは米英を中心とする連合軍の反攻が始まり、1944年6月6日に連合軍大部隊がフランスのノルマンディ海岸に上陸しました。連合軍は、反撃するドイツ軍を次第に北に押し上げつつ進軍し、首都パリに迫りました。

1944年8月25日、連合軍はついに首都パリを奪回し、フランスはナチスの圧政から解放されました。その同じ日、レマルクはビヴァリー・ヒルズで長編小説 『凱旋門』 を完成させました。 『凱旋門』 は最初アメリカで英語に翻訳されて出版され、その後ドイツ語版がスイスで出版されたということです。

『凱旋門』 のストーリー
 ドイツで独裁体制を固めたヒトラーは、ドイツ系住民が多いヨーロッパの諸国に対し、領土割譲の圧力をかけ始めました。ドイツの南に位置するオーストリアはドイツ系民族の国家で、ヒトラーはそのオーストリアの出身でした。1938年2月、ヒトラーは国境を越えてオーストリアに軍隊を派遣し、無血のうちにオーストリアを併合するのに成功しました。

次いでヒトラーは、やはりドイツ系住民が多いチェコスロバキアに圧力をかけ、前記のように1938年2月、ドイツ系住民保護の名目のもとにチェコスロバキアを併合しました。

凱旋門 その時期には、フランスの首都パリはヨーロッパ諸国からヒトラーの脅威を避けてきた亡命者たちがあふれていました。

オーストリア人の医師ラヴィックもその一人で、ヒトラーから逃れてパリに滞在していました。旅券がないのでパリでは正式に職業に就くことができず、非合法の手術をしながら暮らしていました。

ある仕事帰りの夕方、ノートルダム寺院に近いポン・ヌフ(セーヌ川にかかる橋)にさしかかったところで、ラヴィックは何か様子がおかしい若い女性を目にしました。どうやら思いつめて橋からセーヌ川に身を投げようとしているようでした。

女性を落ち着かせてから話を聞くと、彼女はジョーン・マドゥといい、イタリアからパリに流れて来て知り合った男に棄てられ、自暴自棄になったとのことでした。

ヨーロッパの動乱に巻き込まれてパリで寄る辺のない生活をしていた二人は、まもなく恋仲になりました。ジョーンはラヴィックの友人のつてでカフェの歌手の職を得ました。

しかし、その後しばらくしてラヴィックはフランスに不法滞在しているのが当局に見つかり、国外追放に処せられました。フランス国外でジョーンの身を案じつつ過ごしたラヴィックは、3ヶ月後にようやく旅券を入手してふたたびパリに帰ってきました。

しかし、その間にジョーンはラヴィックはもはやフランスに入国できないと考え、外国に一人いる不安からアレックスという青年といっしょに暮らすようになりました。ラヴィックがふたたびパリに来たのを知り、ジョーンはラヴィックの元に行こうとしましたが、アレックスは狂気のように怒り、彼女を部屋に閉じ込めました。

この時期に、ヒトラーはドイツの東側に位置するポーランドを攻撃し、ソヴィエト連邦と分割する軍事作戦の準備をしていました。1939年9月1日、ドイツ海軍はバルト海に面したポーランドの都市グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を攻撃しました。
それを見て、イギリス・フランスを中心とする連合国はついに9月3日にドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。

その日の夜、ジョーンは別れ話に激高したアレックスの暴力を受け、ラヴィックに電話で助けを求めましたが間に合わず、翌朝薄倖の人生を終えました。
一方、フランスがドイツに対して宣戦布告したのでラヴィックはフランスの敵国人となり、収容所で監視下に置かれることになりました。

フーケッツ 小説 『凱旋門』 の終わりの部分で、主人公ラヴィックとジョーンが最後に別れるとき、「戦争が終わったらフーケッツで会おう」と約束する場面があります。

フーケッツはシャンゼリゼ通りに面した老舗カフェで、二階はレストランになっています。二階の窓からはシャンゼリゼ通りを見渡すことができ、通りの先にある凱旋門もすぐ近くに見えるということです。

ヨーロッパの動乱に巻き込まれた主人公2人は、ふたたびこのカフェで会うことはできませんでした。2人が再会するはずであった1944年に発表された長編小説 『凱旋門』 は、全世界で200万部を超えるベストセラーになりました。

映画 《凱旋門》

映画 《凱旋門》  ヨーロッパでの戦争も太平洋戦争も終了した1948年に、アメリカ映画 《凱旋門》 が制作されました。映画の監督は、1930年に同じレマルクの小説 『西部戦線異状なし』 を映画化したルイス・マイルストンが担当しました。

女主人公ジョーン役は、スウェーデン出身の女優イングリッド・バーグマンが演じました。バーグマンはその5年前にアメリカ映画 《誰がために鐘は鳴る》 に主演するなどで、当時大変な人気でした。

主人公ラヴィック役はフランス俳優シャルル・ボワイエが演じました。バーグマンとボワイエにとっては1944年の 《ガス燈》 に次ぐ共演となりました。

映画 《凱旋門》  映画中で上の写真の場面は、前記カフェ フーケッツで撮影されたものと思われます。

1940年代後半当時はアメリカ映画では 《誰がために鐘は鳴る》 、 《小鹿物語》 、 《若草物語》 などカラー作品が多くなりましたが、ヨーロッパ諸国ではなおモノクロ作品が主流でした。
マイルストン監督は、アメリカ人ながらこの悲恋の物語をモノクロ画面で描くのに成功しました。

映画 《凱旋門》 は日本では1952年に公開されました。当時32歳だったバーグマンの美貌が評判となり、何度も繰り返し映画館に通って観た人も多かったそうです。

栄光の凱旋門

凱旋門  さて、その凱旋門は1806年にナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まりました。古代ローマに憧れていたナポレオンが、ローマの凱旋門を範として設計させたといわれます。

ところがナポレオンは、1812年にロシア遠征で大敗して南太平洋セントヘレナ島に幽閉され、パリの凱旋門を見ることなく1821年に死去しました。

建設開始から30年経ったルイ・フィリップの王政復古時代の1836年に凱旋門は完成しました。
1840年にナポレオンをパリ・アンヴァリッドに改葬したとき、その遺骸はパリ市民の歓呼に迎えられて凱旋門を通りました。

 ナポレオンが自国の軍隊の戦勝記念碑として建設した凱旋門ですが、実はナポレオン以後もあまり芳しい使い方をされませんでした。
ナポレオン・ボナパルトの甥フランス皇帝ナポレオン3世は、準備不足のまま1870年7月にプロシアに対し宣戦布告してドイツ国境に進攻しましたが、結果は惨澹たる敗北となりました。普仏戦争に勝利したプロシア軍は、この凱旋門を通ってパリに入城しました。

また第二次世界大戦のはじめの段階でイギリス・フランスを中心とする連合国に勝利したヒットラーのドイツ軍も、やはりこの凱旋門を通ってパリ市内に行進しました。

その後連合軍がノルマンディ上陸から北上してパリを解放したときは、ド・ゴールの率いる自由フランス軍は連合軍の先頭に立って凱旋門を行進しました。凱旋門は、ナポレオンが意図してから240年近く経った後にようやくフランス軍の栄光を示す出番を迎えたのです。

パリのシンボル
 皆さまは、花の都パリにもっともふさわしいイメージを持つ建造物はどれとお思いでしょうか。セーヌ左岸にあるエッフェル塔でしょうか。シテ島にあるノートルダム寺院でしょうか、あるいはモンマルトルのサクレクール寺院でしょうか。

ナポレオン・ボナパルト  人によってこの質問への解答はさまざまでしょうが、私はパリの中心であるこのエトワール凱旋門を挙げたいと思います。それはナポレオン・ボナパルトがこの巨大な戦勝記念碑に建設の段階から深く係わっているからです。

フランスの近代史にはナポレオンが極めて大きな役割を果たしており、現代のフランス人も心中にナポレオンのイメージを持っているといわれます。
ルーブル美術館は、ナポレオンが諸国から美術品を集めたことで収蔵が非常に多くなりました。ルーブルを歩き回ると、ほうぼうにナポレオンの名の頭文字Nが見受けられるのは、そのためです。

ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオンは、後にナポレオン・ボナパルトの栄光を追って帝政を復活し、自ら皇帝に就任して「ナポレオン三世」と称しました。ナポレオン三世はセーヌ県知事オスマン男爵に命じてパリ市街の大改造を断行し、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった大凱旋門を中心として大通りを各方向に建設させました。
パリの市街は、それら二人のナポレオンによってほぼ現在の形が形成されたのです。

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私は、最初にパリを訪れたとき、シャンゼリゼー大通りに近いところにあるホテルに宿泊しました。そのホテルには夕方チェックインしましたが、ホテルのフロントで訊ねると、凱旋門は歩いて10分ほどのところにあるということでした。

さっそくシャンゼリゼー大通りに出て歩き始めると、行く手に巨大な凱旋門が見えてきました。なお、今回地図で調べると、小説 『凱旋門』 に出てくる前記老舗カフェ フーケッツがそのあたりにあったのがわかりました。

凱旋門はシャルル・ド・ゴール広場という大きなロータリーの中央にあり、私どもが通ってきた歩道から地下道を通って渡るようになっています。地下道から上がって凱旋門の真下で上を見上げ、その巨大さに驚きました。エトワール凱旋門の高さは50mもあるそうです。

近くにいた日本人の若い女性のグループが、私にカメラのシャッターを押してほしいといってきました。もうかなり夕闇がせまってきたのでカメラのフラッシュをたいて撮影したところ、凱旋門の暗い壁をバックに女性たちの笑顔が浮かびました。



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