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野煙る ・ 小説・評論
南海への憧れ
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エルミタージュ美術館

 ゴーギャン  数年前に、私どもはロシア共和国のサンクトペテルブルクを訪れました。サンクトペテルブルクは旧帝政ロシアの首都であった古都です。

サンクトペテルブルクの緯度は59°で、北極圏のわずか南方にあります。冬季の過酷な気候は、私ども日本人の想像を絶するといわれます。

サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館は、旧帝政ロシア18世紀後半の女帝エカテリーナ2世によって創設されました。

そのエルミタージュ美術館を訪れ、展示を観ていると、19世紀後半のフランス画家ポール・ゴーギャンの作品がかなり多数あるのに気がつきました。
この極北の地で、帝政ロシアの皇帝たちや国民はまだ見ぬ南海への憧れを感じたのでしょうか。

ロビンソン・クルーソー
 イギリスの小説家ダニエル・デフォーは、1660年にロンドンに生まれました。さまざまな事業を起こしてときには大成功を収め、ときには破産するという波乱の人生だったそうです。

18世紀に入るとデフォーはパンフレット作者、ジャーナリストとして名を成し、やがて小説を書くようになりました。デフォーは英語で書かれた小説の先駆者の一人とされます。

1704年、スコットランド人船員アレキサンダー・セルカークは船長との争いがもとで南米チリの沖合にあるマス・ア・ティエラ島に取り残されました。セルカークは、4年あまりの間マス・ア・ティエラ島の密林で生活していましたが、1709年に他の船の乗組員によって発見され、ようやく故国スコットランドに帰ることができました。

セルカークの体験談は、1713年にロンドンの新聞に掲載され、話題になりました。イギリスはこのころからインドに進出し、マドラス、カルカッタ、ボンベイなど次々と拠点を建設したので、イギリス国民は南洋への関心を深めていたのでしょう。

ロビンソン・クルーソー  デフォーはこのストーリーからヒントを得てヨーク出身の船乗りを主人公とする小説 『ロビンソン・クルーソー』 を書き始め、1719年に刊行しました。

小説では、ロビンソンの乗った船が南米東海岸、大河オリノコ川の河口で難破してロビンソンだけが近くの無人島に漂着し、28年間を過ごしたというストーリーになっています。

ロビンソンがたった一人で南海の無人島で生活を築いて行く苦労、難破船から入手した聖書により精神的支えを得る様子などが読者の共感を得て、この小説は世界的な大ヒットになりました。

ハワイ/ マーク・トウェイン
 マーク・トウェイン(本名サミュエル・クレメンズ)は、1835年にアメリカ中部ミズーリ州に生まれ、ミシシッピ河畔のハンニバルで育ちました。

サミュエルは1858年にミシシッピ川の水先案内人になりましたが、南北戦争でその職を失い、新開地ネバダ準州に行きました。その地ではじめた銀鉱探しが大失敗におわり、サミュエルはネバダ準州を逃げ出して西海岸サンフランシスコに移りました。

サミュエルは、その後、1863年からサンフランシスコやサクラメントで新聞記者として働き始めました。また、このころから 「マーク・トウェイン」 というペン・ネームで旅行記やユーモア小説を書いて新聞などに寄稿し始めました。

ハワイ通信  トウェインは1866年、31歳のときハワイ諸島に旅行し、各地に5か月間滞在しました。
1810年にカメハメハ大王(左の写真)がハワイ諸島を統一してハワイ王国を築きましたが、トウェインが行った当時はハワイ諸島は列強各国が進出して領有を争っていました。
南北戦争の終了後、アメリカ合衆国からの移民が増加しアメリカの影響力が大きくなりました。

トウェインがハワイ滞在中に書いた記事は、 『ハワイ通信』 として新聞に掲載されました。アメリカ国内でハワイ諸島への関心が高まったときでもあり、トウェインの記事は大変好評を博したそうです。

宝島/ スティーヴンソン
 イギリスの小説家ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、1850年にイギリス・スコットランドのエディンバラに生まれました。エディンバラ大学を卒業し、弁護士になりましたが、生まれつき病弱だったので各地を転地療養しながら折にふれさまざまな執筆をはじめました。

スティーヴンソンは、少年向けの雑誌に連載していた海洋冒険小説をとりまとめて1883年に小説 『宝島』 を刊行しました。イギリス西海岸のさる村にある小さな宿屋の息子ジム・ホーキンズ少年が、小説 『宝島』 の主人公です。

ジム少年の宿屋に泊まっていたボーンズという男が、見知らぬ男たちと争って殺されました。ジムは地元郷士のトレローニ、リブシー医師とともにボーンズが持っていた箱を開けて調べ、彼がかつて海賊フリントの一味であったことを知りました。

宝島/ スティーヴンソン また、ボーンズの箱の中にはフリントらが集めた財宝を隠した南大西洋の島の地図がありました。

郷士トレローニとリブシー医師はイギリス西岸の港町ブリストルで船を仕立て、ジム少年を乗せて海賊フリントの財宝を探す航海に出発しました。

船がようやく目的の島に着いたとき、なんと船員たちの中にボーンズを殺した海賊フリントの元一味が紛れ込んでいたのがわかりました。

郷士トレローニ、船長ら一行は、激戦の末、なんとか海賊たちを撃退し、フリントが島に隠した財宝を手に入れることができました。

小説の 「宝島」 は、アフリカ西岸沖、現在のギニア共和国領ルーム島をモデルとしているといわれます。スティーヴンソンは世界各地を旅行していますが、この島には行ったことはないと思われます。ルーム島は一時イギリス領だったことがあるので、スティーヴンソンはその島の様子を伝え聞いていたのでしょうか。

その後38歳のとき、スティーヴンソンは体調が芳しくない中出版社の依頼で南太平洋の島々への取材旅行をしました。この旅行でスティーヴンソンは南海での生活が自分の健康によい効果をもたらすのに気づき、まもなくサモア諸島中のウポルー島に移住しました。

ウポルー島ではスティーヴンソンはまずまずの健康状態で暮らし、多くの作品を発表しました。しかし1894年12月、結核が悪化して愛する南海の島で44年の生涯を閉じました。
スティーヴンソンの遺骸は、ウポルー島にそびえるバエア山の山頂に葬られました。

ゴーギャンとタヒチ
 画家ポール・ゴーギャンは、1848年にフランス・パリに生まれました。1865年、17歳のとき船乗りになり、南米、インドに航海したそうです。1868年から5年間ほどはフランス海軍に在籍したとのことで、若いときから海に関心があったと思われます。

その後ゴーギャンはパリで株式仲買人になりましたが、株式相場が大暴落したのをきっかけにその仕事をやめ、1883年に画家に転進しました。
しかし、画家として生活できなかったので、南米パナマに渡り運河建設の作業員として働きました。その後、カリブ海のフランス領マルティニーク島で暮らしたこともありました。
このころから、熱帯の風光、人々の暮らしに強い関心を抱いたのでしょう。

ゴーギャンとタヒチ  1891年、42歳のゴーギャンは楽園を求めて南太平洋フランス領タヒチに渡りました。
しかしタヒチにも近代化の波が押し寄せ、ゴーギャンは失望を味わいました。

タヒチで困窮し、病気にもなったゴーギャンは、1893年にパリに帰りました。

パリでも生活ができなくなったたゴーギャンは、1895年には再びタヒチに渡航しました。1901年にはタヒチからマルキーズ諸島に移住し、1903年に死去しました。

サマセット・モーム

月と六ペンス  小説家サマセット・モームは、1874年にパリに生まれました。イギリスで医師になり、第一次大戦では軍医、諜報部員として従軍したとのことで、それらの経験を描いた作品もあります。
1916年、健康を害したモームはアメリカへ渡り、さらにタヒチ島など南太平洋の島々を訪れました。

その後スコットランドのサナトリウムで療養中に、モームは画家ゴーギャンの生涯を描いた小説 『月と六ペンス』 を書き始めました。

小説は1919年に出版され、イギリス、アメリカでベストセラーになりました。1942年には 『月と六ペンス』 は映画化もされたということです。

モーム 雨 モームは、南太平洋のポリネシア地方にあるアメリカ領サモアを訪れたことがありました。
1921年に書いた短編小説 『雨』 は、そのアメリカ領サモアの首都パゴパゴを舞台にしています。

布教のためにハワイからサモアにやってきた伝道師デヴィッドソンは、同じ船で来た娼婦サディ・トンプソンに対して熱心に神の教えを説きました。

しかしサディはまったく聞く耳を持たなかったので、デヴィッドソンはやむなく彼女をハワイに強制送還させる措置をとりました。それを聞いてサディは一転してデヴィッドソンに急接近し、彼の説得に応ずるそぶりを見せました。

サディが強制送還される前の晩、デヴィッドソンは彼女の部屋で夜遅くまで話し合いました。そして翌朝、パゴパゴの浜辺で・・・・・。

短編小説 『雨』 は、刊行後すぐに短編小説 の名作として世界中から絶賛されました。
舞台でたびたび上演されたほか、1931年にはアメリカで映画化されました(上の写真)。娼婦サディ・トンプソン役はジョーン・クロフォードが演じたということです。

ミュージカル 《南太平洋》

ミュージカル 南太平洋  前記マーク・トウェインの 『ハワイ通信』 が好評を博したことからもわかるように、19世紀後半以降はアメリカ合衆国の国民にとっても南海の島々は憧れの対象になっていました。

太平洋戦争後の1949年、ニューヨーク・ブロードウェイでジェームズ・ミッチナーの小説をもとにしたミュージカル 《南太平洋》 が上演されました。

太平洋戦争のさ中、南太平洋ソロモン諸島のある島にアメリカ海兵隊の中尉が赴任してきました。
日本との戦争が激化するなか、中尉と島の土産物屋の娘リアットとは恋におちました。

ブロードウェイでの大成功により、1958年に映画化されましたが、ロケーション撮影はハワイのカウアイ島で行われたということです。この映画はロジャース/ ハマースタインの作詞作曲コンビによる音楽が大評判になって世界中で上映され、興行的に大成功となりました。

老人と海
 作家アーネスト・ヘミングウェイは、1899年にアメリカ・イリノイ州シカゴに生まれました。20歳ごろから第一次大戦下のヨーロッパ各地の戦線に加わり、その後はスペイン内戦で人民戦線側に義勇兵として参加しました。1940年に発表し、代表作の一つとなった小説 『誰がために鐘は鳴る』 は、スペイン内戦に参加した経験から書かれたものです。

ヘミングウェイは若いころから海辺の生活を愛し、1931年から9年間ほどアメリカ合衆国最南端、カリブ海に面したフロリダ州キーウェストに住みました。ヘミングウェイ没後、その家はヘミングウェイ博物館として一般に公開されています。

老人と海 また、ヘミングウェイは1928年にキーウェストの南方キューバ・ハバナに行って以来、その地を愛してたびたび訪れました。1940年ごろヘミングウェイはハバナ市内に自宅を購入し、以後人生の3分の1に当たる20年ほどをその家で暮らしました。

ハバナで知り合った老漁師から巨大なカジキを釣り上げた話を聞き、それをもとにヘミングウェイは1954年に短編小説 『老人と海』 を書きました。
『老人と海』 その他の功績により、ヘミングウェイは1954年度のノーベル文学賞を授与されました。

晩年は躁鬱症に苦しむようになり、1961年、アメリカ・イリノイ州でライフル自殺を遂げました。

リンドバーグ /マウイ島

リンドバーグ /マウイ島  飛行家チャールズ・リンドバーグは、1902年にアメリカ中西部デトロイトに生まれました。

1924年に、ホテル経営者レイモンド・オルティーグは、今後5年以内に最初にニューヨーク市からパリまで、またはその逆のコースを無着陸で飛んだ飛行士に25000ドルを授与すると発表しました。

1927年5月、リンドバーグはオルティーグ賞獲得を目指して自分が設計した単発機に乗ってニューヨークの飛行場を飛び立ちました。34時間後、リンドバーグは大西洋を渡って3600マイルを飛行し、ついにパリのル・ブルジェ飛行場に着陸しました。

一夜にして超有名人になったリンドバーグは、その後アメリカに帰ってからも多忙な日々が続きました。1929年に駐メキシコ大使の娘アン・モローと結婚し、翌年長男が誕生しましたが、1932年にその長男が誘拐され、まもなく殺害されているのが発見されました。

その事件の後、リンドバーグは次第に人間不信から厭世的になり、太平洋戦争終了後は妻アンとともにハワイ・マウイ島で暮らすことが多くなりました。やがて、リンドバーグはマウイ島ハナのキパフルに土地を借り、別荘を建築しました。

70歳を過ぎたころリンドバーグはがんに冒され、1974年夏、医者から余命がいくばくもないと告げられました。リンドバーグは、病院で延命治療を受けるより愛するマウイ島で最後を迎えるほうを選び、8月にアメリカ本土を去ってマウイ島の別荘に入りました。
リンドバーグは直ちに自分の葬式の仕方を周囲に指示しました。墓はマウイの石灰岩を積み上げて作り、その中央に自名を刻んだ金属のプレートを置くことにしました(上の写真)。

マウイに着いてまもなく、リンドバーグは72歳の生涯を終えました。その葬式はマウイ古来の様式で行われ、島の4人のコーラスが 「天使のお迎え」 というハワイアンソングを唄って故人を葬送したということです。



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