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砂漠の郵便機
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サンテグジュペリ

アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ  作家・飛行士アントワーヌ・ド・サンテグジュペリは、1900年にフランス東部リヨンで生まれました。第一次世界大戦終了後の1921年に民間飛行免許を取得し、翌1922年には軍用機操縦免許を取得しました。同年、サンテグジュペリは将校訓練の試験に合格し、予備役将校の資格を得ました。

1926年には旅客輸送許可のライセンスを取得し、フランス南西部トゥールーズにあったラテコエール航空会社に入社しました。同社は後に国策会社エール・フランスに統合されることになります。
こうしてサンテグジュペリはフランス民間航空の開拓者の一人となりました。

双葉機ブレゲ―14  1926年末、サンテグジュペリはトゥールーズ=バルセロナ=アリカンテ線間で最初の郵便物輸送飛行を行いました。
これがサンテグジュペリの長い郵便飛行士キャリアの第一歩になりました。

輸送機は双葉機ブレゲ―14型機(左の写真)で、第一次世界大戦でフランス空軍によって使用されたものが民間に払い下げられて広く利用されていました。第一次世界大戦中に長足の進歩をとげた軍用機が、その後民間航空の発展に寄与することになりました。

郵便飛行機の事故
 郵便飛行の開拓時代というと、私どもはサンテグジュペリと並んでアメリカの飛行士チャールス・リンドバーグの名前を思い浮かべます。
リンドバーグはサンテグジュペリの2年後1902年にデトロイトに生まれ、第一次世界大戦後にアメリカ陸軍航空隊の訓練を受けて飛行士の資格を取得しました。その後1926年からアメリカ陸軍航空隊から払い下げられた複葉機を使って郵便輸送を行いました。

リンドバーグが第二次世界大戦後の1953年に書いた自伝 『翼よ、あれがパリの灯だ』 には、当時の郵便飛行の様子がかなり詳しく記述されています。

当時は、飛行機は軍用以外の利用が始まったばかりで、まだ飛行速度などの性能は低くエンジンなどの信頼性も乏しいのが実情でした。
郵便輸送は、故障の多い単発機に一人で乗り、昼夜を問わず飛ぶ危険な仕事でした。郵便輸送機の墜落、不時着は頻繁に起こっており、パラシュートでの脱出に失敗したパイロットの死亡が絶えませんでした。

サンテグジュペリも、郵便輸送パイロットとして地中海周辺や南米航路で長年月にわたって飛行を行いましたが、その間数度の不時着を経験し、重傷を負ったこともありました。
1927年、カサブランカ=ダカール線の定期郵便飛行を担当するため同僚が操縦するブレゲー機でアフリカへ行きましたが、その飛行機が故障してサハラ砂漠に墜落しました。
そのサハラ砂漠で体験した神秘的な夜が、その後のサンテグジュペリの著作に影響を及ぼしたといわれます。

キャップ・ジュビーに赴任

キャップ・ジュビー  1927年秋、サンテグジュペリは郵便飛行士として勤務していたアエロポスタル社から現モロッコのタルファヤにあったキャップ・ジュビー飛行場に主任として駐在するよう命じられました。

同社はモロッコのカサブランカと現セネガルのダカールを結ぶ定期郵便輸送航空便を運行していましたが、キャップ・ジュビー飛行場はその路線の中間にあり、定期郵便輸送サービスの中継地として重要な拠点でした(左の写真)。

この地域はサハラ砂漠の西端にあたり、キャップ・ジュビー飛行場は砂漠に取り囲まれた荒地にありました。西欧諸国からの独立を主張する遊牧モール人などのゲリラが出没する危険な場所でもありました。
地の果てのようなこの場所にサンテグジュペリは一人きりで18ヶ月の間駐在したそうです。

前記のように当時の郵便飛行機は故障することが多く、砂漠や海岸に墜落・不時着することも珍しくありませんでした。その際には早急に救出に行かないと、飛行士が現地ゲリラに襲われたり人質にとられたりする恐れもありました。

サンテグジュペリはこの地で自分の職務を誠実に勤め、18ヶ月の駐在中に不時着した飛行機を探すための捜索飛行を14回行ったということです。その功績により、サンテグジュペリは後にフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与されました。

孤独と危険に耐える毎日ではありましたが、仕事がない時期にはサンテグジュペリは自由な時間をもつことができました。砂漠のガゼルや狐を捕らえ、柵の中に入れて飼ったそうです。その経験は、後年 『星の王子さま』 などの作品に生かされることになりました。

処女作 『南方郵便機』

 『南方郵便機』 <  キャップ・ジュビー駐在中での体験をもとに、サンテグジュペリは自伝的な小説を書き始めました。
翌1928年の末にサンテグジュペリはフランスに帰国し、小説を書き進めて 『南方郵便機』 という題名をつけて出版社に持ち込みました。

小説の語り手はサンテグジュペリ自身とおぼしきキャップ・ジュビー飛行場の責任者「わたし」です。
「わたし」の幼なじみでやはり郵便飛行士のジャック・ベルニスが主人公となっています。
ジャックはフランスのツールーズを飛び立ち、キャップ・ジュビー飛行場を経由して南方ダカールに向かう飛行をしています。

ジャックはパリで人妻エルラン・ジュネヴィエーヴとの情交がありました。ジュネヴィエーヴがジャックと会っている間にジュネヴィエーヴの子供が高い熱を出し、死んでしまいます。ジュネヴィエーヴ夫妻のいさかい、子供の葬式の様子などが、モノローグ的な一人称の文体で描かれています。どこか突き放したような淡いタッチの文調が印象的です。

ジャックはモロッコのカサブランカから「わたし」のいるキャップ・ジュビー飛行場を目指していましたが、強風のためモロッコのアガディール中継基地に引き返しました。
アガディールから再出発したジャックの郵便機は、「わたし」のいるキャップ・ジュビー飛行場をパスし、その南方にあるポール=テチエンヌ中継基地に着きました。
その後、ジャックの郵便機は同中継基地を出発しましたが、そこと目的地ダカールとの間にあるセネガルのサン=ルイ中継基地の手前で消息を絶ちました。

まもなく、郵便機のルートを捜索した飛行機が墜落したジャックの郵便機を発見しました。郵便機は大破して操縦士ジャックは死亡していましたが、積載した郵便物は無事でした。

南米の郵便飛行ルート
 1929年秋、サンテグジュペリは南米アルゼンチンに渡り、アルゼンチン・ブエノスアイレスに設立されたアエロポスタル社の現地法人でブエノスアイレスと周辺諸国との間の郵便飛行ルートの開拓を始めました。
サンテグジュペリらがすでに開いたフランス−西アフリカ西岸ダカールまでの郵便飛行ルートと南米諸国を結ぶ路線を接続するのが会社の方針でした。

ポテーズ25 左の写真は当時郵便飛行によく利用されたポテーズ25というフランス製の単発複葉機です。前記ブレゲ―14型機はエンジンが300馬力でしたがポテーズ25のほうは500馬力のエンジンを搭載していました。

左の写真からポテーズ25は機体も流線型になり、前記ブレゲ―14型機に比較してはるかにスマートになって巡航速度も大きくなっているのが察せられます。

当時、ブエノスアイレスはブラジル・リオデジャネイロと並ぶ南米最大の都市で、早くからスペイン人、フランス人、ドイツ人などヨーロッパの人々が多数住み着いていました。
それらの人々への郵便輸送需要は年々増加しており、サンテグジュペリの属するアエロポスタル社はそれを大きなビジネスチャンスととらえていたのです。

南米南部地図  サンテグジュペリらは、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスとチリ、パラグアイ、パタゴニアの3方面を接続する郵便飛行ルートを次々に開いて行きました(左の地図)。

ブエノスアイレスからチリの首都サンティアゴまでは西方約1100km、パラグアイの首都アスンシオンまでも同じく約1100kmほど(北方)の距離です。
これは日本では東京から北九州市までの直線距離になります。

南米の南端パタゴニアは、ブエノスアイレスの南方1700kmほどのところにあります。これは日本でいうと九州の鹿児島から北海道の旭川までの距離に当たります。

小説 『夜間飛行』

小説 『夜間飛行』  ブエノスアイレスからチリの首都サンティアゴに飛ぶには、4000mクラスの高峰が連なるアンデス山脈を越えなければなりません。
また、南方パタゴニアは2500mほどの高山が多数あり、強風が吹き荒れる難所として有名です。

当時の信頼度の高くない単発機でそれらの難所を飛行するのは、相当な危険があったことでしょう。

その時期にサンテグジュペリの同僚ギヨメの郵便機がアンデス山脈に不時着するという事故が発生し、サンテグジュペリらはその捜索を始めました。
操縦士ギヨメは不時着現場から数日間 ひたすら歩いて生還したということです。

この時期の1930年、サンテグジュペリは後に代表作の一つとなった小説 『夜間飛行』 の執筆を始めました。小説の主人公リビエールは南米での郵便飛行事業を推進していたサンテグジュペリの上司をモデルとしています。暴風雨の多い南米の厳しい天候の中で苦闘する郵便飛行士の姿がドキュメンタリーのタッチで描かれています。

翌1931年、サンテグジュペリはフランスに帰国して小説 『夜間飛行』 の執筆を続け、同年秋に作家アンドレ・ジイドが書いてくれた序文を付けて出版しました。
小説 『夜間飛行』 は好評を博し、年末にはフェミナ賞を授与されました。翌年にはアメリカなど海外諸国でも翻訳され、盛んに読まれるようになりました。

1933年にはアメリカで映画 《夜間飛行》 がクラレンス・ブラウン監督)によって制作され、高い人気を得たということです。

エッセイ集 『人間の土地』
 当時、パリ=サイゴン間の飛行記録の更新には巨額の賞金が提示されていました。1935年末、サンテグジュペリはその賞金の獲得を目指してパリのル・ブールジェ飛行場からコードロン・シムーン機に乗って出発しました。

1927年にはアメリカの飛行士チャールス・リンドバーグがニューヨークからパリまで単独無着陸飛行を成功させ、オルティーグ賞を獲得していました。2歳年下のリンドバーグへの対抗意識がサンテグジュペリにあったのは、想像するに難くありません。

コードロン シムーン機 左の写真はそのコードロン・シムーン機です。単発・低翼単葉のツーリング機で、通常操縦士のほかに機関士が搭乗しました。
写真に見られるように、同機は密閉キャビンを備えており、悪天候下でも安定して飛行できる設計になっていました。

優れた軽量設計により、220馬力という小さなエンジンで最大速度 300km/h、巡航速度 270km/hをマークし、航続距離は1,500 km に達するスペックでした。

しかしサンテグジュペリと機関士は、この飛行機に乗ってパリを飛び立った翌日、なぜか雄図むなしくアフリカ北部リビアの砂漠に不時着しました。
サンテグジュペリらはその後3日間リビアの砂漠中をさまよっていたところをベドウィン遊牧民に発見され、ようやく生還することができました。

人間の大地 生死の間の3昼夜を砂漠中ですごした体験は その後のサンテグジュペリの生涯に大きな影響を及ぼすことになりました。

38歳の時に執筆した 『人間の土地』 は、郵便飛行士になったころの思い出、僚友の郵便飛行士たちについて、飛行機技術の進歩について、サハラ砂漠での現地民との交流についてなどを自由闊達に書き連ねたエッセイ集です。
前記リビア砂漠での不時着とそれからの生還についても、詳しく記述しています。
この作品は同年のアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞し、後に英語にも翻訳されました。

『星の王子さま』
 1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、サンテグジュペリは予備役空軍大尉として召集され、長距離偵察飛行の任務につきました。翌年、フランスがドイツに降伏すると、その秋サンテグジュペリは北アフリカ経由でアメリカに亡命しました。

1941年、アメリカ・ニューヨークで 『戦う操縦士』 を執筆し、翌年アメリカの出版社からフランス語で刊行しました。フランス北東部シャンパーニュの基地からの長距離偵察飛行を描いた作品ですが、飛行についてあるいは人間の行動についての思索が中心になっています。

星の王子さま』 1943年、サンテグジュペリは滞在中のアメリカで 『星の王子さま』 を書き上げ、英語版とフランス語版で出版しました。

童話の体裁をとった作品ですが、世界大戦という極限的な状況下にある人類全体へのメッセージでもあると受け取られています。

操縦士の「私」は、サハラ砂漠に不時着しました。水は1週間分しかなく、周囲1000マイル以内には誰もいないであろうと思われました。
不安な夜を過ごした私は、翌日、砂漠で不思議な少年と出会いました。少年はある小惑星からやってきた王子であると私に告げました。

前記のように、サンテグジュペリは1935年にアフリカ北部リビアの砂漠に不時着し、その後3日間リビアの砂漠をさまよっているうちに遊牧民に発見され、やっと生還することができました。それについてはその3年後に書かれた 『人間の土地』 に記述されていますが、この 『星の王子さま』 もまたリビア砂漠での極限体験の産物といえるでしょう。

この本の初版にはサンテグジュペリ自身の筆になる挿絵が大小あわせて47点掲載されています。 『星の王子さま』 が世界中の広い年齢層の読者たちに愛読されたのには、それらの愛すべき挿絵が大いに役立ったのは明らかです。
『星の王子さま』 は子供から大人まですべての読者のための童話であり、またすべての読者のための絵本でもありました。

長距離偵察飛行
 1943年5月、 『星の王子さま』 を発表した後、サンテグジュペリは祖国フランスをナチスから奪還するために長距離偵察飛行要員としてふたたびヨーロッパ戦線に参加しました。
当時、ヨーロッパ戦線での長距離偵察飛行にはアメリカ・ロッキード社が開発した F-5B という双胴型の双発機が多く使われていました。

ゴーギャンとタヒチ F-5B は有名な双胴戦闘機ロッキード P-38 (ライトニング)と同シリーズの設計になるもので、外観は P-38 とほぼ同じでした(左の写真)。

P-38 には多くの機種がありますが、たとえば P-38F の仕様では

   最高速度 650 km/h
   航続距離 3,100 km
   発動機出力 1,325馬力

という高性能になっています。双発機でもあり、長距離偵察飛行にはうってつけの機種でした。

月と六ペンス 1944年7月31日、サンテグジュペリはコルシカ島(左の写真右下)北東端のボルゴ基地から F-5B 機でフランス東部グルノーブル・アヌシー方面の偵察に飛び立ちました。
しかし、その後同機は基地に帰投せず、サンテグジュペリは行方不明になりました。

2000年になって、マルセイユ沖の地中海から F-5B 機の残骸が発見されました。それに付いていた機体番号からその飛行機がサンテグジュペリが搭乗した偵察機であるのが判明しました。

2008年にある元ドイツ軍パイロットが、サンテグジュペリの偵察機を Bf-109 メッサーシュミットで撃墜したのは自分だと告白しました。

偵察機は、原則として機関砲などの武装は持っていません。敵の戦闘機に発見されて攻撃を受けても応戦はできず、ひたすら攻撃を避けて逃げるしかないのです。
そのため当時の偵察機には F-5B など高速機が使われたのですが、Bf-109メッサーシュミットのような高速戦闘機に遭遇したときには逃げ切れないこともあったそうです。

サンテグジュペリのテーマ
 サンテグジュペリは、フィガロ紙上で次のように述べています。
わたしにとって、飛ぶことと書くことはまったくひとつなのです。肝心なのは行動すること、そして自分の位置を自分自身のなかで明らかにすることなのです。飛行機乗りと作家はわたしの意識の中で同じ比重をもって渾然一体となっています。
それでは、一体である「飛ぶことと書くこと」を通してサンテグジュペリが描こうとしたテーマは何だったのでしょうか。私はそれは「死」だったのではないかと思います。

前述のように、信頼性の高くない当時の飛行機で長距離飛行を行うのは大きなリスクがありました。サンテグジュペリ自身もたびたび飛行機事故を経験し、重傷を負ったり、砂漠に不時着してやっとの思いで生還したこともありました。

それでも懲りもせずに、サンテグジュペリはまた死神を道連れにするような新たなる長距離飛行に出かけました。最後は40歳を過ぎてから新鋭双胴偵察機の操縦訓練を受け、敵ドイツ軍が占領するフランス内陸深くまでの長距離偵察飛行を行いました。

サンテグジュペリの作品では、主人公が嵐にあって死んだり行方不明になるストーリーがいくつもあります。死と隣り合わせの極限状態での人間観、歴史観、芸術観が、サンテグジュペリ作品のバックボーンになっているように感じます。



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