トップページ 文学紀行 俳句エッセイ 写真と俳句 四季の風物 小説・評論

野煙る ・ 小説・評論
三四郎・東大構内
メニューへ

 明治29(1896)年、漱石は、小説「坊ちゃん」のモデルとなった愛媛県尋常中学校の英語教師を退官、五高の英語科教授として熊本に赴任しました。
この地で英国留学に出発するまでの約4年間を過ごしましたが、その経験が、その後いくつかの小説の中に生かされることになりました。明治39年に書かれた短編小説 『二百十日』 は、阿蘇登山のときに台風にあったのを題材とした秀作です。

また、阿蘇の大草原草千里を詠んだ次の俳句を残しています。
   行けど萩
       行けど薄(すすき)の
           原広し         夏目漱石
漱石が自分でもいっているように、漱石の俳句には平凡なものも少なくありません。しかし、この俳句には、広漠たる草千里の景色を読者の眼前にひろげる力があると思います。

『二百十日』の2年後に書かれた小説 『三四郎』 の主人公小川三四郎は、その熊本の五高を卒業したという設定になっています。

チンチン電車
チンチン電車

 三四郎は、東京帝大に入学するために熊本から上京しました。小説 『三四郎』 には

 三四郎が東京で驚いたものはたくさんある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴るあいだに、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。

と書かれています。
そういえば、小説 『坊ちゃん』 の最後に、主人公が松山の教師をやめて東京に帰ってきてから、「その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。」とありましたね(^_^)。

東大赤門
東大赤門

 現在東大には「正門」があり、過半数の関係者はその正門を通って出入りしています。しかし、漱石の時代はまだ現在正門と呼ばれている門がなく、正門の向かって右側、本郷三丁目寄りにある「赤門」を利用していました。

現在の東大本郷キャンパスは、もとは加賀藩前田家の上屋敷でした。
徳川十一代将軍家斉の娘が前田家に嫁ぐ際に、前田家がこの上屋敷に赤門を建てました。「赤門」というのは、将軍の娘を嫁に迎える大名だけに建てることが許されたということです。

小説 『三四郎』 では、三四郎がこの赤門を通って東大構内に入り、後に三四郎池と呼ばれるようになった池の周りを散歩したと書かれています。

小説では、三四郎は東大の文科に入学したという設定になっていると思われます。

東大文学部
東大文学部

 現在の東大文学部は、赤門の向かって左側にある正門の近くの建物にありますが、これは東大の中でも最も古い建物の一つです(左の写真)。

漱石は、この小説を朝日新聞に連載するにあたり、次のように書いています。

 田舎の高等学校を卒業して東京の大学に入った三四郎が新しい空気に触れる、そうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触していろいろに動いてくる、手間はこの空気のうちにこれらの人間を放すだけである。

 英語教師の生活の中で、漱石は、若者たちが明治の新しい空気に触れて戸惑い、悩みつつも、次第に自分の道を見出していくさまを見てきたのでしょう。その若者たちをモデルとして、これまでにない自由な小説を書いてみたい、という漱石の意気込みがうかがえます。こうして、日本初の本格的な青春小説が誕生することになりました。

三四郎池
三四郎池

 旧加賀藩邸の庭園にあった池が、東大に移管されて「ひょうたん池」と呼ばれていましたが、この小説に登場して以来、「三四郎池」と呼ばれるようになりました。
東大図書館の裏のがけを、石段で下っていったところにあります。

少し前、根津神社にいった帰りに、何十年ぶりかで、この池に行って見ました。
以前は確か、水量が少なくて、まわりにごみが捨てられていたような記憶がありましたが、今回いったところ、水が満々としていてとてもきれいだったのには驚くと同時に大変嬉しくなりました。

下水を高度処理した水を大量に池に注入したので、水量が増えてきれいになったとのことです。
この池のほとりで、三四郎は、団扇を持った若い女性里見美禰子に出会います。

美禰子
美禰子

 このどこか謎めいた雰囲気のある女性に、三四郎は次第に惹かれていきますが、新時代の女性美禰子は、三四郎に近づいてはまた遠ざかるという姿勢を繰り返し、三四郎の心を悩ませます。結局、美禰子は別の男性と結婚してしまいます。

この美禰子のモデルは、「元始、女性は太陽であった」で有名な文芸誌『青鞜』の創刊者平塚らいてうであったといわれます。

小説『三四郎』が新聞に連載されはじめてから4年後、らいてうは漱石の弟子森田草平となぞの心中未遂事件を引きおこし、世間を騒がせました。

ストレイシープ
 小説 『三四郎』 の中には、「ストレイシープ」という言葉が何ヶ所かで使われています。小説の最後も、
三四郎は何とも答へなかつた。たゝ口の内で、迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)と繰り返した。
となっています。『ルカによる福音書』15章に
なんじらのうちたれか百匹の羊を有(も)たんに、若し一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや
とあるのが、この言葉の出所だそうです。

小説 『三四郎』 は、新聞連載中から若者の圧倒的な支持を集め、やがて大学生がかならず読むべき本ベストテンに入るまでになりました。私どもの大学生時代にも、文学に関心のある同志で、「ストレイシープ」について議論した思い出があります。

この小説の発表以来、まもなく100年になりますが、若者の気質、若者の悩みは基本的には昔も今もあまり違わないと思います。現在の若者たちの中に、三四郎も美禰子も与次郎もやはり生きており、ストレイシープもやはりいるのです。

   萩野原
       迷羊(めいよう)さがし
           日も暮れぬ



メニュー

トップページ 文学紀行 俳句エッセイ 写真と俳句 四季の風物 小説・評論

このウェブの姉妹サイト
実りのとき
このウェブの姉妹ブログ
実りのときブログ