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スペイン風邪/ 第一次大戦
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パンデミックス

SARS  人あるいは他の動物を介して疫病が広まり、国境を越えて世界中に蔓延する状態になったとき、それをパンデミックス(感染爆発)と呼びます。

最近では、1997年には高病原性鳥インフルエンザ、2002年にはSARS(重症急性呼吸器症候群)が世界的に大流行になり、パンデミックスの一歩手前の状態になったとされます。

 第一次世界大戦の末期の時期、1918年から1919年にかけて、「スペイン風邪」 という疫病が世界中に蔓延しました。スペイン風邪は、流行が広まる速さ、感染した地域の広さ、羅病死者数のいずれをとっても近世のパンデミックスの中で空前の激しさを示しました。
特に、欧米、日本など当時の先進諸国の成人層に羅病死者が多く出たため、当時の各国の社会情勢に大きな影響をあたえることになりました。

スペイン風邪とは
 そのスペイン風邪なるものは、いつ、どのようにして人類の前に出現したのでしょうか。
これについてはいくつかの説があるようですが、スペイン風邪の流行が最初に明瞭になったのは1918年3月、アメリカ北部のデトロイト、サウスカロライナ州などとされています。スペイン風邪は、それらの地域からアメリカ国内各地に急速に伝染して行きました。

スペイン風邪 現在では、これはウィルスによるインフルエンザの一種であったのがわかっています。しかし、当時の細菌学では電子顕微鏡がなく光学顕微鏡で観察するだけだったので、ウィルスという病原体がまだ発見されていませんでした。

スペイン風邪は、対策の取りようがないまま国境を越えて爆発的に広まり、全世界で5000万人以上の死者が出る大感染病災害になりました。

現在ではスペイン風邪がA型インフルエンザウイルスのH1N1という亜型であるのが判明しています。A型インフルエンザウイルスの中には、ヒトや家禽に対しインフルエンザを引き起こすものがあります。スペイン風邪は、それまでヒトに感染しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異してヒトに感染する形に変化したものだそうです。
当時の人類にはスペイン風邪は未知の新感染症であり、免疫を持った人がほとんどいませんでした。そのため、全世界にわたって惨澹たる大感染病災害が起こったのです。

現在は、ウィルスなど新種病原体と人類との闘いが本格的に始まってから間もない段階といわれます。今後、アフリカ、南米などの奥地の開発が進むにつれ、新種のウィルスが登場して人類の脅威になるかも知れません。また、航空機など輸送機関の発達により、どこかで発生した疫病がきわめて短時間のうちに世界中に蔓延する恐れも出てきました。

将来起こりうる脅威に備えるために、近世のパンデミックスの代表格であるスペイン風邪について研究し、その種の疫病が今後発生した場合を想定して対策を少しづつでも進めておく必要があるでしょう。

第一次世界大戦
 ヨーロッパでは、1914年から第一次世界大戦が行われていました。アメリカは当初ヨーロッパでの世界大戦に関与しない方針でしたが、ドイツの無制限潜水艦作戦によりアメリカ船舶に大きな被害が発生したため、1917年4月6日にドイツに対し宣戦布告しました。

5月にはアメリカ軍師団が初めてヨーロッパの前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士がアメリカから輸送されました。最終的には約210万人のアメリカ兵士がヨーロッパに渡ったということです。これだけの人数の兵士たちの中にはスペイン風邪感染者が多数いましたが、それらが輸送船や前線など劣悪な衛生環境におかれたために、結果としてヨーロッパ全域にスペイン風邪が一挙に拡大することになりました。

スペイン風邪は、当時第一次世界大戦で対戦中であったフランス、イギリス、ドイツなど各国で大流行し、多数の羅病者、死者が出ました。しかし、対戦中の各国は自国のダメージを敵に知られないように大流行の実態を一部しか公表しませんでした。
一方スペインは第一次世界大戦では中立の立場だったので、インフルエンザ流行の状況をそのまま公表しました。結果として、スペインがインフルエンザの発生地であったように思われたので、このインフルエンザがスペイン風邪と呼ばれるようになったのです。

パリ周辺地図 第一次世界大戦開戦から4年経った1918年3月にはドイツ軍はフランス・イギリス連合軍のパリ防衛戦線を中央突破し、パリの北東100kmあまりのところまでに迫りました(左の地図)。

ところが、そのころアメリカ兵士がもたらしたスペイン風邪の感染がピークとなって第一次世界大戦の戦場に襲いかかりました。

そのダメージは対戦中の諸国にあまねく及びましたが、特にドイツ軍兵士の羅病者、死者が非常に多かったとされます。

そのためドイツ軍のパリへの進撃は次第にペースダウンし、1918年7月ごろには戦線はほとんど停滞してしまいました。

そこに大西洋を越えてきたアメリカ軍師団が大量に投入されたため、形勢は一挙に逆転し、西部戦線のドイツ軍は防戦に追われることになりました。
1918年11月にはキール軍港での水兵の暴動をきっかけとしてドイツに革命が起こり、ドイツが連合国側に降伏して休戦条約が結ばれました。人類史上最大のパンデミックスであるスペイン風邪は、人類史上初の世界大戦の帰趨を決することになりました。

画家 グスタフ・クリムト
 20世紀初めの各国の歴史を調べると、この時期にスペイン風邪によって命を失った著名人、作家、芸術家などが多数いるのに気がつきました。それらの中には、華々しい業績をあげ始めた30歳ぐらいで亡くなった人もかなりいました。人類にとって将来大きな貢献をしてくれるはずの有為な人材が、スペイン風邪によって多数失なわれたのです。

グスタフ・クリムト  画家グスタフ・クリムトは、1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに生まれました。1876年に博物館付属工芸学校に入学し、古典主義的な絵画の制作を学びました。

1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼されましたが、その天井画に対するクリムトの制作構想が依頼主の意図から大きくかけ離れていたため、大論争になりました。

1897年に古典的、伝統的な美術からの分離を目指してウィーン分離派が結成され、クリムトが初代会長に就任しました。ウィーン郊外のベルヴェデーレ宮殿には、クリムト、シーレなどウィーン分離派の作品が多数展示されています。

クリムト作品の中でもとりわけ有名な 《接吻》 (左図)の前には、人だかりができていました。クリムトの父は金箔職人でしたが、この絵も金箔を利用して装飾性を強調しています。

この時代には、クリムトは優美な女性像を多数制作しましたが、それらは非常に人気が高く、ウィーンの上流婦人たちはクリムトに肖像画を描いてもらいたいと希望する向きが引きもきらなかったということです。

1918年はじめにクリムトは脳梗塞で病床に就きました。そのころウィーンにはスペイン風邪が流行し始めましたが、病床のクリムトはそれに羅病し、重い肺炎を起こして死去しました。享年55歳でした。

画家 エゴン・シーレ

エゴン・シーレの妻  オーストリアの画家エゴン・シーレは、1890年にウィーン近郊で生まれました。
1906年にウィーン美術アカデミーに入学しましたが、保守的なアカデミーの授業に失望し、先輩画家グスタフ・クリムトの許に身を寄せました。

やがて、シーレはゴッホなどポスト印象派の画家の作品を見て衝撃を受け、表現主義的な作品を制作するようになりました。

1914年、シーレが24歳のとき、第一次世界大戦が勃発しました。シーレは軍役に召集され、プラハに配属されましたが、1917年に首都ウィーンに転属したので制作活動を再開しました。
翌1918年にシーレはクリムトが主催した第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に出品し、一躍脚光を浴びることになりました。

しかし、このころ戦場のスペイン風邪はウィーンに伝染して爆発的に広がり始めました。

4年前に結婚したシーレの妻エディットがスペイン風邪に倒れ、シーレの子供を宿したまま10月28日に死亡しました。シーレはエディットをモデルとして上図のような作品を多数制作しましたが、その臨終の様子も詳細にスケッチに残しています。
妻を看護していたシーレもスペイン風邪にかかり、妻の死の3日後10月31日にこの世を去りました。シーレはこのときまだ28歳の若さでした。

劇作家 エドモン・ロスタン

シラノ・ド・ベルジュラック  フランスの劇作家 エドモン・ロスタンは、1868年にマルセイユで生まれました。
パリ大学に入学して法律の勉強を始めましたが、パリ在住の文人たちと交流を持つうちに劇作家を目指して戯曲の習作を行うようになりました。

ロスタンは、1897年、29歳のとき5幕劇 『シラノ・ド・ベルジュラック』 を書き、パリで上演しました。17世紀フランスに実在した貴族をモデルにした作品で、鼻が大きいために思い焦がれる女性に愛を告白できないでいる剣豪詩人を描いたものです。

『シラノ・ド・ベルジュラック』 の上演は19世紀末の代表的な当り興行となり、エドモン・ロスタンは一挙に劇作家としての地位を確立しました。20世紀になってもロスタンの名声は続き、1910年にはアカデミー・フランセーズの会員に推されました。

1918年12月2日、ロスタンはスペイン風邪によりパリで没しました。享年50歳でした。

近代フランス戯曲の傑作 『シラノ・ド・ベルジュラック』 は、その後世界の劇場で繰り返し上演され、いずれも大成功を収めました。もちろん日本でも上演されましたが、日本ではフランス文学者辰野隆・鈴木信太郎両氏による名訳で戯曲として広く読まれています。
私も昔からこれを愛読しましたが、読むたびにパリの劇場の舞台で見得を切る主人公シラノ・ド・ベルジュラックに対し、大向こうから掛け声が飛ぶのを聞くような思いがします。

この作品は、舞台での上演だけではなく20世紀以降各国で何度にもわたり映画化されました。新しいところでは、1990年にフランスでジャン=ポール・ラプノー監督による作品があります。この映画は、第43回カンヌ国際映画祭でジャン=ポール・ラプノーが監督賞、シラノ・ド・ベルジュラック役の名優ジェラール・ドパルデューが主演男優賞を受賞しました。

私もこの映画を劇場で観ましたが、映画のフィナーレ、シラノ・ド・ベルジュラックが尼僧院に入っていた女主人公の許で死ぬ場面で、私の近くの席でスクリーンを見ていた女性客数人が声を忍ばせながら泣いていたのを記憶しています。

演出家 島村抱月

島村抱月  演出家島村抱月は、1871年に島根県で生まれました。東京専門学校(早稲田大学)卒業後、1902年から1905年まで早稲田大学の海外留学生として英独に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」 を主宰しました。

1913年、舞台女優松井須磨子らとともに新劇の劇団 「芸術座」 を結成しました。

翌1914年、抱月はトルストイの小説 『復活』 を脚色して芸術座第3回目の公演として上演しましたが、これが大評判になり、各地で興行を行いました。

上の写真で左下の部分が演出家島村抱月、その上が松井須磨子らの舞台の写真です。

その舞台で劇中歌として主演女優松井須磨子が歌ったのが、有名な 《カチューシャの唄》 です。この曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は当時芸術座に参加していた新進の作曲家中山晋平が担当しました。
作曲家中山晋平に対し、島村抱月は 「日本の俗謡と西洋のリードの中間のような旋律で日本中が皆歌えるようなものを作れ」 と指示したそうですが、中山はまさにその要望どおりの親しみやすい歌謡を作曲しました。
《カチューシャの唄》 は舞台での公演をはるかに上回る評判となり、松井須磨子が吹き込んだレコードは2万枚以上を売り上げる大ヒットとなりました。

『復活』 公演の大成功に力を得て、島村は翌年やはりロシアの作家ツルゲーネフの 『その前夜』 を脚色し、芸術座で上演しました。島村は、この公演でも前年の 《カチューシャの唄》 にならって劇中歌の作曲を中山晋平に依頼しました。
そうして作られたのが、やはり名作として名高い 《ゴンドラの唄》 です。これも中山晋平の持ち味どおりの優しく親しみやすい曲で、前年の 《カチューシャの唄》 と同様に全国津々浦々におよぶ大ヒットになりました。

島村抱月、松井須磨子は、1918年10月ごろともに当時猛威を振るっていたスペイン風邪に羅病しました。その後須磨子は回復し、次回公演の稽古にかかっていましたが、島村抱月のほうは高熱が下がらず床に就いたままでした。1918年11月4日にいたって抱月の容態は急変し、翌5日の朝に亡くなりました。まだ48歳の若さでした。
悲嘆に暮れる須磨子はその後異常な言行が目立つようになり、やがて芸術座は解散に追い込まれました。明けて1919年1月5日の早朝、須磨子は最愛の島村抱月の後を追って芸術倶楽部で縊死をとげました。



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