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リー・ド・フォレスト

リー・ド・フォレスト  アメリカの発明家リー・ド・フォレストは、1873年に合衆国中西部アイオワ州で生まれました。

ド・フォレストは少年時代から発明家になる夢を持っており、合衆国東部コネチカット州にあるイェール大学で電波について研究しました。

このころ、イタリアの科学者グリエルモ・マルコーニが無線電信の実用化に成功し、イギリスとアメリカ合衆国との間の無線電信事業を開始しました。

ド・フォレストはマルコーニに手紙を書き、マルコーニの会社に就職したい旨を伝えましたが、マルコーニからは返事はこなかったということです。

無線による音声通信

 マルコーニの事業はモールス信号を使った電信送受信でしたが、ド・フォレストは音声信号を無線で送受信するシステムの開発に執念を燃やしました。

1904年、ド・フォレストはスペード・ディテクターと称する無線受信機を発明し、それを使用してニューヨークから高周波火花送信機で送信された音声信号を大西洋を越えてアイルランドで受信するのに成功しました。しかし、アメリカの発明家レジナルド・フェセンデンが 「ド・フォレストは自分の発明を見てそれを利用してスペード・ディテクターを開発した」 と訴訟を起こし、裁判の結果ド・フォレストは敗れました。

その後は、ド・フォレストは無線を利用して上記フェセンデンとは異なる方法で音声信号を送受信する方式を研究して行きました。

三極管を発明

オーディオン管  1904年、イギリス・ロンドン大学の教授ジョン・フレミングは「二極真空管」を発明し、それが高周波信号を「検波」する機能を持つのを発見しました。

ド・フォレストは、フレミングの特許を回避する方法を研究しているうちに、二極管のカソードとプレートの間に第三の電極グリッドを挿入した「三極管」を発明し、オーディオン管と名付けました。

ド・フォレストは、この電子管を1907年に「検波器」として特許を出願し、翌年発効しました。

オーディオン管 現代の私どもは、三極管は増幅機能を持つのが最大の特長であるのを知っています。
しかし、ド・フォレストは当初は三極管が増幅機能を持つのに気が付いていなかったので、三極管の特許は「検波器」として出願したのです。

特許出願後まもなく、ド・フォレストはその三極管オーディオンを電球のメーカーに製造させました。
そのメーカーは、ド・フォレストの承認のもとに、自社で製造していた電球の管球と電球用の口金を流用してド・フォレストのオーディオンを製造しました。
左の写真は、そのようにして製造された球管形オーディオンの一例とのことです。

ラジオ放送の実験

 ド・フォレストは、上記三極管オーディオンを検波器として利用したラジオ受信機を作り、ラジオ放送の実験を始めました。1908年には、新婚旅行でパリに行き、エッフェル塔のアンテナから蓄音器の音楽を送信しました。この放送は、パリから860km離れた地中海岸のマルセイユでも受信できたということです。

その後ヨーロッパからニューヨークに戻ると、ド・フォレストはメトロポリタンオペラの音楽を中継で生放送しました。有名なエンリコ・カルーソの歌唱も放送したということです。ド・フォレストがいかにラジオ放送の将来性を確信していたかがうかがえます。

さて無線で音声信号を送信するには、まず連続した高周波信号(CW)が必要です。それを音声信号で「変調」し、アンテナから空間に放射することで、ラジオ放送が行われます。
フェセンデンは、「高周波発電機」という発電機を開発してCWを作り出し、それをマイクから取り込んだ音声信号で変調してラジオ送信実験を行いました。
その後、「高周波アーク放電」を利用してCWを作る方式が考え出され、より高い周波数でのラジオ放送が可能になりました。

オーディオンの増幅機能

 1912年、二人の技術者エテン、ログウッドが三極真空管には増幅機能があるのを発見しました。三極真空管のカソードとグリッド間に電気信号を加えると、プレートの電流がその電気信号に応じて大きく変化するというものです。

これにより、人類史上初めて音声信号など電気信号を増幅するのが可能になりました。
エテン、ログウッドの二人は、三極真空管の発明者ド・フォレストが発見できなかった三極真空管の巨大な可能性を明らかにし、「エレクトロニクスの世紀」の扉を開きました。

その1912年に、GE社の技師ラングミュアが三極真空管の理論を明確にし、管内の真空度を高めることにより三極真空管の特性が改善され、安定度も向上するのを示しました。

アームストロング 同じ1912年、ニューヨークの技術者エドウィン・ハワード・アームストロングは「再生回路」という新技術を発明し、三極真空管ラジオ受信機の性能を大幅に向上させるのに成功しました(左の写真)。

再生回路とは、三極真空管を利用した検波回路において三極真空管の出力側プレート電流の一部を信号入力側に正帰還させるものです。

この研究をしている中で、アームストロングはもう一つ極めて重要な発明をしました。前記のように、無線で音声信号を送信するには連続した高周波信号(CW)が必要ですが、それが三極真空管によって簡単かつ安定に作り出せるのを発見したのです。

この発明により、高性能の無線音声送信機が簡単に実現できることになり、小規模のラジオ放送の実験が方々で始まりました。また、それらのラジオ放送を受信するための受信機も、盛んに製造されるようになりました。

ラジオ送受信機を発売

 下の写真左側は、1914年にド・フォレストの会社が発売したAMラジオ送信機の写真です。送信機の左側にマイクロフォンが取り付けられており、それからの音声信号で送信機右側面に置いた三極真空管オーディオンで発生させた高周波信号(CW)を変調してアンテナから送信するようになっています。

オーディオンが送信機本体の外側に置かれたのは、フィラメントが切れていないのを目で見て確認するためだったということです。またオーディオン管は、使用中にフィラメントが垂れてグリッドに接触しないように口金側を上にして取り付けられました。

このラジオ送信機の最初のモデルは非常にパワーが低く、電波は送信アンテナから1〜3マイルの範囲しか届かなかったということです。

オーディオン オーディオン

上の写真右側は、左側の送信機と同じ1914年にド・フォレストの会社が発売したラジオ受信機です。受信機は検波器と2段の低周波増幅器で構成され、当時のラジオ放送を受信してスピーカーを大きな音量で鳴らすことができたそうです。
検波段には2年前にアームストロングが発明した再生回路が使われたと考えられます。
その後、ド・フォレストとアームストロングはこの再生回路の特許権をめぐって長年月にわたり法廷で争うことになりました。

三極真空管の普及

小形オーディオン  ド・フォレストは、GE社の技師ラングミュアの三極真空管に関する研究成果を取り入れ、次第に三極真空管オーディオンを改良して行きました。
左の写真は円筒形のガラス管に封入した "Tubular" タイプで、ラジオ受信機に利用されたようです。

1913年には、ド・フォレストはウェスタン・エレクトリック社に三極真空管の特許の使用を許諾しました。
同社は1914年に type M / 101A という三極管を製造し、電話回線リピーター(中継器)用に販売しました。
1915年に行われた大陸横断電話回線の実験では、このタイプの三極管が550本使われたとのことです。

オーディオン ド・フォレストはこの時期に前記のように三極真空管オーディオンを使ったラジオ送信機、受信機を製造販売しましたが、ド・フォレスト・ブランドの真空管も外販しました。

1914年から始まった第一次世界大戦では軍事用無線通信に必要な送受信機や真空管が大量に求められ、ド・フォレストの事業は繁忙を極めました。

左の写真はその当時の三極真空管オーディオンで、 "genuine AUDION" (真正オーディオン)と書かれた紙箱に収められています。ガラス管球はなすび形でベークライトのソケットが付いています。

ラジオ受信機の普及

ラジオ受信機  第一次世界大戦終了後の1920年に、ピッツバーグにあらかじめ公表されたプログラムを放送する初のラジオ放送局が創設されました。
この放送局は同年に行われた大統領選挙の開票結果を速報し、大きな反響を呼びました。
以後アメリカ合衆国のラジオ放送局は急激に増加し、1924年末には1400局が開設されました。

それにつれ当時高価だったラジオ受信機も急速に普及し、1925年から1930年までの5年間に1700万台も売れたということです。
放送番組としては、現在と同じくニュース、音楽、スポーツ中継などが好評を博したといわれます。

上の写真は1920年代の初めにアメリカRCA社が発売したラジオ受信機の一つです。写真から2本の円筒形真空管が上面に置かれているのが見えます。この受信機は「ポータブル」機で、本体の中に電源として利用する電池が収納してありました。

この間もド・フォレストとアームストロングとの間の再生回路をめぐる特許紛争は継続していましたが、1926年にいたって合衆国最高裁判所でド・フォレスト側が勝訴しました。
ド・フォレストはアームストロング側から多額の補償金を受け取り、それにより大きな赤字を出していた自分の事業を清算することができました。

トーキーの開発

トーキー  20世紀初頭に実用化されたサイレント映画は1910年代には世界的に流行し、アメリカ合衆国では西部ハリウッドを中心に大産業になりました。

ド・フォレストは、1910年代から無線送受信の研究と並行してサイレント映画に音声をつける方式を研究していました。

第一次世界大戦後の1919年、ド・フォレストは「フォノフィルム」という名称のトーキーの特許を出願しました。それは映写フィルムの端に音声の信号を写真技術により明暗の線で記録する 「サウンド・オン・フィルム方式」 の一つで、可変密度方式と呼ばれるタイプの方式でした。

「サウンドカメラ」と呼ばれる専用の映画撮影カメラが開発され、映画撮影時にせりふの音声や音楽などを同時に映写フィルムに収録して行きました。
それより前はレコードにせりふなどを録音しておき、映画館で映写時にレコードを再生する方式はありましたが、それに比較してサウンド・オン・フィルム方式は映写される画面と音声とが正確に同期するというメリットがありました。

ラジオ送受信機の事業に多忙だった中、1922年にド・フォレストはそのフォノフィルム事業の会社をニューヨークで立ち上げました。翌年には多数のサウンドつき短編映画をフォノフィルム方式で制作し、ニューヨークの劇場で上映しました。

しかし、ハリウッドの大手映画会社はフォノフィルム方式を採用しませんでした。当時は多数の発明家たちがこの分野で激烈な開発競争を繰り広げており、大手映画会社は自分でもそれらの発明家を雇ってサウンド・オン・フィルム方式の開発に乗り出していたのです。

ド・フォレストの晩年

 前記のように、ド・フォレストは1926年に再生回路をめぐる特許紛争に勝訴し、多額の補償金を受け取りました。ド・フォレストは、それにより自分の赤字事業を清算し、西部ハリウッドに移ってフォノフィルム事業に本格的に取り組み始めました。

しかし、もとド・フォレストが雇っていたセオドア・ケースが大手スタジオのフォックス・フィルムに入社して開発したムービートーンというサウンド・オン・フィルム方式が、次第にド・フォレストのフォノフィルムより優勢になりました。
ド・フォレストは所有するラジオ製造会社をRCA社に売却し、その資金を使ってフォノフィルム事業をてこ入れしましたが、結局退勢は覆りませんでした。1930年代中ごろ以降はフォノフィルムを利用したトーキー映画は少なくなりました。

ド・フォレストは、発明家・事業家としても、また私生活でも波乱万丈でした。1930年にハリウッドに移住してまもなく、57歳のときに若手女優と4回目の結婚をしました。
85歳を過ぎたころ心臓発作で倒れ、その後はハリウッドで療養生活をしていましたが、1961年7月、87歳でこの世を去りました。

アカデミー賞を受賞

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム  ド・フォレストが考案したサウンドトラック方式フォノフィルムは、上記のように結局はトーキーの世界では成功しませんでした。
しかし、その後フォノフィルムをさらに発展させた方式がトーキーの標準になったということで、ド・フォレストの功績は高く評価されました。

ド・フォレストが亡くなる2年前の1959年、ド・フォレストはその年のアカデミー賞名誉賞を授与されました。映画の街ハリウッドにはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームという歩道があり、アカデミー賞受賞者など映画、音楽、テレビ、ラジオ、舞台で功績を挙げた人々の名が刻まれています(左の写真)。

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームはハリウッド観光客の大多数が訪れる観光名所ですが、その中にド・フォレストの名前が刻まれたプレートが置かれてあるということです。

ド・フォレストは、一生を通じて名誉欲、事業欲が極めて旺盛で、数百件の特許を取得し、25の事業会社を興しました。それらの特許をめぐってレジナルド・フェセンデン、エドウィン・アームストロングなどライバルの発明家との間で紛争が絶えず、常に裁判に係わっていました。裁判に敗れて破産状態になったことも何度かありました。
ド・フォレストは、よくも悪くもアメリカ発明家の一つの典型を示した人といえるでしょう。

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