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マリー・キュリー
マリー・キュリー

 マリー・キュリーは、1867年にロシアの統治下にあったポーランドのワルシャワで生まれました。

1891年、24歳のとき、マリーはポーランドを離れてフランスに行き、パリ・ソルボンヌ大学に入学して物理、化学、数学を学びました。
ソルボンヌ大学は、当時女性がこのような学問を学ぶことができる数少ない大学の一つでした。

1891年に、マリーは同大学の物理学科を一番の成績で卒業しました。翌年、今度は同大学の数学科を二番目の成績で卒業したということです。

ピエール・キュリー 大学学部卒業後、1895年に、マリーは実験物理学者ピエール・キュリー(左の写真)と結婚しました。マリー28歳、ピエール36歳のときでした。

マリーは博士号取得のための研究テーマを探し始めました。1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルは、ウラン塩化物がX線に似た透過力を持つ未知の光線を放射するのを発見しました。
ベクレル自身はその後この光線の研究はしませんでしたが、キュリー夫妻はそれに興味を持ち、共同で研究を開始しました。1898年にキュリー夫妻はベクレルの研究報告にあった鉱物ピッチブレンドを入手し、詳細な分析を始めました。

ポロニウムの抽出

 ヨーロッパでは古来ウランを含む鉱物が蛍光を発するのが知られていましたが、近代になってから精錬されたウランが蛍光ガラスの製造などに利用されていました。
キュリー夫妻は研究を始めてまもなく、精錬されたウランよりウランを含む鉱物のほうが強い放射線を発するのに気が付きました。このことから、夫妻はウラン鉱物にはウラン以外の元素が含まれており、それがウランより強い放射能を持っているのではないかと考えました。

瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)という鉱物からウランを抽出した残渣が放棄されているのがわかり、夫妻は1898年にその鉱物をチェコスロバキアから大量に取り寄せました。
その後数年間、夫妻はひたすらその大量の鉱石から放射線を発する新元素を抽出する作業にあたりました。鉱石中の新元素の含有率は極めて低かったので、夫妻は11トンにもおよぶ鉱石を処理しなければなりませんでした。

ようやく、まず、化学的性質がビスマスに近い新元素が分離されました。夫妻はその元素をマリーの祖国ポーランドにちなんでポロニウムと命名しました。新元素ポロニウムはウランの400倍も強い感光作用をもっていました。

ラジウムの抽出

 上記のようにポロニウムを分離した残渣が、なお強い放射能を持っているのがわかりました。キュリー夫妻は、その残渣のなかにはポロニウムよりさらに強い放射能を有する新元素が含まれているのではないかと推測しました。

その元素は化学的性質がバリウムに近いと思われましたが、残渣鉱物にはバリウムがかなり含まれており、新元素をバリウムから分離するのは非常に困難でした。
キュリー夫妻は辛抱強く作業を続け、4年後の1902年3月についに純粋のラジウム塩抽出に成功しました。新元素ラジウムは、ウランの数万倍も強い感光作用を示しました。

これらの業績により、1903年、ピエール・キュリー、マリー・キュリーは自然放射能の発見者アンリ・ベクレルともにノーベル物理学賞を授賞しました。

その後1906年にピエール・キュリーは荷馬車にひかれて死亡しましたが、マリー・キュリーはラジウムの研究を継続し、1910年に純粋なラジウム金属の分離に成功しました。1903年のポロニウム抽出などの業績とあわせ、マリー・キュリーは1911年にノーベル化学賞を授賞しました。

ラジウムと放射線治療

 キュリー夫妻によるラジウム発見以後、ラジウムの医療への応用が盛んに研究されるようになりました。天然ラジウム鉱石が発する微量の放射線は発ガン抑制、抵抗力増進、細胞活性化などの効果があり、癌、皮膚病、神経痛、血圧下降下、白内障、肋膜炎の治療に利用できるのが明らかになりました。

ラジウムから放射されるベータ線は、皮膚疾患などを治療するための表在照射に利用されます。またラジウムから放射されるガンマ線は極めて高い浸透力を持っているので、ラジウム塩,ラドンなどを白金製のラジウム針,純金製のグレインなどに封入し、腫瘍などを治療するための組織内照射に利用します。

ラジウムは、自然にアルファ線を放射してラドンを生成します。ラドンは原子番号86の別元素で、大気中に気体として含まれています。ラドンは自然放射性元素であり、ラドンを微量に含む温泉にはさまざまな治療効果があるのが知られています。 

ラジウムと放射被爆

 20世紀初めにはラジウムに先行してX線の研究・実用化が進行し、放射線の危険性およびその防護手段についてさまざまな知見が得られました。
しかし、ラジウムなど放射性元素の研究者たちは、研究に熱中するあまり、自分自身や研究関係者たちの放射線防護がおろそかになりがちでした。

マリー・キュリーは1898年から4年間ラジウムを抽出する作業を行いましたが、その実験室は大変粗末なものであったということです。当然ながら、ラジウムの放射能に対する防護はまったく不十分で、マリーは大量の放射線に被爆することになりました。

後にマリー・キュリーはラジウム研究所を開きましたが、そこではマリーは所員たちに放射能に対する防護に留意するように指示しました。しかし、マリー・キュリー本人は放射性物質を素手で扱うことが多く、防護対策をほとんど行わなかったということです。

40年に及ぶ研究生活で、マリー・キュリーは通常人の6億倍の放射線を浴びたといわれます。その結果、マリーは晩年になるにつれ、さまざまな障害になやむようになりました。

戦場でのX線診察

X線画像  1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、戦場で銃弾、砲弾などによる負傷者が多数発生しました。当時開発されてまもない医療用X線装置が野戦病院などに導入され、負傷者の骨折位置や体内の金属片を見つけるのに利用されました。

ところが、フランス陸軍の野戦病院にはまだX線撮影ができる設備が充分にはなく、日ごとに増加する負傷兵に対応できませんでした

マリー・キュリーはX線の専門家ではありませんでしたが、同じく放射線の研究に携わる研究者としてX線が戦場での負傷者の診察にいかに有用であるかを知っていました。

そこでマリーは、自動車にX線設備と発電機を搭載して各地の野戦病院を巡回し始めました。戦局激化によりこの自動車だけではとても多数の負傷者に対応できなくなったので、マリーは一般から自動車を募り、それらを改造してX線撮影ができるようにしました。

この活動のために、マリーは自動車の運転免許を取得し、自ら自動車を運転して野戦病院に向かいました。当時の自動車は故障が多かったのですが、マリーはそれらに対応するため自動車整備の技術も習得したそうです。

イレーヌ・ジョリオ・キュリー
ジョリオ・キュリー夫妻

 キュリー夫妻には、イレーヌ、エーヴの二人の娘がいました。長女イレーヌ(左の写真)は、パリ大学で母マリーの講義を聴き物理学者を目指しました。

イレーヌは、パリ大学卒業後、1918年に母マリーが主宰するラジウム研究所の助手になり、やがてポロニウムのアルファ線放射に関する研究でパリ大学で学位を取得しました。

1926年、イレーヌはやはりラジウム研究所でマリー・キュリーの実験助手をしていたフレデリック・ジョリオ(下の写真)と知り合い、結婚しました。

フレデリック・ジョリオ・キュリー キュリー夫妻には男子がいなかったため、ジョリオはイレーヌと結婚した後「キュリー姓」を残すためにジョリオ・キュリーという姓に改名しました。

1934年、ジョリオ・キュリー夫妻は、ポロニウムから放射されるアルファ線を軽い元素ベリリウムに照射することで人工的に放射線を発する元素(ラジオアイソトープ)が得られるのを発見しました。
夫妻はさらに窒素、リン、アルミニウムの放射性同位元素の生成にも成功しました。
この業績により、ジョリオ・キュリー夫妻は翌1935年にノーベル化学賞を受賞しました。キュリー家としては、3度目のノーベル賞受賞となりました。

放射被曝の単位

 1910年に「放射線会議」が開かれましたが、その会議で放射能の単位として「キュリー(curie, 記号 Ci)」が制定されました。キュリー夫妻の業績にちなんだもので、1グラムのラジウムの持つ放射能を基準として制定された単位とのことです。

「キュリー」 は放射能の単位として長年使われましたが、1989年以降は「国際単位系」への切り替えにより現在では「ベクレル」が使われるようになりました。キュリー夫妻の研究のきっかけとなった自然放射能の発見者ベクレルの名にちなんだものです。
2013年3月の福島原発の大事故以来、原発からの放射性物質の放射能についてのニュースなどで、私どもはこのベクレルという単位を頻繁に見聞きするようになりました。

放射線が対象物に照射されたときにどのくらいのエネルギーを与えるかを表す単位として、 "グレイ(Gy)" が制定されました。

また、人間が放射性物質、X線などからの放射線を浴びたときにどのような影響があるのかを評価するための単位として、1979年に "シーベルト(Sv) " が定められました。
まず人間の体に当たった放射線のエネルギー量をグレイ値として求め、次に人間への影響を評価するために放射線の種類、受けた体の部位別の修正係数を使った計算式からシーベルトの値を算出します。
これら放射線量の単位も、2013年3月の福島原発の大事故以来、原発関連のニュースなどで、私どもはよく目にするようになりました。

キュリー家の放射被爆

 マリー・キュリーは、長年にわたりラジウムなど放射性物質を扱ってきたので、それからの放射線に次第に侵されて行きました。また、上記のように第一次大戦中にはマリーは戦場でX線診察にも係わりましたが、その際にかなりのX線を浴びたといわれます。
さらに、マリーはラジウムから発生する気体元素ラドンをガラス管に封入して診察放射線源として使うようになりましたが、その際にも相当な放射能に被爆したと考えられます。

1932年ごろから、マリー・キュリーは原因のはっきりしない健康不良になやむようになりました。前記のように1935年にマリーの娘イレーヌ夫妻はノーベル賞を受賞しましたが、その年の春、母マリー・キュリーは娘夫妻のノーベル賞受賞を知ることなく68歳で白血病によりスイスの療養所で死去しました。

また、マリー・キュリーが主宰したラジウム研究所では、放射能の実験に携わった助手が何人か白血病などで死亡したということです。

第一次大戦中にマリー・キュリーがX線撮影車に乗って戦場に行ったとき、当時17歳だったイレーヌ・キュリーも母に同行してX線撮影に協力したということです。その際に母マリーと同じくイレーヌも診療用X線に被爆したのかも知れません。
またイレーヌは、前記のように夫フレデリックともに長年月にわたってポロニウムなど放射性物質の研究をしてきました。それらからの放射被爆も加わってイレーヌも白血病に侵され、1956年に59歳で死去しました。
さらにその2年後の1958年、イレーヌの夫フレデリックもまたに白血病で死去しました。

原子爆弾

原子爆弾  1935年ごろからヨーロッパ各国では、ウランに中性子を照射して人工元素超ウラン元素を生成する研究が盛んにおこなわれました。やがてその過程で、ウラン235に中性子を照射すると連鎖的に核分裂が起こり、その結果莫大なエネルギーが発生する可能性があるのが明らかになりました。

アメリカは、ナチス・ドイツが先にそれを兵器に利用するのを恐れ、マンハッタン計画というプロジェクトで原子爆弾の開発を始めました。 

マンハッタン計画ではウラン型とプルトニウム型の2種類の原子爆弾を開発しましたが、いずれも1945年夏までに完成しました。

原爆ドーム 1945年7月にニューメキシコ州の砂漠で完成した原子爆弾の爆発実験が行われ、その強大な破壊力が確認されました(上の写真)。

1945年8月6日、アメリカ空軍の爆撃機は、午前8時15分に広島上空でウラン型原爆を炸裂させました。広島はすさまじい爆風、熱線、放射線で地獄のような状態になり、放射線による急性障害が一応おさまった1945年(昭和20年)12月末までに約14万人が死亡したと推定されています。

広島への原爆投下の3日後、今度はプルトニウム型の原爆が長崎上空で炸裂しました。長崎では、その年の末までに約7万人が死亡したとされます。

原爆の強大なエネルギーは、爆風が50%、熱線が35%、放射線が15%といわれています。原爆炸裂の直後には強烈なガンマ線と中性子線が放射され、その後は核分裂生成物(いわゆる死の灰)による残留放射線が長期間にわたって続きました。
それらの放射線に大量に被爆した場合、全身の脱力感、吐き気等の症状が現れ、発熱、下痢、吐血等による全身衰弱で10日ほどで死亡したということです。

原子力発電所の事故

原子炉  原子力発電の原子炉では、基本的には原子爆弾と同じく核分裂によって発生する莫大なエネルギーを利用しますが、減速材と呼ばれる中性子を吸収する物質を利用して核分裂の連鎖反応を制御するようになっています。

それにより原子炉内で大量の熱を安定的、持続的に発生させ、その熱を冷却材と呼ばれる物質で原子炉の外に取り出して発電に利用します。

現在日本では、商用原子力発電では左図に示す「加圧水型原子炉」が使われています。このタイプの原子炉では、減速材、冷却材ともに軽水(通常の水)を使用します。

原子力発電の原子炉では、大量の核燃料を制御して少しずつ反応させ、エネルギーを持続的に発生させます。100万kWの原子力発電所を1年間運転するのに必要なウラン燃料は、21トンということです。一方、広島型の原子爆弾では、核爆発に使われた正味のウランは10kgであったとされます。原子力発電所には原子爆弾1発分の実に200倍以上に当たる核燃料が収納されていることになります。

放射性セシウム137の放出量は、広島型原子爆弾では89テラベクレルであったと試算されています。それに対して2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故では約15000テラベクレルの放射性セシウム137が原子炉外に放出されたとされます。

さらに、人類史上最悪の原子力発電所事故となった1986年4月のチェルノブイリ原発事故では、上記福島第一原子力発電所の事故の6倍に当たる放射性物質が放出され、北半球全体に広がったということです。

X線被爆の歴史を調べると、被爆後かなりの年数が経過し、被爆した人々が高齢に達してから白血病やがんの症状が出た例が多いのがわかります。原子力発電所事故による莫大な放射性物質拡散の影響は、今後次第に表面化してくる恐れがあります。
被災者の皆さまに対して国・県による長期の健康調査を実施するとともに、被爆地除染の研究、人体の内部被爆除去の研究を行う必要があるでしょう。

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