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エッフェル塔
錬鉄と鋼鉄

 鉄鉱石とコークスなどを溶鉱炉の中で高温で熱すると、「銑鉄」と呼ばれる金属ができます。銑鉄は銅、炭素、リンなど不純物が多いので一般にもろくて折れやすく、大型構造物には使えません。

産業革命が始まったころの18世紀末に、イギリスのへンリー・コートにより「反射炉」を使って銑鉄を精錬して「錬鉄」を作る技術が開発されました。

錬鉄は、後に開発された鋼鉄に比較すると強度はやや劣りますが、銑鉄よりはるかに粘りがあり、鍛造して構造材を作るのに適していました。

フランス革命100周年の1889年にパリで第4回万国博覧会が開催されましたが、それを記念して巨大な鉄塔エッフェル塔が建造されました。エッフェル塔の本体には錬鉄が使われています。錬鉄は溶接できないので、錬鉄で作った多数の部材をリベットで次々に接続して巨大な鉄塔を組み上げました。

錬鉄は、製造工程が複雑なので価格は高く、一般的な構造物に広く使われることはありませんでした。世界各国は競ってより生産性の高い製鋼技術の開発に乗り出しました。


ベッセマー製鋼法

ベッセマー転炉  イギリスの発明家ヘンリー・ベッセマーは、1855年ごろに溶鉱炉で作られた銑鉄を転炉というるつぼ型の炉に移し、その転炉の底部から高圧の空気を吹き込む方式を考案しました。
銑鉄中の炭素など不純物は高圧空気中の酸素と反応して高温で燃焼し、短かい時間のうちに「鋼鉄」という強靭な鉄になりました。

ベッセマー製鋼法は、世界各地の製鋼業者にライセンスされ、品質の優れた鋼材が安い価格で大量に市場に供給されるようになりました。
アメリカでは、五大湖の近くミシガン州デトロイトを中心に製鋼業が急速に発展して行きました。

アンドリュー・カーネギー

アンドリュー・カーネギー  アンドリュー・カーネギー(左の写真)は、1835年にスコットランドに生まれ、1848年に親とともにアメリカに移住しました。さまざまな職業についた後、1860年代には鉄道、鉄橋、油井塔など主として建設関係の事業を始めました。

1870年代にはカーネギーはアメリカ東部ペンシルベニア州ピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を発足させました。カーネギー鉄鋼会社は、前記ベッセマー製鋼法のライセンスを取得し、良質の鋼材を大量生産して低価格で市場に提供しました。

1890年代には、カーネギー鉄鋼会社は世界最大の高収益会社になったということです。

ヘンリー・フリック

ヘンリー・フリック  ヘンリー・フリック(左の写真)は、1849年にピッツバーグに生まれました。さまざまな職業についた後、1871年にピッツバーグ近郊の炭田を買収し、製鉄用コークスを製造する炉を建設しました。

アメリカ製鋼業の発展につれてフリックのコークス事業は急成長し、アメリカの製鉄用コークスのシェア80パーセントを占めるまでになりました。

フリックの最大の顧客はカーネーギー製鋼会社でした。1889年、40歳のとき、フリックはアンドリュー・カーネギーによってカーネギー鉄鋼会社の共同経営者に迎え入れられました。

アレクサンドル3世橋

アレクサンドル3世橋  パリ・セーヌ川を隔てて向かい合っている名所アンヴァリッドとグラン・パレ、プティ・パレの間を結ぶように、巨大な橋がかかっています。それが、パリでももっとも美しい橋といわれるアレクサンドル三世橋です。

1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設され、ロシアとの同盟締結を記念して先代ロシア皇帝の名が冠せられました。

この橋は、当時最新の技術を利用し、鉄鋼アーチ構造で建設されました。それにより、左の写真のように川の中に橋脚がない華麗なフォルムが得られたのです。
アレクサンドル三世橋は、カーネーギー鉄鋼会社の鋼材を使用して建設されました。

長池見附橋

長池見附橋  1913年に新宿区四谷に「四谷見附橋」という橋が建設されました。橋長37mの上路式鉄鋼アーチ橋で、カーネギー鉄鋼会社の鋼材を使って組上げられたとのことです。

旧四谷見附橋は1993年(平成5年)にその資材の一部を利用して八王子市の長池公園内に移築復元され、長池見附橋という名称になりました。橋の下には池が造られ、橋の美しいアーチを映しています。

カーネーギー製鋼工場の争議
 アンドルー・カーネギーは1889年に経営の第一線から引退し、その後は後述のように図書館建設、世界平和、教育、科学研究などの社会貢献活動を行いました。
共同経営者であったヘンリー・フリックは代わってカーネギー鉄鋼会社の会長となり、当時世界一になっていたこの鉄鋼・コークス製造会社の経営に取り組みました。

1892年、カーネーギー鉄鋼会社の中心ホームステッド工場で労働争議が発生しました。
会長ヘンリー・フリックは労働組合に対し強腰で対応したので、組合側は反発し、ストライキに突入しました。会社側はロックアウトで対抗し、銃を持ったガードマンを配備しました。
やがて双方の間で銃撃戦が始まり、多数の死傷者が出る大惨事になりました。労働争議は法廷の場に持ち込まれ、長期にわたる闘争が始まりました。

法廷闘争が続いていた1892年7月、ピッツバーグのフリック会長室に暴漢が乱入し、フリックが銃撃される事件が起こりました。フリックは重傷を負いながら命を取り留め、経営側はこの事件を契機にネガティブ・キャンペーンを張って労働側を糾弾しました。
結局、フリックによるスト破り労働者の導入が功を奏し、労働組合側はギブアップしてホームステッド工場のストは終息しました。

フリック会長の手段を選ばない労働組合弾圧に対して、非難の声が高くなりました。世論の批判は、すでに経営の第一線から引退していたアンドルー・カーネーギーにも向けられました。カーネーギーはまもなくフリックが持つカーネーギー鉄鋼会社の株式を買い取り、フリックはカーネーギー鉄鋼会社を去ることになりました。

J.P.モルガン

J.P.モルガン  その後もカーネーギー鉄鋼会社の業績は向上しましたが、65歳を越えたアンドルー・カーネーギーは事業からの引退を考えていました。
そのころ、金融王といわれたJ.P.モルガン(左の写真)が鉄鋼業の独占を目指してカーネーギー鉄鋼会社の買収を狙っていました。

1901年に、アンドルー・カーネギーは自分が育てたカーネーギー鉄鋼会社をJ.P.モルガンに4億8000万ドルで売却しました。
モルガンは、カーネーギー鉄鋼会社を母体として他の製鉄会社を統合し、時価総額10億ドルの世界企業「USスチール」を設立しました。

カーネギー財団

 カーネーギー鉄鋼会社の売却で巨額の資金を得たアンドルー・カーネギーは、その後は図書館建設、科学研究援助などの文化活動を一段と活発に行いました。
アメリカおよびイギリス各地での図書館建設、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー博物館などの創設に多大な資金を提供しました。

1911年に、それら社会貢献活動の中心機関としてニューヨーク・カーネギー財団、英国カーネギー財団を創設しました。カーネギー財団が全世界に創設・寄付した図書館は2509に達するということです。

20世紀に入ってから帝国主義的国家間の対立が次第に激しくなりましたが、カーネギーは1910年に「カーネギー国際平和基金」を創設し、1914年にはニューヨークで「平和会議」を開催するなど平和事業を行いました。

カーネギー・ホール

カーネギー・ホール  今日、私ども日本人でも音楽に関心のある人ならだれでも「カーネギー・ホール」の名は知っています。

カーネギー・ホールは、1891年にニューヨーク交響楽団の本拠ホールとしてアンドルー・カーネギーによって建設されました。
マンハッタン・ミッドタウンの中心7番街にある2800席の大音楽ホールで、音響効果が優れていることで世界に知られています。

1891年のカーネギー・ホールこけら落としの際は、 ロシアから大作曲家ピョートル・チャイコフスキーが招かれ、初日に自作の「荘厳行進曲」を指揮したほか自作のピアノ協奏曲第1番を指揮するなど4回も出演したそうです。

1893年にはチェコの作曲家ドヴォルザークが交響曲第9番 「新世界より」をこのホールで初演しました。1907年には当時メトロポリタンオペラの第一指揮者であったグスタフ・マーラーが自作の交響曲第2番をこのホールでアメリカ初演しました。
「ラプソディ・イン・ブルー」などで有名なアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンも、1925年に「ヘ調の協奏曲」を、1928年には「パリのアメリカ人」をここで初演しました。

カーネギーが建設した音楽ホールは、このマンハッタンの巨大ホールだけではありません。なんと、そのほかに「カーネギー」の名を冠した大きな音楽ホールが世界中に少なくとも4ヶ所はあるということです。文化活動家としてのアンドルー・カーネギーのとてつもないスケールに驚かされます。

1919年、カーネギーがその防止に奔走した第一次世界大戦が終了した翌年、カーネギーは84歳でこの世を去りました。カーネギー未亡人は音楽の殿堂ホールカーネギー・ホールを持ちきれず、不動産業者に売却しました。まもなく音楽家たちの運動によりカーネギー・ホールはニューヨーク市によって買い取られ、現在ではカーネギー・ホール・コーポレーションというNPOが運営しているということです。

フリックのその後

 さて、カーネーギー鉄鋼会社ホームステッド工場の争議を高圧的な手段で終息させたヘンリー・フリックは、その後どうなったでしょうか。前記のように、創業者アンドルー・カーネーギーは労働争議終結後フリックが持つカーネーギー鉄鋼会社の株式をすべて買い取り、フリックはカーネーギー鉄鋼会社を去りました。

その後、金融王J.P.モルガンがカーネーギー鉄鋼会社を買収し、それを母体としてUSスチールを設立しましたが、フリックはそのUSスチールの経営陣に迎えられました。
USスチールでフリックは手腕を大いに発揮し、やがてUSスチールは世界初の時価総額10億ドル企業に躍進しました。ヘンリー・フリックは、カーネーギー鉄鋼会社時代のアンドルー・カーネーギーに続いて「鉄鋼王」と呼ばれるようになりました。

第一次世界大戦が始まってまもなくの1915年にフリックは実業から引退し、ニューヨーク・マンハッタンの高級住宅地アッパーイーストに豪邸を構えました。セントラルパークの東側、メトロポリタン美術館のすぐ近くで、美術館や博物館が多数ある地区です。

フリック・コレクション

フリック・コレクション  ヘンリー・フリックは、40年間にわたって1000点以上の美術品を収集したとされます。

フリックは、アンドルー・カーネーギーと同じく1919年にこの世を去りました。フリックはこの壮麗な屋敷にはわずか5年住んでいただけでした。
その後、フリックの豪邸はさらに増築され、1935年にはフリックが収集した美術品を展示する美術館としてオープンしました。

収蔵の中心は19世紀前半までのヨーロッパ絵画ですが、ルノアールなど19世紀後半の作品もかなりあります。フリックは長年の経験から美術作品に対して鋭い審美眼があったということで、本美術館の収蔵作品のレベルが高いのには感嘆します。

アメリカは、19世紀末から20世紀初めにかけて国力が大幅に拡充され、世界列強のトップに躍り出ました。そのころアメリカ((特に東海岸)では美術館、音楽ホールなど文化施設が盛んに建設され、ヨーロッパの絵画が多数アメリカにわたりました。

その時期のアメリカで、オランダ17世紀の画家ヨハネス・フェルメールの作品が大人気を博しました。フェルメールの作品は基本的に「風俗画」で、王侯貴族のために制作したものではなく、一般民衆の日常生活を描いています。カトリックなどの宗教色もありません。そのような「日常性」が、文化背景が新しいアメリカで大人気になった理由とされます。

フェルメールは寡作の画家で、その絵画は現在30数点が残っているのみです。それらのうち、なんと14点が現在アメリカ各地に所蔵されており、フリック邸のすぐ近くにあるアメリカ最大の美術館メトロポリタン美術館は、フェルメールの作品を現在5点持っています。

そして、このフリック・コレクションはフェルメールの作品を3点所蔵しています。あのルーブル美術館でさえ2点しか持っていないフェルメール作品を、この小美術館は3点も展示しているのです。ヘンリー・フリックが、いかに執念を持って、そしていかに金に糸目をつけずに優れたヨーロッパ絵画を集めたかがわかります。

フリック・コレクションには、ドガのすばらしい踊り子像があります。フリックは、その名画を寝室の壁に飾り、折に触れてゆっくりと眺めていたということです。私もニューヨークに行くたびにフリック・コレクションを訪ねますが、その際はしばらくこの踊り子像の前に立ってフリックが感じたのと同じ至福にひたります。

摩天楼の時代

クライスラービル エンパイアステートビル  前記のように、鉄鋼王と呼ばれたアンドルー・カーネギーとヘンリー・フリックは1919年に相次いでこの世を去りました。
その後、アメリカは第一次世界大戦で世界の兵器工場、食糧供給基地となって得た利益により好景気を謳歌しました。

ニューヨーク・マンハッタンには大建設ブームが起こり、五番街やウォールストリートには高さ200m以上の高層ビルが相次いで建てられました。また、マンハッタン島には多数の長大橋が建設されました。

左の写真左は1930年完工のクライスラービル、左の写真右は1931年完工のエンパイアーステートビルです。

この大建設ブームは当然ながら膨大な量の鉄鋼を使用しましたが、それらはアンドルー・カーネギー、ヘンリー・フリックなど第一世代の鉄鋼王の後継者たちが率いた世界的鉄鋼会社が供給したものです。第一世代の鉄鋼王たちのDNAは、現在のアメリカ実業界の中に脈々と継承されているのです。

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