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レントゲン
ヴィルヘルム・レントゲン

 ヴィルヘルム・レントゲンは、1845年にドイツ西部、オランダ国境に近いレンネップに生まれました。チューリッヒ工科大学に進学しましたが、そこで熱力学の権威ルドルフ・クラウジウスの講義を聞き、物理学の道に進むことを決意しました。

1888年にヴュルツブルク大学の教授に就任し、1894年には同大学の学長に選ばれましたが、放電管など物理学の研究も続行しました。

1895年にレントゲンはクルックス管という真空管に高電圧をかけて陰極線の研究をしていました。

その実験中にレントゲンはたまたまクルックス管を黒い紙で覆いましたが、そこから目に見えない「未知の光」がもれ出て机上にあった蛍光紙を光らせているのを見つけました。
驚いたレントゲンは、蛍光紙の発光を頼りにさまざまな実験を行い、「未知の光」が次のような性質を持つのを確認しました。
  • 管から数メートル離れた場所まで到達する

  • 紙、木材、ガラスなどを透過する

  • 人体も手足などそれほど厚くない部分は透過する

  • 薄い金属箔を透過する
また「未知の光」が写真乾板を感光させるのがわかったので、レントゲンはさまざまな物質をこの光で透過した写真を撮影しました。

医療への応用

医療への応用  レントゲンは自分が行った実験の詳細をすべて無償で公表したので、翌年には世界中でX線に関するさまざまな研究開発が行われ始めました。

X線の発表の際、レントゲンは自分の妻の手をX線で透過した写真を公表し、骨など人体の内部がX線で観察できるのを示しました。

これは医療関係者たちの強い関心の的となり、まもなく関節、骨折など骨部の診断や肺結核の診断にX線が次第に利用されるようになりました。

戦時には、X線は人体内の銃弾や砲弾片を見つけるにも大いに利用されました。


日本でのX線の研究

医療用X線装置  島津製作所の2代目島津源蔵は、日本のエディソンと呼ばれた科学者でした。
源蔵は、1895年レントゲンによるX線発見の報を聞いてさっそく実験にかかり、そのわずか11ヵ月後の1896年にX線写真の撮影に成功しました。

その翌年に源蔵は「教育用X線装置」を製造し、X線医療の研究用として提供しました。

その後源蔵は10年以上の研究を重ね、1909年(明治42年)にわが国初の国産医療用X線装置として発売しました。このX線装置は千葉県の陸軍病院をはじめ多くの病院に納入されました。


クーリッジ管の発明

クーリッジ管  レントゲンが使用したクルックス管は、ガラス管内に対向する電極を設け、その管内に希薄なガスを満たした構造でした。管内の電極間に高い電圧をかけると電極間にグロー放電が発生し、陽極に電子が激突する際にX線が発生しました。

レントゲンの装置では、電極間の電圧は10KVくらいだったので、発生したX線はそれほど強い透過力を持っていませんでした。

今から100年前の1913年になって、アメリカのクーリッジが新しいタイプのX線発生装置を発明しました。クーリッジ管と呼ばれるこの電子管は、高真空中で高温に熱したフィラメント(カソード)から出た熱電子を高電圧を印加した金属ターゲット(陽極)に衝突させてX線を発生させるものでした。

クーリッジ管では陽極に印加する電圧と管を流れる電流を独立に調整可能であり、X線を照射する目的、対象物に応じて適当なX線を安定して発生することができました。
またクーリッジ管は、陽極に30KV〜100kV以上の高い電圧を印加することにより高い透過力を持つX線を発生することができました。このため、クーリッジ管はそれ以後のX線発生装置の主流になりました。

第一次世界大戦

 X線は、レントゲンによる発見の直後から医療の分野で利用され、絶大な成果を得てきました。X線の発見から一年経ったころにはアメリカ合衆国の大多数の市にX線診療ができる病院が置かれたということです。
そのいっぽうで、X線発見後まもなく、X線は人体に対してさまざまな「放射線障害」を及ぼすのが判明してきました。

X線画像 X線の放射を浴びることで急性皮膚炎、眼病、脱毛、そしてがんや造血臓器の障害などに羅病した例が多数報告されるようになりました。

1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、戦場で銃弾、砲弾などによる負傷者が多数発生しました。当時開発されてまもない医療用X線装置が野戦病院などに導入され、負傷者の骨折位置や体内の金属片を見つけるのに利用されました。

負傷者があまりにも多数だったため、診療に当たった医師、X線技師たちは結果として身体の堪え得る量以上の放射線に被曝することになりました。

前記のように、X線の放射は人体にとって非常に危険であるのはX線発見後まもなくから次第に明らかになりましたが、被曝によって発生したがんや白血病がかなりの年数の後に重篤になるのはまだ一般にはよく知られていませんでした。
第一次世界大戦が終了した後、1922年ごろから、ヨーロッパ各国で戦場での負傷者の診療に当たったX線技師たちのがん発病が急増したということです。

放射被曝の単位

 1925年に発足した国際放射線単位・測定委員会(ICRU)は、1928年に放射線の単位として "レントゲン(R)" を定めました。1989年以降国際単位系への切り替えにより現在では放射線の単位は "グレイ(Gy)" が使われるようになりました。

人間がX線など放射線を浴びたときにどのような影響があるのかを評価するための単位として、1979年に "シーベルト(Sv) " が定められました。
まず人間の体に当たった放射線のエネルギー量をグレイ値として求め、次に人間への影響を評価するために放射線の種類、受けた体の部位別の修正係数を使った計算式からシーベルトの値を算出します。

私たちが日常生活において受ける放射線の量は低いので、放射線の単位は強さが1/1000のミリグレイ、ミリシーベルトが一般的に使用されます。

人が日常の生活で浴びる放射線は世界平均で年間2.4ミリシーベルト、1回の胸部X線撮影で0.1〜1ミリシーベルト程度であり、放射線業務従事者の1年間の許容線量限度は50ミリシーベルトと定められています。

医療用X線装置の進歩

 1910年当時、日本では真空管工業はまだ未発達で、医療用X線装置のX線管はドイツなどからの輸入に頼っていました。1914年の第一次世界大戦勃発後はX線管の輸入が困難になったので、東京芝浦電気を中心にX線管の開発が始まりました。

まだ技術の蓄積のないこの分野での開発は困難を極めましたが、1915(大正4)年についにクルックス管タイプの純国産X線管が完成しました。その5年後の1920年にはクーリッジ管タイプのX線管の開発に成功し、欧米に肩を並べる製品を供給し始めました。

医療用X線装置では、島津製作所が1918(大正7)年に「ニューオーロラ号」という機種を開発しました。このX線装置は高い性能とコンパクトな形状により好評を博し、日本国内で多数使用されただけではなく世界中に輸出されました。 

1940(昭和15)年ごろから結核検診用レントゲン車が開発され、各地区の学校、事業所などを巡回して間接写真を用いた結核集団検診を行うようになりました。

永井隆博士とX線

永井隆博士  わが国における放射線被曝の研究で有名な永井隆博士は、1908(明治41)年に島根県に生まれました。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学し、放射線医学を専攻しました。

大正から昭和にかけては日本では結核が広く蔓延し、国民病とも呼ばれました。その結核を予防し、治療するために、各地の病院ではX線検診が一般的に行われていました。

永井博士も大学病院で結核のX線検診に当たっていましたが、太平洋戦争が始まると検診に必要なX線フィルムが極度に不足するようになりました。

X線検診で多数の受診者に対応するには、蛍光板に表示されたX線透視画像をカメラで撮影する「間接法」を用います。そのカメラ用のフィルムが入手できなくなったので、永井博士は多数の受診者を前にしてしばらく途方に暮れました。

やがて、熱心なカトリック信者であった永井博士は、ついに自分を犠牲にしてもそれら多数の結核患者たちを救おうと決意しました。そして、蛍光板のX線透視画像をカメラで撮影するかわりに、X線を受けて光っている蛍光板の前に座り蛍光板を直接自分の目で視ることで多数の受診者の検診を行いました。

これにより、永井博士は当然ながら毎日の検診の際に大量のX線を体に浴びることになりました。その結果、太平洋戦争終了が近くなった1945(昭和20)年6月にはX線被曝による白血病になり、余命3年と宣告されました。
私は永井博士は長崎に投下された原爆に被爆して白血病になったと思っていましたが、実はそれより前に大量のX線被曝により不治の白血病になっていたのです。

1945(昭和20)年8月9日、長崎市にプルトニウム原子爆弾が投下されましたが、それ以後の永井博士の活動については別ページで述べることにします。

X線放射の防護

 これまで述べてきたように、X線120年の歴史は被曝による放射線障害からの防護の歴史でもありました。その間、多くのX線研究者、医師、X線技師などががんや白血病で命を失いました。X線の発見者レントゲンも白血病で亡くなったということです。

その後、X線利用の急拡大につれ、X線被曝量の低減、X線放射の防護の技術が開発されて行きました。まずX線発生装置については、クーリッジ管の発明によりX線の透過力が非常に大きくなりました。それにより、受診者がX線放射を受ける時間が大幅に短縮され、受診者の被曝量の低減につながりました。

また、初期のX線管では管の周囲広い範囲にX線が放射されていましたが、やがてX線管に鉛などで遮蔽が施され、X線は受診者の方向だけに照射されるようになりました。

医療用X線装置については、遠隔操作方式が普及し、医師、X線技師など関係者のX線被曝量が大幅に低減されました。

X線画像を撮影するフィルムについても大きな進歩がありました。初期には感光乳剤を両面に塗布したフィルムが使われましたが、第一次世界大戦以後は感光フィルムと増感紙が組み合わせて使用されるようになり、X線照射量が少なくても良好なX線写真が撮影できるようになりました。

それら各分野での努力の積み重ねの結果、現在では胸部X線診断、胃透視診断、CT検査などは、自然界に存在する放射能と同程度のX線被爆量で診断できるようになったということです。

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