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ジョージ・ガーシュウィン

 2010年秋、私どもはアメリカ東海岸ボストン・ニューヨークの旅行をしました。ニューヨークではセントラルパーク西南隅から少し南に下がったミッドタウン・ウェストのホテルに宿泊しましたが、つい最近、そのホテルから数ブロック南に作曲家・ピアニスト ジョージ・ガーシュウィン(下の写真左)が住んでいたアパートがあるのを知りました。

宿泊したホテルの前から南の方向に「ワン・ワールドワイド・プラザ」という有名な高層アパートメント(下の写真右)が大きく見えましたが、地図で見るとガーシュウィンが住んでいたアパートはその高層ビルのすぐ隣のようです。
アパートは、その名も「ガーシュウィン・スイート」というのだそうで、ガーシュウィンの写真、自筆の楽譜や宣伝ポスターなどが多数展示されているとのことです。ガーシュウィン・ファンの私としては、そこに行けなかったのを大変残念に思いました。

ジョージ・ガーシュウィン one worldwide plaza

ブルックリン橋  ジョージ・ガーシュウィンは、1898年にユダヤ系ロシア移民の子としてニューヨーク・マンハッタン島の東対岸ブルックリン地区に生まれました。左の写真はマンハッタン島南東部とブルックリン地区を結ぶブルックリン橋で、ガーシュウィンが生まれる15年前に完成しました。

ガーシュウィンは、幼時からピアノなど音楽に非凡な才能を示しましたが、家が貧しかったので音楽学校には進学できませんでした。

歌曲 《スワニー》
歌曲 《スワニー》

 幸いにも優れたピアノ教師の指導を受けることができ、ピアニストとして腕をあげて多方面で活動をするようになりました。
やがて高校を中退して、楽譜出版社のピアニストとなり、さまざまな楽譜をピアノで演奏してお客に聴かせる仕事につきました。
また、伴奏ピアニストなどでも稼ぎましたが、それらの仕事の合間に次第に作曲の技術を習得して行きました。 

21歳のとき歌曲 《スワニー》 を作曲しましたが、これが当時の人気歌手アル・ジョンソンが歌ったことで大ヒットとなり、ガーシュウィンは一躍人気作曲家になりました。


スワニー川というと、私どもは日本では 《故郷の人々》 というタイトルで親しまれているステファン・フォスターの歌曲を思い出します。フォスターは、ガーシュウィンより70年ほど前、南北戦争の前後に活動した民謡作曲家です。
フォスターの 《スワニー川》 とガーシュウィンの 《スワニー》 を聴き比べると、フォスター作品の平凡な民謡調の造りに対し、ガーシュウィン作品の表情の豊かさ、スケールの大きさに感銘を受けます。フォスター作品にはバンジョーの乾いた音色が似合いますが、ガーシュウィン作品にはピアノで弾くジャズのダイナミックな響きが満ちあふれています。

ラプソディ・イン・ブルー

 その後、ピアニスト兼作曲家として実績を重ねたガーシュウィンに、ジャズ界の大立者ポール・ホワイトマンが接近してきました。ホワイトマンはクラシックとジャズを融合させたシンフォニック・ジャズを目指しており、ガーシュウィンに黒人ジャズのブルースの雰囲気を持つピアノ協奏曲風のラプソディの作曲を依頼しました。

ガーシュウィンとしても本格的な器楽曲を作曲したいと思っていたので、さっそくこれを受け入れ、作曲にかかりました。まもなく2台のピアノ用の原曲が完成しましたが、音楽学校にいっていないガーシュウィンにはその原曲のオーケストレーションができませんでした。

当時、ポール・ホワイトマン・オーケストラにはファーディ・グローフェという優れたアレンジャーがいました。後に、組曲 《グランド・キャニオン》 を作曲して有名になった人です。
ホワイトマンの指示により、このグローフェがガーシュウィンのピアノ原曲のオーケストレーションを行い、ピアノ協奏曲風のラプソディとしてまとめ上げました。これが、アメリカ音楽史上に輝く傑作 《ラプソディ・イン・ブルー》 です。

1924年2月に、《ラプソディ・イン・ブルー》 はホワイトマンの指揮、ガーシュウィンのピアノで初演されました。当日は、アメリカ在住だったハイフェッツ、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーらクラシック音楽界の著名人もこの演奏を聴きにきたということです。
それらの中には「ジャズ屋が作曲したコンチェルト(ピアノ協奏曲)というのはどんなものか」という冷やかし半分の人もいたそうです。

しかし、曲がクラリネットが低い音からグリッサンドで駆け上がって始まり、やがてガーシュウィンのピアノがきらびやかに響き渡るころには、聴衆たちはみなクラシックとジャズを融合させた20世紀の新音楽が誕生したのを悟りました。

アメリカ交響楽 私は、レオナード・バーンスタイン(左の写真)など優れたピアニストが演奏したレコードでこの作品を長年聴いてきました。

ガーシュウィンの斬新な楽想、彫りの深いピアニズムには聴くたびに感銘を受けますが、同時にこの作品のオーケストレーションを担当したグローフェの手腕にも感嘆するほかありません。グローフェのダイナミックな表現力、ジャズの知識があって初めてこのように優れたシンフォニック・ジャズ作品が生まれたのでしょう。

《ラプソディ・イン・ブルー》 の大成功で、ガーシュウィンは25歳にして新進作曲家としての声価を確立しました。

アメリカ交響楽
アメリカ交響楽

 しかし、《ラプソディ・イン・ブルー》のオーケストレーションをグローフェに頼ったことからわかるように、正規の音楽学校に行かなかったガーシュウィンは、なお作曲法やオーケストレーションを学ぶ必要がありました。

そのため、ガーシュウィンはヨーロッパの一流作曲家にそれらを学ぼうとして花の都パリに2度も行きました。
パリで作曲家ラベル、ストラヴィンスキーなどに作曲の指導をしてくれるよう申し入れましたが、みな断られたそうです。ガーシュウィンはやむなく間もなくアメリカに帰り、独学でそれらの研究を始めました。

第二次大戦後の1945年に公開されたアメリカ映画 《アメリカ交響楽》 は、原題は "Rhapsody In Blue" で、ガーシュウィンの自伝的な音楽映画です。
少年時代から歌曲 《スワニー》 、ピアノとオーケストラのための 《ラプソディ・イン・ブルー》 の発表をし、その後花の都パリでさまざまな経験をして帰米後また新たなる境地を開くまでを映画化したもので、初の本格的ミュージカル映画として大ヒットになりました。

ピアノ協奏曲ヘ調
ピアノ協奏曲ヘ調

 最初のパリ旅行から帰米した後、ガーシュウィンは独学で作曲法やオーケストレーションをマスターしました。1925年に、その成果として 《ピアノ協奏曲ヘ調》 を発表し、念願の音楽の殿堂カーネギーホール(左の写真)で初演を果たしました。

《ラプソディ・イン・ブルー》 は実質的に1楽章の作品ですが、 《ピアノ協奏曲ヘ調》 は伝統的な3楽章構成となっており、ガーシュウィンが古典的な楽曲形式を研究した成果が見られます。
曲の随所にブルースや当時流行したチャールストンなどが組み入れられています。

パリのアメリカ人

 ガーシュウィンが行ったころのパリは、第一次大戦によるダメージもほぼ癒えてまさに世界の花の都になっていました。新興大国アメリカの中心ニューヨークからきたガーシュウィンにも、当時のパリの繁栄ぶりはまぶしかったようです。
また、パリの街中から聞こえる自動車の警笛などさまざまな音にも興味をもったようで、それらパリの印象を音楽作品にしたいと考えるようになりました。二度目のパリ旅行の間にガーシュウィンはこの作品に集中して取り組み、オーケストレーションも出来あがりました。

ガーシュウィンは、この作品に 《パリのアメリカ人 オーケストラのための詩曲》 というタイトルをつけたそうです。ガーシュウィンとしてははじめてのピアノを使用しない作品で、またジャズのドラムも使わず正規のオーケストラのために作曲したものです。

曲は3つの部分に分けられますが、はっきりとした楽章構成ではなく連続して演奏されるラプソディ風の造りになっています。

パリのアメリカ人 第二次大戦後、戦勝国アメリカには大海外旅行ブームが起こりましたが、それもあって1951年にこの 《パリのアメリカ人》 が映画化されました(左の写真)。

ミュージカル大国アメリカらしくガーシュウィンの音楽とモダン・バレエ、タップダンスでアメリカ人青年とパリジェンヌとの恋を描いた作品で、その年のアカデミー賞作品賞ほか全8部門を受賞しました。
私は上記 《アメリカ交響楽》 は見たことはありませんが、この 《パリのアメリカ人》 は映画館で観たおぼえがあります。

当時の日本はなお貧しく、またミュージカルというジャンルはまだほとんど知られていませんでした。私は、劇場の大きなスクリーン上に現れる花の都パリの景観、風物、華やかに繰り広げられるモダン・バレエ、タップダンス、そして観客席に響き渡るガーシュウィンのダイナミックな音楽に圧倒される思いでした。

映画の冒頭に主演のダンサー ジーン・ケリーの演ずるアメリカ青年が軽快な音楽にのってパリの坂道を登ってくるシーンがありますが、この音楽はガーシュウィンが興味をもったというパリの自動車の警笛を描写したものでしょうか。

私は、その後何度かパリに旅行しました。つい最近この 《パリのアメリカ人》 をテレビで放映しているのを見ましたが、主人公が生活のために自作の絵を道端にかけて売っている様子がモンマルトル・サクレクール寺院横のテルトル広場をモデルにしているのに気が付きました。ピカソやユトリロも一時似顔絵描きをしていたという有名な広場です(下左の写真)。

テルトル広場 ドガ・踊り子

映画 《パリのアメリカ人》 のフィナーレは、15分以上にわたりガーシュウィンの音楽をバックに華麗なモダン・バレエのシーンが繰り広げられます。
最近のテレビ放映でこの部分を見ていると、モダン・バレエの背景にさまざまなフランス印象派絵画が使われているのに気が付きました。ドガの踊り子の絵画(上右の写真)が何点かあり、また、ロートレックが描いたポスターも登場していたようでした。

かねてよりオペラにも関心のあったガーシュウィンは、パリのオペラ座を何度も訪れたということです。ヨーロッパの歌劇場では昔からバレエを頻繁に上演していたので、ガーシュウィンはそれらをたびたび目にしたと思われます。

サラ・ヴォーン
歌曲 《サマータイム》

 その後ガーシュウィンはかねてより関心のあったオペラに取り組み、 《パリのアメリカ人》 の7年後、1935年にオペラ 《ポーギーとべス》 を発表しました。
アメリカ南部の黒人社会を描いた作品で、出演者はすべて黒人という問題作でした。

第一幕の冒頭で、黒人漁師の妻クララが、赤子を寝かしつけるために 「夏は暮らしやすいよ、だからいい子だ 泣かないで」 とつらい生活をまぎらわすうように切々と歌います。この曲の歌詞は、作詞家として活躍していたガーシュウィンの兄アイラ・ガーシュウィンによるものです。

これが、アメリカ音楽史上の傑作 歌曲 《サマータイム》 です。当時は大恐慌からの回復が遅れている上に人種差別が強く残っていたので、オペラ 《ポーギーとべス》 はあまりヒットしませんでしたが、この歌曲は暗い世相に生きる大衆の心を強くとらえました。

まず、伝説的な黒人ジャズ歌手ビリー・ホリデイがオペラ初演の翌年にこの歌曲を歌い、大ヒットになりました。その後、サラ・ヴォーン(上の写真)、エラ・フィッツジェラルドなど歴代の名女性歌手たちがやはりこの歌曲を重要なレパートリーにしたことで、 《サマータイム》 はアメリカを代表する歌曲の一つになりました。

ジャズ歌手のみならず、クラシックの名コントラルト歌手マリアン・アンダーソンもこの歌曲を演奏会でたびたび取り上げました。その後も、バーバラ・ヘンドリックス、バーバラ・ボニーなどの優れたクラシック歌手たちが、この 《サマータイム》 をよく歌っています。
この名曲がクラシック、ジャズというジャンルの枠を越えて幅広い聴衆にアッピールし、演奏家たちも新時代の音楽に感銘を受けて熱演した様子がうかがわれます。

オペラ 《ポーギーとべス》 初演の2年後、ガーシュウィンは脳腫瘍によりハリウッドで死亡しました。まだ38歳の若さでした。人気作曲家として仕事に追われて休養もとれず、体調の悪化にもかかわらず無理を重ねたためということです。

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