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チャイコフスキー

チャイコフスキー  最近テレビで作曲家ピョートル・チャイコフスキー(左の写真左)の伝記映画を観ました。1970年にソビエト連邦で制作されたもので、ピアノ協奏曲第1番を作曲した1875年ころから、交響曲第6番『悲愴』の初演(1893年)までを描いています。

その中で、チャイコフスキーがロシアの作家イワン・ツルゲーネフ(左の写真右)といっしょにパリ・セーヌ川の河畔を散歩するシーンがありました。

ツルゲーネフはパリに長く住んでおり、1883年にパリ郊外で歿しました。また、チャイコフスキーはこの時期にヨーロッパ各地で活動していたので、映画のようにパリで会うこともあったのでしょう。

血の上の救世主教会  映画中で、二人はロシアの首都ペテルブルグで皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロにより暗殺された事件について話し合っていました。

1850年代のクリミア戦争敗北でアレクサンドル2世は西欧先進国との格差を知り、1861年に「農奴解放令」を発令しました。これにより農奴たちは解放され、自由になりましたが、農地は依然として地主のものであり、解放された農民が土地を購入するのは非常に困難でした。

そこで、生活に苦しむ農民たちから当時工業化が進展しつつあった都市に移入して工場労働者になる者が多くなりました。

このような社会情勢の中、ロシアの知識人の間には社会主義への運動が強まり、その一部は帝政を否定する無政府主義に変質して行きました。

1881年3月、ペテルブルグのグリボエードフ運河河畔で皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロにより暗殺されました。後に、アレクサンドル2世を弔うためにその現場に「血の上の救世主教会」という教会が建てられました(上の写真)。

チャイコフスキー、ツルゲーネフの二人は、祖国を遠く離れたパリで皇帝アレクサンドル2世暗殺の報を聞き、祖国の将来に暗澹たる思いを抱いたに違いありません。

日露戦争

 1894年に即位したニコライ2世はフランス資本の導入による重工業化を推進し、シベリア鉄道の敷設も行ないました。ニコライ2世は極東での「南下政策」を開始したので、大陸に進出していた日本と衝突し、1904年に日露戦争が勃発しました。

日露戦争開始後早々の1905年、極東では軍港旅順が日本帝国陸海軍の攻撃によって陥落しました。それにより帝政の権威は一段と失墜し、1月22日(日曜日)には20万人の労働者たちが帝政時代の王宮冬宮へ向かって行進しました。これに対し冬宮前広場を警護する軍隊が発砲し、数百名の死者が出ました。これが「血の日曜日」事件です。

1905年(明治38年)5月27日早暁、アフリカ大陸最南端の喜望峰を回ってきたロシア帝国バルティック艦隊は、日本帝国海軍連合艦隊と雌雄を決すべく日本海に進入しました。
5月27日14時すぎからバルティック艦隊と連合艦隊との間で砲撃戦が始まりました。5月27日午後の大海戦で、バルチック艦隊の主力である新鋭戦艦は大打撃を受けて戦闘力を喪失し、残存する旧式戦艦は白旗を掲揚して降伏しました。

100年近く前にナポレオン軍を撃破して世界最強を誇ったロシア帝国の国威はここに至って大きく揺らぎ、国内では帝国打倒を目指す無政府主義者の動きが活発になりました。

ロシア革命

 1914年から第一次世界大戦が始まりましたが、その末期、各戦地でロシアの敗北が続く中、1917年2月にペトログラードで食料・燃料を要求する民衆のデモが起こりました。3月1日、国会の自由主義議員を中心とする臨時政府が冬宮内に成立しました。
皇帝ニコライ二世は退位し、1917年3月3日に300年以上の歴史を持つロマノフ王朝は断絶しました。 これがロシアにおける社会主義革命の第一歩となった二月革命です。

10月25日、レーニンが率いるボリシェヴィキは首都ペトログラードの軍隊とともに市内要所を占領し、同日午後9時には革命軍が冬宮内に進入しました。
この十月革命によりソヴィエト共産主義の中央集権体制が確立され、その後の内戦を経て1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立しました。

芸術家の亡命

 これはフランス革命や日本の明治維新の際にも見られましたが、大革命の後はそれまでとは社会の構造が一変し、文化の価値観が大きく変動するために、文学者、画家、音楽家など芸術家が正当に評価されなくなることがあります。

「芸術は人民に属するもの」というのがロシア革命を主導したレーニンの芸術に対する基本的な考えでした。この理念に合わないとみなされた芸術は、容赦なく切り捨てられました。
またレーニンは「宗教はアヘンである」と述べて宗教を全面的に否定したということです。
これにより、1000年以上の歴史のあるロシア正教は弾圧されるようになり、伝統的にロシア正教と強いつながりのあったロシアの芸術は大きな打撃を受けました。

その結果、ロシア革命の直後から文学者、画家、音楽家など芸術家たちの国外亡命が相次ぐことになりました。優秀な芸術家ほど、そしてロシア国外での活動実績の多い芸術家ほど、次々に革命後のロシアを見限って国外に出て行きました。
それらの亡命芸術家たちの行き先は、まず第一に伝統的に帝政ロシアと友好関係にあったフランスの首都、当時世界の花の都であったパリでした。

グラズノフ

グラズノーフ  19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したロシアの作曲家・指揮者アレクサンドル・グラズノフは1865年にペテルブルクの富裕な出版業者の家に生まれました。 リムスキー=コルサコフの教えを受け、16歳のとき 《交響曲 第1番「スラブ風」》 を作曲しました。

グラズノフは、1899年にペトログラード音楽院の教授に就任しました。リムスキー=コルサコフの後をうけて1906年にペトログラード音楽院の院長になり、1917年までその職にありました。
その間、何度もパリ、ロンドンなどヨーロッパ各地でロシア音楽作品の演奏会を指揮しました。

第一次世界大戦中もグラズノフはペトログラード音楽院院長の職を誠実に勤め、音楽院の改革に努力しました。1917年のロシア革命後はペトログラード音楽院はレニングラード音楽院になりましたが、グラズノフはボリシェヴィキ体制に協調しつつその改組を行いました。

やがて音楽院院長の職に疲れ果てたグラズノフは、国外への亡命を考えるようになりました。1928年にウィーンで開かれたシューベルト没後100周年記念行事に出席したグラズノフは、そのまま国外に留まり、ふたたびソ連に戻ることはありませんでした。

グラズノフはヨーロッパ各地で演奏活動をした後アメリカ合衆国に渡り、最終的にパリに住みつきました。1936年にグラズノフは70歳でパリに客死しました。

ラフマニノフ

ラフマニノフ  19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したロシアのピアニスト/ 作曲家セルゲイ・ラフマニノフは、1873年にロシアの貴族の家に生まれました。

ラフマニノフの父は、農奴解放により領地を失い、破産しました。モスクワに移ったラフマニノフは、モスクワ音楽院を優秀な成績で卒業し、すぐにピアニスト/ 作曲家として頭角をあらわしました。

ラフマニノフは、1901年に生涯の代表作の一つ 《ピアノ協奏曲第2番ハ短調》 を自身のピアノ独奏で初演し、ロシアを代表する作曲家の一人になりました。

1909年にはラフマニノフはアメリカに渡り、ボストン、ニューヨークなど主要都市でオーケストラの指揮、ピアノ演奏会の開催などの活動をしました。

1910年にロシアに戻りましたが、1917年のロシア革命後はパリに亡命し、その後はヨーロッパとアメリカで活動をしました。1934年には、代表作の一つ 《パガニーニの主題による狂詩曲》 を発表しました。1943年、71歳でアメリカ・カリフォルニアのビバリーヒルスで死亡しました。

ディアギレフ

ディアギレフ  19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したロシアの芸術プロデューサー セルゲイ・ディアギレフは、1872年にロシア・ウラル地方の大地主・軍人の家に生まれ、ペテルブルグで育ちました。

ディアギレフ家は大作曲家チャイコフスキーの遠縁にあたるとのことで、セルゲイは音楽家を目指し作曲と歌唱を学びましたが、中途で断念しました。

その後、美術批評に転じて雑誌 『美術世界』 を発刊しました。帝政ロシア政府の援助を得てパリでロシア美術の大展覧会を開催し、大成功をおさめました。

ディアギレフは、次いでロシア音楽を西欧に紹介する事業を始めました。1908年に、ムソルグスキーの歌劇 《ボリス・ゴドゥノフ》 をパリのオペラ座で西欧初演しました。

翌年1909年からペテルブルクの皇室マリインスキー劇場のロシア・バレエをパリに呼び、パリ・オペラ座で公演しました。1911年には自前のバレエ団バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を創設し、以後ヨーロッパ各地で公演を行いました。

1929年にヨーロッパ各地を旅行中に持病の糖尿病が悪化し、8月19日にイタリア・ヴェネツィアで死亡しました。

ストラヴィンスキー

ストラヴィンスキー  20世紀前半に世界各国で活躍した作曲家イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーは、1882年にペテルブルグ近郊で生まれました。

法律を学ぶために大学に入りましたが、まもなく作曲家になることを決意し、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学びました。

そのころ、ディアギレフはパリでロシア・バレエ団の公演をしており、新作バレエのための音楽をストラヴィンスキーに作曲依頼してきました。ストラヴィンスキーは、それに応えて1910年にロシア・バレエ団のための第一作 《火の鳥》 を作曲しました。

ディアギレフはその 《火の鳥》 をパリのオペラ座で初演、大成功を収めました。翌1911年にはロシア・バレエ団のためのバレエ音楽第2作 《ペトルーシュカ》 、1913年には第3作 《春の祭典》 が作曲され、いずれもパリで初演されて大好評を得ました。

1914年に第一次世界大戦が始まると、ストラヴィンスキーはロシアを離れ、スイスに住み着きました。ロシア・バレエ団の仕事はディアギレフが死ぬ1929年まで続いたそうです。

1939年に第二次世界大戦が始まると、ストラヴィンスキーは戦乱のヨーロッパを避けてアメリカ合衆国に亡命し、主として西海岸のハリウッドに住みました。
1969年にニューヨークに転居し、1971年4月6日に89歳で没しました。

オルガ・ピカソ

オルガ・ピカソ  オルガ・コクローヴァは、1890年にウクライナに生まれました。オルガの父は帝政ロシアの将軍でしたが、帝政崩壊によって一家は国外に亡命しました。
オルガはその後バレリーナとなり、上記ディアギレフのロシア・バレエ団に参加しました。

このころ画家パブロ・ピカソはロシア・バレエ団の舞台や衣装デザインを手がけていましたが、1917年にオルガと知り合い、翌年結婚しました。ピカソは既に高名になっていたので、結婚式はロシア正教の大聖堂で盛大に行ったということです。
1921年に二人の間に息子ポールが誕生しました。

上の絵画は1917年にピカソが描いた 《オルガの肖像》 という作品です。オルガはこの作品のモデルになるときピカソに 「私とわかるように描いてほしい」と要求したそうですが、ピカソはその希望通り古典的な写実技法でオルガの姿を描きました。

その後、ピカソの女性関係が原因でオルガは1935年に別居しました。オルガは離婚に応ぜず 「ピカソの妻」 として暮らし、第二次世界大戦後の1955年に死去しました。

プロコフィエフ

プロコフィエフ  20世紀前半に活躍したロシアのピアニスト/ 作曲家セルゲイ・プロコフィエフは、1891年に現在のウクライナに生まれました。

1904年からペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学びました。1917年に起こったロシア革命の後、シベリア・日本を経由してアメリカに脱出しました。

その後1923年、32歳のとき、アメリカを出てパリに住み、モダニズムや新古典主義の作品を発表するとともにヨーロッパ各地でピアニストとして活躍しました。
ディアギレフの依頼でバレエ音楽も作曲しています。

プロコフィエフは、1917年の出国の後20年近く外国で暮らしてから、1936年に社会主義国家ソヴィエト連邦になった祖国に帰りました。ソヴィエト連邦はこの高名な音楽家を暖かく受け入れ、プロコフィエフも社会主義下の楽壇と協調するよう努めました。
この時期にプロコフィエフは代表作の一つバレエ音楽 《ロメオとジュリエット》 を発表し、レニングラードとモスクワで初演しました。プロコフィエフはそのままソヴィエト連邦に留まり、第二次世界大戦後の1953年に没しました。

プロコフィエフのように革命前後に外国に出てからまたソヴィエト連邦に帰国した例は、他にはほとんどありません。ストラヴィンスキーも第二次世界大戦後に一度ソヴィエト連邦に帰国しましたが、それは一時帰国であって、まもなくまたアメリカに戻っています。

マルク・シャガール

マルク・シャガール  主としてフランスで活躍したロシアの画家マルク・シャガールは、1887年に現ベラルーシに生まれました。

ペテルブルクの美術学校で学んだ後、1910年にパリに行き、5年間滞在してからロシアに戻りました。
革命後のロシアに居たたまれず、1922年に出国し1923年にふたたびパリに住み着きました。

その後1939年に第二次世界大戦が始まり、シャガールの住むパリは1940年にナチスドイツに占領されました。ユダヤ人に対する迫害が次第に厳しくなる中、東欧系ユダヤ人であったシャガールは身の危険を感じ、1941年にアメリカに亡命しました。

マルク・シャガール シャガールは、第二次世界大戦終了後の1947年にアメリカからパリに戻りました。シャガールは既に1937年にフランス国籍を取得しており、帰国後は南フランス・ニース市に住みました。

1960年、シャガールは当時フランス政府文化大臣であったアンドレ・マルローからオペラ座の天井画の制作を依頼されました。
天井画は1964年に完成し、現在ではパリの名物の一つになっています(左の写真)。

1973年になってソヴィエト連邦文化省の招待でモスクワとレニングラードに旅行しました。1985年、ニース近郊ヴァンスで98歳で死去しました。

パリからアメリカへ

自由の女神  アメリカは、19世紀後半には合衆国史上最大の戦争である南北戦争(1861年 - 1865年)を経て中央政権を確立し、世界列強の一国になりました。20世紀に入ると、移民による人口急増と豊富な資源を生かして国力はめざましく増大しました。

それにつれ、ヨーロッパの音楽、美術など芸術をアメリカに導入する動きが活発になり、ヨーロッパ諸国の音楽家、画家などがアメリカ各地に盛んに招待されるようになりました。

イギリスの作曲家エドワード・エルガーは、1905年にアメリカを訪れ、各地で自作の 《威風堂々第1番》 の演奏で歓迎されました。

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーは、1907年にメトロポリタン・オペラからの招待で渡米し、各地で指揮を行いました。同年、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニも渡米し、1910年には自作のオペラ 《西部の娘》 をメトロポリタン歌劇場で初演しました。

1914年に第一次世界大戦が始まると、アメリカは兵器など戦争のための資材と食糧を戦地ヨーロッパに供給して巨額の利益を挙げました。ロシア革命後、社会主義体制になった祖国を逃れてパリに集まったロシア人芸術家たちは、旭日の勢いのアメリカから高額の報酬で誘われて次々に大西洋を渡ってアメリカに行ったのです。

ピアニスト/ 作曲家ラフマニノフはそのままアメリカに暮らし、71歳でカリフォルニアのビバリーヒルスで没しました。作曲家ストラヴィンスキーはニューヨークに住み、1971年に89歳でこの世を去りました。

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