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大作曲家モーツァルト

	大作曲家モーツァルト  大作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは父レオポルトとともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕えていましたが、父レオポルトはヴォルフガングの音楽的才能を伸ばすためには他国の音楽家との交流が必要と考えていました。

ヴォルフガングが6歳ごろからモーツァルト親子は何度もミュンヘン、ウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大演奏旅行を行いました。
ウィーン シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、ヴォルフガングは皇女マリー・アントワネットに会っています。

ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿  モーツァルトは生涯に3度フランスの首都パリに行きました。1763年11月、7才のときには、父レオポルト、母アンナマリア、姉ナンネルの一家4人で「西方大旅行」をし、パリを訪れています。

姉ナンネルもピアノの名手であり、モーツァルト姉弟は翌年1月初めにヴェルサイユ宮殿に行き、フランス国王ルイ15世の前で名演奏を披露しました。
ルイ15世は後にマリー・アントワネットの夫となったルイ16世の祖父に当たる王様です。
3年半におよぶその大旅行の帰路、10才になったモーツァルトは1766年5月パリに立ち寄り、再びヴェルサイユを訪問したそうです。

馬車での旅行

馬車での旅行  当時は、鉄道の普及前のことで、長距離旅行は「駅馬車」または「郵便馬車」で行われました。

駅馬車は通常4頭の馬で牽引され、乗客は4人ぐらいだったようです。アメリカの西部劇に出てくる駅馬車のようなものだったのでしょう。

駅馬車の車体は木製で、4つの車輪が取り付けられているフレームからスルーブレイスと呼ばれる革製のストラップで吊られていました。

左の写真はザルツブルグの「モーツアルトの家」にあった当時の馬車のモデルで、私はそれがあまりにも華奢な造りだったのに驚いた覚えがあります。

駅馬車の車輪は、これもアメリカの西部劇に見られるように細い木で作られており、その車輪の外周には薄い鉄板が巻いてあったようです。

当時のヨーロッパの大都市ではローマ時代からの石畳が敷かれていましたが、市外に出れば舗装されてない道路が大部分でした。現代の自動車のようにゴムのタイヤを使用せずしっかりしたサスペンションもない当時の駅馬車でその悪路を長距離旅行するのはさぞかし大変であったろうと想像されます。

ミュンヘン・アウグスブルグ

 1777年、21歳のとき、モーツアルトはザルツブルクのコロレド大司教の許を辞し、母アンナマリアともにヨーロッパの各大都市で音楽家の職を求める旅行に出発しました。
まずドイツ南部バイエルン州の大都市ミュンヘンに向かいましたが、結局職は得られず、モーツアルトは失望してミュンヘンを去りました。

次の候補地バーデン・ヴュルテンブルク州マンハイムに向かう途中、ミュンヘンのすぐ北にある父の故郷アウグスブルグに寄りました。そこには父レオポルトの弟が住んでいて、モーツアルトはその娘マリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと親しくなりました。

また、アウグスブルグには優れたピアノ製作者シュタインが工房を構えていました。シュタインのピアノは、「エスケープメント」という仕掛けによりキーを押した後にハンマーがすぐに正しく元の位置に戻る機能があり、モーツァルトはそのピアノを試奏して大変感激しました。
シュタインのピアノは高価だったため当時のモーツアルトでは購入できませんでしたが、そのピアノから受けたインスピレーションは後にパリで作曲した一連の「パリ・ソナタ」の中に生かされることになりました。

マンハイム

 アウグスブルグを出たモーツアルトは、北方バーデン・ヴュルテンブルク州マンハイムに向かいました。マンハイムにはドイツ最高といわれたオーケスト ラと歌劇場があり、古来ヨーロッパの音楽の中心地の一つでした。

マンハイムでは楽長カンナビッヒなどの音楽家と親しくなりましたが、結局就職の口は見つかりませんでした。しかし、マンハイム楽派の優れた作曲家カール・シュターミッツなどの作品に触れ、モーツアルトは大いに得るところがあったということです。

当時のマンハイム楽派の特色は、管楽器を重視した多彩な表現と上昇音階でのダイナミックなクレッシェンドにあったということです。モーツァルトはそれらを「気取ったマンハイム様式」と皮肉ったそうですが、それでもやはりそれらの一部を学び、その後パリで作曲したオーケストラ作品に生かしました。

マンハイムではヴォルフガングは音楽家フリドリン・ヴェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーと知り合い、彼女と結婚したいという意思を父レオポルトに伝えましたが、レオポルトは激怒してヴォルフガングにすぐにパリに行くように命じました。

最後のパリ旅行

最後のパリ旅行  1778年3月3月14日、モーツァルトは母アンナマリアともにマンハイムを離れ、3月23日にパリに到着しました。

最初はさる商人の邸に間借りしたようですが、そこの居心地があまりにも悪かったので、現在のパリ1区サンティエ通りの部屋に転居しました。

左の地図下部にセーヌ川のシテ島があります。シテ島の西端にかかるポンヌフ橋を北に向かって渡り、そのまま1kmほど行くと、有名なサン・トゥスターシュ教会があります(左の地図右上部)。モーツァルト母子は、その教会からさらに北1kmほどのところに住み着いてパリでの活動を始めました。

フルートとハープのための協奏曲

 モーツァルトがかつてヴェルサイユ宮殿で拝謁したフランス国王ルイ15世は死去し、その孫がルイ16世として王座についていました。つてもないパリでモーツァルトの就職活動はうまく行かず、モーツァルト母子は苦しい生活を送りました。

その時期には、モーツァルトは出張演奏、ピアノ・作曲教師などなんでもして少しでも稼がなければなりませんでした。4月からはギーヌ公爵という貴族の娘に作曲を教えるようになりました。ギーヌ公爵はアマチュアのフルート奏者で、その娘はハープを上手に奏しました。まもなくモーツァルトはギーヌ公爵から娘といっしょに演奏できるフルートとハープのための協奏曲を作曲してほしいと依頼されました。

	フルートとハープのための協奏曲 モーツァルトは直ちにその協奏曲の作曲にかかり、4月のうちに完成させました。それが 《フルートとハープのための協奏曲ハ長調 K.299》 です。

当時モーツァルトはフルートという楽器があまり好きではないと手紙の中に書いているそうです。木管楽器の中ではやや個性が薄い感のあるこの楽器はあまり腕が振るえなかったのでしょうか。
またハープのほうもピアノに比較すれば表現力が乏しいように思われます。

そのフルートとハープを独奏楽器として、モーツァルトは音楽史に残る瑞々しい協奏曲を作曲しました。優美な第2楽章アンダンティーノは特に有名です。

パリにきてから最初の傑作となったこの作品に対して、ギーヌ公爵はモーツァルトにほとんど作曲料を払わなかったということです。それどころか娘の作曲指導の料金も十分には払わなかったとされます。このため、モーツァルト母子の生活はますます困窮しました。

《交響曲 31番 パリ》

 当時パリには「コンセール・スピリチュエル」という音楽団体があり、テュイルリー宮殿を会場として音楽会を開催していました。1778年の初夏、そのコンセール・スピリチュエルから交響曲の作曲依頼を受け、モーツァルトは喜んで作曲にかかりました。

モーツァルトは、パリに来る前に立ち寄ったマンハイムでマンハイム楽派のダイナミックな樂風を学んでいました。また、木管楽器、特に新しい楽器であるクラリネットを使用して曲調に彩りをつける方法も身につけました。モーツァルトはそれらの新技法をパリのオーケストラに適用し、パリの聴衆にうける大掛かりな交響曲を作ろうと考えました。

テュイルリー庭園 テュイルリー宮殿は現在のルーブル美術館の西側にあった宮殿で、1683年に王宮がヴェルサイユ宮殿に移った後は王家は住んでいませんでした。

その中の大ホールでコンセール・スピリチュエルの演奏会が行われていました。モーツァルトの 《交響曲 31番 パリ》 は、1778年6月18日にここで初演され、大成功を収めました。

その11年後、フランス革命の嵐の中、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットはこの宮殿に幽閉されました。、1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にテュイルリー宮殿は焼失し、現在はその庭園が残って公園になっています。

この交響曲の前にモーツァルトは多数の交響曲を作曲しましたが、それらのうちで最後の傑作は4年前に作曲した 《交響曲 29番 イ長調 K.201》 です。これはまだ18歳のモーツァルトがザルツブルクで完成した作品ですが、モーツァルト初期の名作交響曲として有名です。
《交響曲 29番》 は、オーボエ2、ホルン2、弦5部という簡素な室内合奏曲の構成です。

これに対して 《交響曲 31番 パリ》 は、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2本にティンパニも加えた完全2管の大掛かりな編成になっています。モーツァルトの交響曲全体を見回しても、このような大編成の作品はほかにはウィーン時代の最初の交響曲である 《交響曲 35番 ハフナー》 があるのみということです。
モーツァルトがいかに意気込んでこの交響曲の作曲に当たったかがわかります。

母アンナ・マリア

母アンナ・マリア  モーツァルトに同行してきた母アンナ・マリアは、当時としてはかなり高齢の57歳になっていました。ザルツブルクからの過酷な馬車による長旅とパリでの厳しい生活はアンナ・マリアの健康を蝕み、夏に向かって体調は悪化して行きました。

パリの医師が行った瀉血はかえってアンナ・マリアに最後の打撃を与える結果となり、アンナ・マリアは息子の行く末を案じつつ7月3日にパリ1区の安宿で息を引き取りました。

モーツァルトはたった一つの支えであった母の死に呆然としつつも、住居の南1kmにあるサン・トゥスターシュ教会で母の葬儀を執り行いました。

その後、母アンナ・マリアの遺骸は教会の近くの墓地に埋葬されましたが、現在はその所在は不明になったということです。当時モーツァルトも窮乏中のことであり、母の遺骸を正式に埋葬することができなかったのかも知れません。

その13年後、モーツァルトは35歳の若さでウィーンで死亡しました。喪主であった妻コンスタンツェは墓地までの野辺の送りをせずウィーンの城門で夫の遺骸をのせた馬車を見送ったといわれます。この様子は映画 《アマデウス》 に描かれているので、ご覧になった方も多いでしょう。そして、モーツァルトの遺骸の所在も現在は不明になっています。

《パリ・ソナタ》 の連作

 母アンナ・マリアの死の前後、窮乏の中、モーツァルトは作曲に打ち込みました。この時期はピアノに関連する室内楽作品が多数あります。モーツァルトは、パリに来る前にアウグスブルグに立ち寄り、ピアノ制作者シュタインのピアノを試奏しましたが、それから受けたインスピレーションがこれらピアノ作品に反映されているともいわれます。

まず、 《ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調 K.304》 、 《ピアノソナタ イ短調 K.310》 が相次いで完成しました。前者のピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調は以前から依頼があった曲をこの時期に仕上げたということのようですが、後者のピアノソナタ イ短調のほうは作曲の経緯は現在も不明のままだそうです。
モーツァルトには数少ない短調の作品が2曲相次いだのは、やはり、母アンナ・マリアの死が影を落しているのであろうと指摘する研究者が多いということです。

《ピアノソナタ イ短調 K.310》 に続き、モーツァルトはピアノソナタの作曲を進め、その夏の間に合計5曲のピアノソナタを完成させたとされます(最近の研究では、イ短調 K.310の後の4曲は1780年以降に作曲されたものではないかともいわれます)。それら5曲のピアノソナタは通常「パリ・ソナタ」と呼ばれていますが、その中には有名な 《ピアノソナタ イ長調 K.331 トルコ行進曲付き》 も入っています。

パリ・ソナタはいずれも立派なピアノ作品ですが、やはりひと際光を放つのがその第一作 《ピアノソナタ イ短調 K.310》 だと思います。マンハイム楽派やパリ楽壇から新時代の音楽を吸収したのも幸いしたのか、モーツァルトはこの作品でピアノソナタの新境地を開拓したといえるでしょう。モーツァルトには短調の作品が少なく、ピアノソナタではこの曲のほかには後に作曲した傑作 《ピアノソナタ ハ短調 K.457》 があるのみです。パリの苦境の中で作曲した 《ピアノソナタ イ短調 K.310》 は、後の傑作ハ短調ピアノソナタに匹敵するスケールの大きさを持っています。

きらきら星変奏曲

きらきら星変奏曲  上記パリ・ソナタの連作のほかに、モーツァルトはパリで多数のピアノ独奏曲やピアノを含む室内楽曲を作りました。それらの中に 《ピアノのための12の変奏曲 ハ長調 K.265》 というのがあります。
この題名だけを見ると、モーツァルトの作品に詳しい方以外はどのような曲かわからないかも知れません。しかし、 《きらきら星変奏曲》 といえば、クラシック音楽に関心のある方なら大多数が名前をご存知かと思います。

パリではモーツァルトは何人かの弟子にピアノを教えていたということです。それらの弟子に教材としてやさしいピアノ曲を作って提供したようです。

変奏曲の主題は、当時フランスで流行していた恋歌 《ああお母さん、あなたに申しましょう》 からとったとされます。この変奏曲の作品番号は K.265 とかなり前の時期の番号になっているので、パリに来る前に作曲しかけたものをパリで完成させたのかと思われます。
そして、パリの弟子たちの練習用に使われたのではないかというのが私の想像です。

イギリスの詩人ジェーン・テイラーは、モーツァルトの死後14年にあたる1806年に"The Star"という詩を書きました。その詩はなぜかこの変奏曲の主題を音楽として唄われるようになり、「きらきら星の歌」として世界中に広まりました。
それにつれ、モーツァルトの 《ピアノのための12の変奏曲 ハ長調 K.265》 は「きらきら星変奏曲」とも呼ばれるようになったのです。

このような経緯からか、モーツァルトのピアノ曲に詳しくない方々からはこの作品は子供向けのピアノ入門曲と考えられているようですが、実はそうではありません。
モーツァルトやベートーベンの作品を得意としているピアニストの演奏でこの変奏曲を通して聴くと、12の変奏曲が綾をなすようなデリケートな表情を持つ音階で構成されており、即興的な瑞々しさに満ちているのがわかります。

ザルツブルグに帰る

 母アンナ・マリアが7月3日に死亡した後、モーツァルトはサンティエ通りの部屋を引き払い、ショセダンタン街のマダム・デピネイの屋敷に間借りしました。マダム・デピネイはモーツァルトの父レオポルドの友人グリム男爵の愛人であったとされる人です。その屋敷は現在オペラ・ガルニエのある場所の近くにあったということです。

その部屋に住みつつモーツァルトはなおもパリで就職先を探しましたが、みな徒労に終わりました。ザルツブルグの父レオポルドは、ヴォルフガングの就職活動は見込みがないと判断し、ザルツブルク大司教コロレド伯に「平身低頭して」ヴォルフガングをまた雇ってくれるように懇願しました。その結果大司教からヴォルフガングの復職を認めてもよい旨の言葉をもらったので、父レオポルドはさっそくヴォルフガングにザルツブルグに帰るように命じました。

1778年9月26日、ヴォルフガングは半年あまりを過ごしたパリから故郷ザルツブルグに向かう馬車に乗りました。北国パリの秋は短く、この時期にはマロニエなど街路樹の葉は黄ばみ、街路を吹き抜ける風は肌に冷たくなります。そのパリの街路を東に向かう馬車の中で、ヴォルフガングはなにを思ったでしょうか。

パリではヴォルフガングは就職活動が失敗に終わったばかりか、唯一の支えであった母アンナ・マリアも失いました。パリ時代以後のヴォルフガングの人生を見ると、もし母アンナ・マリアが存命であったら世事にうといヴォルフガングにとって大変有益なアドヴァイスをしてくれたであろうと思わずにはいられません。
しかし、その苦難の時期にヴォルフガングは音楽家としてはマンハイムやパリで新時代の音楽手法やクラリネットなど新しい楽器の知識を吸収することができました。そして、その後ウィーンに移ってから大飛躍をとげ、音楽史に残る傑作を次々に発表することになりました。

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