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アントニオ・サリエリ

アントン・サリエリ  作曲家アントニオ・サリエリ(左の写真)は、1750年にイタリア北部のレニャーゴに生まれました。大作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトより6年前の生まれということになります。

サリエリは幼少時より音楽に才能を発揮し、1766年、16歳のときにウィーンの宮廷に招かれました。
1774年には、皇帝ヨーゼフ2世によって宮廷作曲家に取り立てられました。
この当時はイタリアの音楽、なかんずくイタリア・オペラが最高の音楽とされており、ヨーロッパ各国の宮廷ではイタリア人音楽家を重用することが多かったのです。

サリエリは、1788年にはウィーン宮廷音楽家のトップである宮廷楽長に任命されました。
その後サリエリは1825年に死亡しましたが、その前年まで宮廷楽長の職にあったということです。ヨーロッパでも指折りの大国オーストリアの宮廷で36年間にわたり宮廷楽長を務めたのですから、当時サリエリはウィーン音楽界の頂点にあったといえるでしょう。

サリエリの業績

ウィーン楽友協会  当時の音楽家は、オペラやミサ曲を作曲してはじめて本格的な作曲家として世に認められました。
サリエリは、その長い音楽キャリアのうちに43曲のオペラ、数曲のミサ曲を作曲したということです。

1812年に現在ニューイヤーコンサートが開催されるので有名なウィーン楽友協会(左の写真)が創立されましたが、サリエリはその創立者の一人でした。ウィーン楽友協会の黄金ホールの設計、特にその空間性、音響効果の設計に携わりました。
また、1817年には現在のウィーン国立音楽大学のルーツであるウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任しました。

モーツァルトとサリエリ

モーツァルト  ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、少年時代から父レオポルドとともにザルツブルグ大司教の宮廷で音楽家として働いていました。

ザルツブルグのコロレド大司教は、ときどきウィーンで音楽会を開きましたが、その際はモーツァルトをザルツブルグから呼び寄せて出演させたそうです。

1773年にウィーンで開催されたザルツブルグ大司教主催の音楽会に当時17歳であったモーツァルトが出演しましたが、その際にモーツァルトはウィーンの宮廷作曲家になっていたサリエリと初めて面会したということです。

モーツァルトは、ウィーンの音楽会でサリエリに会った後、ザルツブルグに帰りました。その4年後の1777年、21歳のとき、モーツアルトはザルツブルク大司教の許を辞し、母アンナマリアともにヨーロッパの各大都市で音楽家の職を求める旅行に出発しました。

しかし職探しはうまく行かず、1778年9月、モーツアルトは職探しをあきらめて半年あまりを過ごしたパリから故郷ザルツブルグに帰りました。

しかし、その苦難の時期にモーツアルトは音楽家としてはマンハイムやパリで新時代の音楽手法やクラリネットなど新しい楽器の知識を吸収することができました。

映画 《アマデウス》

サリエリ  1984年、イギリスの劇作家ピーター・シェーファーの脚本によるアメリカ映画 《アマデウス》 が公開され、世界中で大ヒットになりました。

この映画ではシェーファーは、平凡な作曲家であるサリエリがモーツァルトに出会ってその輝かしい才能に驚嘆し、やがてモーツァルトに対して嫉妬の情をおぼえる様子を描いています。

映画では、シリア系アメリカ人F・マーリー・エイブラハムがサリエリ役(左の写真)を演じ、ブロードウェイの舞台などに出演していた俳優トム・ハルスがモーツァルト役を演じました。

パリからザルツブルグに帰った3年後の1781年、モーツァルトはふたたびザルツブルク大司教がウィーンで開催した音楽会に出演するためウィーンにくるよう命じられました。
映画 《アマデウス》 の冒頭の部分では、モーツァルトがその音楽会で皇帝ヨーゼフ2世に謁見し、またサリエリに初めて会ったように描かれています。
そのウィーンでの音楽会が終了した後、モーツアルトはコロレド大司教と衝突し、ザルツブルク宮廷音楽家の職を解雇されました。

モーツアルト、ウィーンに定住

 それ以降、モーツァルトは、ウィーンでフリーの音楽家として暮らしながらウィーン宮廷や大貴族などに雇われる道を探すことになりました。

この時代はモーツァルトの生計は不安定でしたが、モーツァルトにとっては音楽を作曲する時間ができたという大変大きな利点がありました。モーツァルトはピアニスト、音楽教師として働きながら、交響曲、ピアノソナタなどさまざまなジャンルで精力的に作曲をしました。

上記のように、モーツァルトの希望はウィーン宮廷や大貴族などに音楽家として雇われることにありました。しかし、当時はウィーン宮廷ではサリエリが皇帝ヨーゼフ2世の信任を得て音楽を取り仕切っており、モーツァルトは入り込むことができませんでした。

後宮からの逃走 ヨーゼフ2世は音楽、芝居を愛好し、当時ジングシュピールと呼ばれたドイツ語オペラを奨励していました。モーツァルトがウィーンで活動を開始した1781年、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトの評判を聞き、三幕からなるドイツ語オペラ 《後宮からの逃走》 の作曲をモーツァルトに命じました。

モーツァルトとしてはドイツ語オペラの作曲でヨーゼフ2世に認められる絶好のチャンスとなったわけで、さっそくオペラの作曲にかかりました。
ドイツ語オペラ 《後宮からの逃走》 (左の写真)は翌1782年5月に完成してウィーンのブルク劇場で初演され、大成功を得ました。

この成功にもかかわらず、モーツァルトは期待したウィーン宮廷での職を得ることはできませんでした。それをモーツァルトはサリエリがなにか妨害工作をしたためと考えたそうです。

1786年、ヨーゼフ2世はサリエリとモーツァルトにオペラを作曲してジングシュピール歌劇団で上演するように命じました。それに応じてサリエリは 《まずは音楽、それから言葉》 を、モーツァルトは 《劇場支配人》 を作曲し、同歌劇団で上演しましたが、この対決はサリエリが勝利を収めたそうです。

傑作オペラ相次ぐ

ドン・ジョヴァンニ  サリエリはその後もヨーゼフ2世に厚く信任され、1788年には宮廷楽長に昇進しました。
その時期にモーツァルトは 《劇場支配人》 、《フィガロの結婚》 、《ドン・ジョヴァンニ》(左の写真) 、《コジ・ファン・トゥッテ》 とオペラの傑作を相次いで発表し、オペラの第一人者になりました。

1790年3月にヨーゼフ2世が没し、弟のレオポルト2世が皇帝に即位しました。モーツァルトはレオポルト2世の宮廷の第二楽長に採用されるよう活動しましたが、結局成功しませんでした。
モーツァルトは、それもサリエリの妨害の結果ではないかと疑ったようです。

オペラ 《魔笛》

オペラ	 《魔笛》  1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていました。

その中でモーツァルトは、ウィーンの興行師シッカネーダーの注文に応じて大作オペラ 《魔笛》 を作曲しました。それと並行してレオポルト2世の要請でオペラ 《皇帝ティトの慈悲》 をも作曲しました。

《魔笛》 は1791年9月、アウフ・デア・ウィーン劇場で初演され大成功を収めました。
その2週間後にモーツァルトはサリエリを 《魔笛》 の上演に招待しました。サリエリは《魔笛》 を観て、これこそオペラだと絶賛したそうです。

遺作 《レクイエム》

  《レクイエム》   《魔笛》 が完成する少し前に、見知らぬ男がモーツァルトを訪ねてきてレクイエムの作曲を依頼しました。レクイエムとは、カトリック教会で行われる死者のための典礼に用いられるミサ曲です。

その男は依頼主の名前を明かなかったのでモーツァルトは不審に思いましたが、男が高額の報酬を提示したのでモーツァルトは承諾し、報酬の一部を前払いとして受け取りました。

上記のように9月に大作オペラ 《魔笛》 を完成した後、モーツァルトは最後の作品となったこの 《レクイエム》 の作曲に着手しました。

12月に入るとモーツァルトは重い病気にかかり、床に伏せるようになりました。その病名は、現在に至るまで特定されていないということです。その後病状は急激に悪化し、12月5日にモーツァルトは36歳でこの世を去りました。死亡証明書には死因は「急性粟粒疹熱」であったと記録されているそうです。

翌6日、モーツァルトの棺はシュテファン大聖堂に運ばれ、葬儀が執り行われました。サリエリはこの葬儀に友人の一人として参列したということです。
葬儀は最下位の第三等という等級で行われ、遺骸は共同墓穴に埋葬されました。結局モーツァルトの遺骨は他の多数の遺骨にまぎれて行方不明になってしまいました。

モーツァルトが最後にかかっていた作品 《レクイエム》 は、未完のまま残されました。当時窮乏していたモーツァルトの未亡人コンスタンツェは、 《レクイエム》 の残りの作曲報酬を受け取りたいと考え、弟子のジュスマイアーにその作品を完成させるように依頼しました。

ジュスマイアーは、数ヵ月後、1792年前半にモーツァルトが残した 《レクイエム》 を補筆完成させ、コンスタンツェの許に届けたということです。翌1793年1月、サリエリはさる貴族の依頼によりその 《レクイエム》 を初演しました。

プーシキンの劇詩

 モーツァルトが若くして不詳の病気で亡くなったことで、没後ウィーンの街ではさまざまなうわさが飛び交いました。それらの中に「モーツァルトはサリエリによって毒殺された」という説があり、その後文学作品などに描かれたこともあって長く話題になってきました。
サリエリ最晩年の1820年代にはこの説をめぐって論争が起こり、サリエリは涙ながらに自らの無実を訴えたということです。

プーシキン モーツァルト没後40年あまり経った1832年に、ロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンが 『モーツァルトとサリエリ』 という短い劇詩を発表しました。
大天才モーツァルトの作品を正しく理解したサリエリが、羨望から嫉妬をおぼえ、遂にモーツァルトに毒をもるにいたったという内容だそうです。

1898年、ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフはプーシキンの劇詩をもとに2場のオペラ 《モーツァルトとサリエリ》 を作曲しました。
プーシキンとリムスキー=コルサコフにより、サリエリがモーツァルトを毒殺したという説は世界中に広まることになりました。

モーツァルト毒殺説

 モーツァルトの書簡の中には、自分がウィーンでよい仕事につけないのはサリエリが手を回しているためだと書かれているのが何ヶ所もあるということです。また、モーツァルトの父レオポルドも息子の手紙を見てやはりそのような趣旨の手紙を書いているそうです。

現在までの研究によると、確かにサリエリがモーツァルトに不利になるような言動をしたことは何回かありますが、モーツァルト側が主張するほどのものではなかったということです。

優れた音楽家であったサリエリは、モーツァルトの優れた才能を高く評価し、慈善演奏会などでモーツァルトの交響曲、戴冠式ミサ曲、コンサート・アリアなどをたびたび演奏していました。また、モーツァルトの 《魔笛》 などのオペラについても大いに賞賛したといわれます。

さらに宮廷楽長という高い地位であったこともあり、サリエリがモーツァルトの毒殺を企てたというのは、今日の私どもにはとても信じられないところです。しかし、当時のウィーンではモーツァルトの死亡後まもなくこのうわさが方々で飛び交ったということです。

その後詳細な研究が行われた結果、サリエリによるモーツァルト毒殺説は完全に否定されました。それにもかかわらず、大天才モーツァルトの不審な最後とサリエリとの係わり合いは後の作家、音楽家などの創造欲を刺激し、さまざまな作品が発表されてきました。

 《アマデウス》  1979年に、イギリスの劇作家 ピーター・シェーファーは戯曲 《アマデウス》 を発表しました。
上記プーシキン以来のサリエリによるモーツァルト毒殺説を描いた作品でした。
《アマデウス》 はロンドンの劇場で初演されて大成功を収め、翌年にはアメリカ合衆国に渡ってニューヨーク・ブロードウェイの劇場で上演され、また高評価を得ました。

1984年、前記のように 《アマデウス》 はアメリカで映画化され、世界中で大ヒットしました。映画 《アマデウス》 は1984年のアカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門を受賞しました。

音楽教育者サリエリ

 サリエリは、モーツァルトが亡くなった1791年ごろからは宮廷礼拝堂での音楽演奏が主たる仕事となり、オペラ作曲からは遠ざかりました。 

その時代にはサリエリは、困窮した音楽家たちを救済するための慈善演奏会を毎年開催しました。それらの演奏会では、サリエリはしばしばモーツァルトの交響曲やミサ曲を演奏したということです。

その後はサリエリは、次第に自分の名声を慕って集まる後進の指導を行うことが多くなりました。それら若手音楽家の中にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがいました。

ベートーヴェン ベートーヴェンは上記1791年にモーツァルトが没してからほぼ1年後の1792年11月にボンからウィーンに移り住みました。
ウィーンではミハエル・ハイドンの門下に入りましたが、ハイドンは多忙だったためあまり指導をしてくれなかったということです。

そこで、ベートーヴェンはサリエリのもとでイタリア・オペラなどを教わりました。ベートーヴェンは1796年、26歳のときに 《ああ、裏切り者め》 という演奏時間14分以上にもおよぶ演奏会用アリアを作曲しましたが、これはサリエリのもとでオペラを勉強した成果の一つといわれます。

シューベルト 宮廷楽長であったサリエリは、1808年に当時11歳だったフランツ・シューベルトを宮廷少年合唱団に入団させました。その後6年間、サリエリは少年シューベルトに作曲法を教えたということです。 

サリエリは、このような音楽教育をほとんど無報酬で行ったそうです。貧しかった少年シューベルトにとっては、サリエリに指導してもらえるのは本当に有り難かったことでしょう。

1822年からは、サリエリは当時天才少年と呼ばれたフランツ・リストに作曲法、オペラなどの指導をしました。また、フンメル、ジュスマイヤーもサリエリの弟子だったそうです。

サリエリの晩年

 亡くなる数年前からサリエリは痛風などを病み、ウィーンの病院で療養しました。前記映画 《アマデウス》 では晩年のサリエリはモーツァルト毒殺がもとで心を病み精神病院に収容されたように描かれていますが、それは事実ではありません。

この時期にもサリエリはモーツァルトを毒殺したのではないかといういわれなきうわさに悩まされたといわれます。サリエリを見舞いにきたイタリア・オペラ作曲家ジョアキーノ・ロッシーニまでもサリエリに面と向かってこのうわさの真偽を訊ねたそうですが、その際はサリエリは憤然としてその疑いを否定したということです。

サリエリの墓 サリエリは、1825年に75歳でこの世を去りました。なにかと因縁の深かったモーツァルトの没後34年、一時は教え子であったベートーヴェンが亡くなる2年前のことでした。

ウィーン中央墓地では、大音楽家たちの墓は32Aという区画に集められています。ベートーヴェン、シューベルトの墓もそこにありますが、モーツァルトは前記のように遺骨の所在がわからなくなったため、かわりに記念碑が置かれています。
しかし、サリエリは残念ながらその大音楽家たちの区画には葬られませんでした。

上記32A区画は第2門という大きな門から入りますが、その第2門を入るとすぐ第0区という場所があります。サリエリの墓は、その第0区の一角にありました。上の写真のように募柱のある塔形の墓で、募柱にはサリエリの顔のレリーフが付けられていました。

映画 《アマデウス》 の公開以来サリエリの名前は世界中に広く知られるようになり、この墓にもうでる人も多くなったそうで、墓の前にはたくさんの花が供えられていました。

なお、サリエリの墓の近くにはピアノ教則本で知られる音楽家カール・ツェルニーの墓もあります。ツェルニーはサリエリの弟子の一人で、後にベートーヴェンの弟子にもなった人です。

サリエリの名前が世界中に知られるようになった結果、21世紀に入ってからサリエリの残したオペラの一部がDVDに収録されました。また、サリエリの生地北イタリア・レニャーゴでは、2009年からサリエリ・オペラ音楽祭を毎年開催しているということです。

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