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音楽家エリック・サティ

 音楽に詳しい方なら、もちろんエリック・サティという音楽家はご存知でしょう。しかし、サティという名前を聞いたことはないという方でも、サティが作曲した 《ジムノペディ》 や 《グノシエンヌ》 などを聴けば「これはどこかで聞いたことがある」と思うことでしょう。

サティの音楽は、構成が簡単で親しみやすい曲調のものが多く、一度聴けばすぐにおぼえられます。いわゆる「音の少ない音楽」の代表格といえるでしょう。そのため、現在ではパソコン音楽やテレビコマーシャルの音楽などに広く利用されています。

エリック・サティ  エリック・サティは、1866年にフランス北西部ノルマンディ地方のオンフルールで生まれました。
印象派音楽の創始者クロード・ドビュッシーより4年後、ポスト印象派の画家アンリ・ロートレックの2年後の生まれとなります。

サティは1879年に13歳でパリ音楽院に入学し、在学中に 《ジムノペディ》 や 《グノシエンヌ》 など多数のピアノ小品を発表しました。しかしやがて音楽院に退屈を感じ、1886年に退学しました。

その後は、サティはモンマルトルなどのシャンソン酒場でピアノ弾きをして暮らしました。

ベル・エポック

ベル・エポック  1870年の普仏戦争大敗とそれに続くパリ・コミューンの悲劇の後に発足したフランス第三共和政は、長い時間をかけて徐々にフランスを立て直しました。19世紀末にはフランスでも工業化が進展し、大市民など富裕層を中心に都市の享楽的な文化・芸術がエンジョイされるようになりました。

普仏戦争終了から第一次世界大戦勃発までの時期は、普通ベル・エポック(美しい時代)と呼ばれます。その時期には、フランスの首都パリはまさに世界の「花の都」になりました。

1889年にパリで開かれた万国博覧会にあわせてエッフェル塔が建設されました。エッフェル塔に登って花の都パリを展望した観光客は、新時代の到来を実感したことでしょう。

カフェ・コンセール

カフェ・コンセール  そのころパリでは「カフェ・コンセール」と呼ばれるカフェがほうぼうにあり、人気を集めていました。
カフェ・コンセールとは、日本語ではシャンソンを聴かせるライブハウスということになるでしょうか。

当時のパリの新開地であったモンマルトルにもカフェ・コンセールがいくつもあり、サティはパリ音楽院在学中からそのうちの一つ 「黒猫」 に通っていました。黒猫とは、当時パリでも人気のあったアメリカ作家エドガー・アラン・ポーの小説の題名からとったということです。

音楽院を退学したサティは、このカフェ黒猫のピアニストとして働くようになりました。黒猫には画家、音楽家、詩人などが多数通ってきたので、サティはそれら芸術家とも交流を深めました。

サティはカフェ・コンセール黒猫のために歌曲もいくつか作曲しました。サティの代表作の一つ 《ジュ・トゥ・ヴ(お前が欲しい)》 もその一つで、現在も広く演奏されています。

シュザンヌ・ヴァラドン

ヴァラドン  その時期にサティが住んでいたモンマルトルの家のとなりに、シュザンヌ・ヴァラドンという女性が幼い息子ユトリロとともに暮らしていました。

ヴァラドンはサティより1年早い1865年生まれで、画家たちのモデルをしながら自分でも画家を目指していました。ヴァラドンは男性関係が奔放で、画家オーギュスト・ルノワール、アンリ・ロートレックとも同棲したことがありました。

ヴァラドンは18歳のとき息子ユトリロを出産しましたが、その父親がだれかについてはヴァラドンは一生語ることがなかったそうです。

サティは、27歳のとき、この恋多き女性シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始めました。そのころサティはヴァラドンに対し300通を超える手紙を書いたといわれますが、結局この恋は長続きせず、半年後サティはヴァラドンと絶交しました。

クロード・ドビュッシー

ドビュッシー  カフェ黒猫には作曲家など音楽家も多数訪れましたが、その中に印象派音楽の創始者クロード・ドビュッシーがいました。
ドビュッシーとサティは1890年ごろ知り合って交流を始めましたが、このころドビュッシーは 《夜想曲》 、 《ベルガマスク組曲》 などを発表し、新進作曲家として有名になっていました。

ドビュッシーは当初ワグナー・ロマン主義に傾倒していましたが、この時期にはそれに疑問を感じ、新時代の音楽を模索していました。そのドビュッシーにサティの典雅で夢想的な音楽は大きな影響を与えたといわれます。

 サティがカフェのピアノで演奏した音楽をドビュッシーが譜面に記録し、サティの名前で発表させたこともあったそうです。また、ドビュッシーはサティ作曲の 《ジムノペディ》 第1番、第3番を管弦楽に編曲したものを残しています。

モーリス・ラヴェル

ラヴェル  ドビュッシーと並ぶ印象派の作曲家モーリス・ラヴェルは、ドビュッシーの13年後、サティの9年後にフランス南西部バスク地方に生まれました。

サティとラヴェルは1894年に出会っています。ラヴェルはまだパリ音楽院在学中でしたが、やはりカフェ黒猫に行ってサティと知り合ったのでしょう。

ラヴェルは音楽院の学内でサティの 《ジムノペデイ》 などのピアノ曲をよく演奏したということです。後にラヴェルは「サティの音楽から大きな影響を受けた」と述懐しました。この時代の作曲家としては古典的な形式を重んじたラヴェルですが、内心サティの自由さに憧れたのでしょうか。

ラパン・アジル

 現在、パリには「シャンソニエ」と呼ばれるシャンソンを聴かせる音楽酒場がかなりあります。19世紀の末に全盛となった前記カフェ・コンセールの伝統を現在につなぐものです。

シャンソニエの代表格「ラパン・アジル」は、モンマルトル、サクレクール寺院の近くに1875年に創業しました。前記シュザンヌ・ヴァラドンがユトリロを出産したころにあたります。

当時はラパン・アジルは安く酒が飲める大衆的なカフェだったようで、あまりリッチではない若手画家、詩人などがここを盛んに訪れていました。サティはこのラパン・アジルでもシャンソンのピアノ伴奏をしていたそうです。

ヴァラドンの息子ユトリロは、少年時代から飲酒をはじめ、10代の終わりにはアルコール中毒になったということです。ユトリロはよくラパン・アジルに来て酒を飲んだようです。そのためか、ユトリロはラパン・アジルのまわりの風景画を多数残しています。

下の絵画もその一つ(部分)で、ラパン・アジルの2階建ての店、その庭にある樹木などをかなり丁寧に描いています。私どもも数年前にラパン・アジルに行きましたが、店も樹木もこの絵画に描かれているとおりでした。

ラパン・アジル


歌・ピアノ

 私どもは、パリに着いてモンマルトルのホテルにチェックインしてからラパン・アジルに電話し、夜10時半の予約を取りました。店に入ると、内部は40席ぐらいの小さい場所で、お客は部屋の壁に沿って座っています。客席のところどころに赤い布で覆われたダウンライトがあるだけで、部屋全体は人の顔がやっとわかるくらいの暗さでした。

入口に近いところに小型のアップライトピアノがあり、ピアニストが座っています。歌手はその横で歌うのですが、歌手のところには弱いスポットライトがあたっています。

甘いシェリー酒がだされたので、それを飲みながら待っていると、中年の男性歌手が現れました。体格もよく、すごい声量です。ピアノはクラシックの演奏にくらべて控えめで、歌をたてるように弾きます。楽器としても、やや控えめな音質のようです。

前記のようにサティはこのシャンソニエでピアノを弾いていたことがあり、そのときのピアノが店に残っていると聞きましたが、これがそのピアノでしょうか。
120年ほど前の楽器と思われるピアノの音とそれにあわせて歌うシャンソンを聞きながら、ベル・エポックの音楽家エリック・サティをしのびました。

ラパン・アジル ラパン・アジル

バレエ 《パラード》

ジャン・コクトー  当時パリでは芸術プロデューサー セルゲイ・ディアギレフが主宰するバレエ団バレエ・リュスが盛んに活動していました。
1910年から1913年にかけて、ディアギレフはイーゴリ・ストラヴィンスキー作曲の《火の鳥》、《ペトルーシュカ》、《春の祭典》を相次いでパリのオペラ座で上演し、大成功を収めました。

詩人で多彩な活動をしていたジャン・コクトーは、《パラード》 というバレエの脚本を書き、バレエ・リュスで上演することになりました。パラードとは、サーカス団がテントの外でピエロの芸など出し物の一部を見せる宣伝活動のことだそうです。

パブロ・ピカソ  コクトーは、まず仲間の画家パブロ・ピカソを誘い、バレエ 《パラード》 の舞台美術と衣装を担当させました。ピカソは当時36歳で、1907年の 《アビニヨンの娘たち》 制作以来、キュビスムの作風を確立しつつある時期でした。

下図の写真は、ピカソが描いたこのバレエの背景画です。当時のピカソの作品としては比較的具象的でわかりやすい画調になっています。
やはりバレエの背景画ということで、華やかでだれにでも理解できるように描いたのでしょう。
天馬や天使などの姿が、どこかピカソが20年後に描いた名画 《ゲルニカ》 を連想させます。

ピカソ


《パラード》 の音楽

 バレエ・リュスの主宰ディアギレフは、当初バレエ 《パラード》 の音楽はストラヴィンスキーに依頼しましたが、なぜかストラヴィンスキーはそれを断ったということです。

そこでディアギレフは今度はエリック・サティに依頼したところ、サティは受諾し、さっそく作曲にかかりました。このころは大衆のための芸術が求められる時代になり、サティが若いころに作曲した音楽は人気が出ていました。サティははもう50歳を超えていましたが、音楽界でかなり高い評価を得るようになったのです。

バレエ 《パラード》 は、第一次世界大戦中の1917年にパリのシャトレ座で初演されました。オーケストラの指揮は新進のエルネスト・アンセルメが担当したそうです。
《パラード》 の初演は、ピカソの舞台美術と衣装が賛否両論を巻き起こしたこともあり、劇場内は大騒動になったということです。

しかし、この仕事でサティは劇音楽への情熱を得たのか、その後バレエ音楽、劇付随音楽、サーカス劇のための音楽などを相次いで作曲しました。その間、サティはパリのダダ運動の芸術家たちと交流し、自身もそのメンバーとなりました。

その後はサティは長年の飲酒がたたったのか、病気がちになりました。1925年7月1日、サティは聖ジョセフ病院で肝硬変のため死去しました。享年59歳でした。遺骸は最後に住んでいたパリ郊外アルクイユの公共墓地に埋葬されました。

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