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フランツ・シューベルト

シューベルト  18世紀から19世紀にかけて、当時の音楽の中心地であったオーストリア・ウィーンでは優れた作曲家たちが多数活躍しました。

しかし、それらの作曲家のうち、ウィーン出身の人はフランツ・シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどほんの数人だったのです。
それもあってか、シューベルトは現在のウィーンでもなお高い人気を誇っているそうです。

フランツ・シューベルトは1797年にウィーン北部のリヒテンタールで生まれました。大作曲家モーツアルトが没してから3年後の生まれになります。

コンヴィクトに入る

コンヴィクト  フランツの父フランツ・テオドールはリヒテンタールで児童教育の学校を開いていました。フランツ自身もその学校で音楽の基礎を学んだということです。

1808年に宮廷礼拝堂聖歌隊(ウィーン少年合唱団の前身)の欠員補充の募集が行われ、フランツはその試験に合格しました。その後5年間、フランツは寄宿制神学校(コンヴィクト)で一般教養と音楽の教育を受けることになりました。

宮廷礼拝堂聖歌隊は、王宮(ホーフブルク)内にある礼拝堂で毎日曜日にミサを歌うのが主たる仕事でした。フランツはこの勉強を通じて先人たちが残した偉大な音楽を知ることができました。

ギムナジウム

シューベルト  コンヴィクトで寄宿生活をしながら、シューベルトは隣接の「アカデミッシェ・ギムナジウム」というギムナジウム(中高等学校)で普通教育と音楽専門教育も受けました。

ウィーンのリング通り、ベートーベン広場の横に、アカデミッシェ・ギムナジウムの建物がありました。建物の壁にシューベルトがこのギムナジウムに在籍した旨を記したプレートが付けられていました。
建物の入口から入って中庭をのぞくと、蔦が屋根まで這い上がっていてギムナジウムの長い歴史を感じさせました。

コンヴィクトを去る

 コンヴィクトは宮廷の音楽学校でもあり、シューベルトはそこの少年合唱団で活動していましたが、16歳のとき変声期にかかったこともありコンヴィクトを離れることになりました。

その後シューベルトはウィーンの聖アンナ師範学校に入り、教師を目指しました。1814年、17歳のとき師範学校の教職課程を修了し、父が経営する学校の助教師になりました。
といっても助教師の仕事を真剣に勤めたわけではなく、実は作曲に熱中する合間に生徒たちの勉強を指導する程度だったようです。

糸を紡ぐグレートヒェン  この年にミサ曲ヘ長調D105がリヒテンタール教会でシューベルトの指揮により初演されました。
また交響曲第2番D125も作曲しています。

その後の作曲活動にとってそれらよりはるかに重要な作品である歌曲 《糸を紡ぐグレートヒェン D118》 もこの年に生まれました。
これはゲーテの劇詩 『ファウスト』 中の詩に作曲したもので、ドラマティックな曲想、画期的なピアノ伴奏の技法などの点でその後盛んになったドイツリートのさきがけを成すものとされます。

シューベルトは短い生涯にこの曲をはじめ600曲もの歌曲を作曲し、後に歌曲王と呼ばれました。

作曲活動を本格化

 翌1815年、18歳になったシューベルトは本格的に作曲活動をはじめました。この年には145曲の歌曲を創作しましたが、それらの中には前年の 《糸を紡ぐグレートヒェン D118》 に並ぶ初期の歌曲の傑作 《野バラ D257》、 《魔王 D328》 も入っています。

器楽では、初期の交響曲第3番、第4番、第5番、弦楽四重奏曲D173、さらにはミサ曲D150も作曲しました。また5曲のジングシュピールも作曲したということです。ジングシュピールというと私どもはモーツァルトの傑作オペラ 《魔笛》 を思い浮かべますが、シューベルトのジングシュピールとは歌と台詞でストーリーをつないでゆく音楽劇だったようです。

この年、18歳になったばかりのシューベルトは上記のように旺盛な創作力を発揮し、音楽史に残る傑作を多数作曲しました。大天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに迫るすさまじい創造エネルギーに感嘆するほかありません。

シューベルトの友人たち

 コンヴィクト時代からシューベルトは多数の友人を持っていました。その一人ヨーゼフ・シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いたフランツ・ショーバーという人が1816年春にシューベルトを訪ねてきて、作曲活動に専念したらどうかと提案しました。

シューベルトはさっそくショーバーの提案を受け入れ、父の家を離れて現在のウィーン中心地にあったショーバー家の寄宿人となりました。シューベルトはその後約1年間ショーバー家で暮らしましたが、その間は作曲に集中し、バイオリン・ソナタD384、D385、D408、交響曲第5番D485などを完成させました。

翌1817年秋にはシューベルトはゾイレンガッセの父の家に戻りました。これ以後、シューベルトはウィーン市内や近郊の友人などの家にしばらく寄宿してはまた父の家に戻るという自由気ままな生活を8年間も続けました。

かなり前に出版されたシューベルトの解説書を読んだところ、この時期のシューベルトは「宿無しで素寒貧であった」と書かれていました。最近インターネットで見たシューベルト関連のウェブサイトでは「シューベルトはニートのフリーターであった」と述べていました。
当時のシューベルトがどのような生活をしていたか見当がつくように思われます。

シューベルティアーデ

シューベルティアーデ  コンヴィクトを出た後も、シューベルトには多数の友人がいました。1817年、20歳のとき、シューベルトはショーバーから宮廷歌手のヨハン・フォーグルを紹介されました。フォーグルは優秀なバリトン歌手で、シューベルトの歌曲を高く評価しました。

また、ガヒーという優れたピアニストは、シューベルトが作曲したピアノソナタや即興曲などを盛んに演奏しました。
それら熱烈な支持者らは、ウィーンのほうぼうの家でシューベルトを中心とするサロン活動を行いました。

このころ、シューベルトはマイヤーホーファーという詩人と親しくなり、ウィーンT区にあったマイヤーホーファーの家に寄居するようになりました。1818年から1820年にかけて、マイヤーホーファーの詩による優れた歌曲を多数作曲しました。

1819年になって、シューベルトはウィーンの裕福な商人レオポルド・フォン・ゾンライトナーと知り合いになりました。ゾンライトナーの長男がコンヴィクトに所属したことから、シューベルトはゾンライトナー家の部屋を自由に利用するのを許されました。そこで開かれたサロン活動は、やがて「シューベルティアーデ」と呼ばれるようになりました。

前記のように「宿無しで素寒貧」であったシューベルトですが、この時期には幸いにも彼の芸術を理解する友人たちや裕福な市民の支援を得て自由な作曲家活動をかろうじて継続することができたのです。

エステルハージ伯爵邸

エステルハージ家  シューベルトはウィーンに生まれ、一生の大部分をウィーンで暮らしましたが、何回か近隣諸国に行ったことがありました。1818年にはウィーンの東480km、ハンガリー ツェレスにあったエステルハージ伯爵邸の音楽教師になり、夏、秋をすごしました。

後に1824年にもシューベルトはこのツェレスのエステルハージ伯爵邸で音楽教師をし、夏から秋にかけて住みました。このときはシューベルトは当時18歳だった伯爵令嬢(妹)カロリーネに対し、恋心をいだいたそうですが、それは実りませんでした。

上オーストリア旅行

 1819年夏、シューベルトは友人フォーグルとともにフォーグルの故郷である上オーストリア シュタイアーへの旅行に出かけました。
上オーストリアとは、下の地図でオーストリア北部リンツとザルツブルグの間にある山岳の多い地域です。湖水の多い風光明媚なところということで、シューベルトはかねてよりそこに行きたいと願っていたようです。 上オーストリアで、シューベルトはシュタイヤーのほかにリンツ、クレムスミュンスターを訪れました。

オーストリア地図

 シューベルトは、シュタイヤーに長居して多数の器楽曲、歌曲を作曲しました。
それらの中に、シューベルトの室内楽曲としてもっとも有名なピアノ五重奏曲 《ます》 があります(下の写真)。この作品はこの地で完成後初演され、大好評を博したということです。

ピアノ五重奏曲 《ます》


下オーストリア滞在

 ウィーンから50kmほど西の下オーストリア ザンクトペルテンでは、ショーバーの叔父が司教をしていました。シューベルトは1821年の夏はその司教館ですごしました。
この地で、ゲーテの「西東詩篇」の詩をテキストとして有名な歌曲 《ズライカ I D720》 、 《ズライカU D717》 を作曲しました。

シューベルトはこの地区が気に入ったようで、その翌年の夏もここを訪れています。

1821年の秋、シューベルトはウィーン中心部I 区にあったマイヤーホーファーの家の近くに一人で下宿しました。

美しい水車小屋の娘

美しい水車小屋の娘  1823年には、26歳のシューベルトはふたたび夏から秋にかけて友人フォーグルと一緒に上オーストリア シュタイヤ、リンツに旅行しました。

その後ウィーンに帰着してから一時健康を害して入院しましたが、まもなく回復し、シューベルト三大歌曲集の一つ 《美しい水車小屋の娘 D795》 を完成しました。友人の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩をテキストとして作曲したものです。

年末には劇音楽 《ロザムンデ》 を初演し、成功を収めました。このころ、現在のウィーン国立歌劇場のあたりシュトゥーベンバスタイに転居しヨーゼフ・フーバーといっしょに住みました。

ベートーヴェン死す

ベートーヴェン死す  1827年、30歳になったシューベルトはまた現在のウィーン中心地にあったショーバー家に寄宿しました。その家でシューベルトは代表作の一つ、歌曲集 《冬の旅 D911》 の作曲にかかり、まずその第一部を完成させました。

このころシューベルトが尊敬する大作曲家ルードウィッヒ・ベートーヴェンが重い病に伏し、ついに3月末に死去しました。シューベルトはベートーヴェンの葬儀でその棺をかついだということです。

その後シューベルトは歌曲集 《冬の旅 D911》 第二部の作曲に着手しました。

《冬の旅》と 《白鳥の歌》

 《冬の旅》  1828年は、シューベルトの短い生涯が終わる年となりました。シューベルトは迫り来る死神を押し退けるようにして次々と傑作を世に送りました。

春には長期間にわたって手がけてきた交響曲D944( 《大ハ長調》 とよばれる)を完成させました。また、最初で最後となった自作曲演奏会をウィーン楽友協会で開催し、成功を収めました。

夏にはシューベルトら3人の詩人の作品による歌曲集 《白鳥の歌》 の作曲をはじめました。

このころ体調が悪くなり、カールス教会の近くの兄フェルディナント宅で暮らすようになりました。

 10月の末、シューベルトは魚料理を食べたのち、重い病にかかりました。病名は腸チフスだったといわれます。病に伏しながら、シューベルトは残る体力を振り絞ってようやく歌曲集 《冬の旅 D911》 を完成させました。

11月14日、見舞いにきた友人たちが前年に亡くなったベートーヴェンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131を演奏してくれました。ベートーヴェン後期の傑作として名高いこの曲を、病床のシューベルトは涙をこぼして聴いたことでしょう。

その後病はさらに篤くなり、シューベルトはベッドから起き上がれなくなりました。高熱のなかでときどきうわごとをいう状態がつづいたのち、11月19日、ついにフランツ・シューベルトはこの世を去りました。享年31歳でした。

シューベルトの墓

 シューベルトが兄フェルディナント宅での死んだ後、近くの聖ヨーゼフ教会で葬儀が行われ、その後、シューベルトの遺体は7kmほど西にあったヴェーリング墓地に葬られました。
前年に没したベートーヴェンはこのヴェーリング墓地に埋葬されました。シューベルトはかねてよりベートーヴェンの墓のとなりに埋葬してほしいといっていたので、その希望通り、シューベルトの遺体をここに移送したとのことです。

その後ウィーンでは市街地の整備・再開発が進み、ベートーヴェンら大音楽家の墓は中央墓地32Aという区画に集められることになりました。

シューベルトの墓 ヴェーリング墓地でベートーヴェンのとなりに眠っていたシューベルトの墓も、ベートーヴェンの墓と同時にこの中央墓地に移され、やはりベートーヴェンの墓の近くに改葬されました。

俳人与謝蕪村は、生前から敬慕する松尾芭蕉の墓の隣に葬られるのを熱望し、死後希望通りに京都金福寺にある芭蕉塚の横の墓に入りました。
シューベルトも、蕪村と同じく希望通りに敬慕する大先輩の近くの墓に入ったことになります。

私どもは9月のはじめ、秋色が深くなった中央墓地を訪れました。シューベルトの墓碑にはミューズの女神がシューベルトの頭に月桂冠を載せるレリーフが彫られていました。墓前には世界中の音楽愛好者たちが捧げた花が置かれていました。

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