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五味康祐の遺品

手恷。虫  漫画家手恷。虫は1928年(昭和3年)に大阪府豊中市に生まれました。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業後、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しました。

幼少時から絵画に天分を発揮し、やがて漫画を描くようになりました。1947年、酒井七馬の原案により描いた 『新寶島』 がベストセラーとなりました。

その後、1950年から1952年にかけて 『ジャングル大帝』 、 『鉄腕アトム』 を書きました。その後上京し、東京都新宿区四谷に下宿して多数の漫画を雑誌に連載しました。

少年治虫と音楽

 少年時代の手恷。虫が絵画・漫画と並んで熱中したのが、クラシック音楽でした。若いころから音楽好きだった父のもと、手塚一家は皆子供のころから音楽に傾倒しました。実妹宇都美奈子氏は、音大卒業後、ピアニストとして演奏や後進の指導をしています。

少年治虫も、母からピアノの指導を受けただけでその後正式な音楽教育を受けないにもかかわらず、ピアノやアコーディオンを上手に弾きこなしました。
大阪豊中市の自宅には父が集めた音楽レコードが多数あったので、少年治虫はクラシック音楽を始め、世界のさまざまな音楽にふれることができました。

手怩ウんは、「LPレコードが普及し始めた頃から音楽を聴かないと仕事ができない習慣になった」と語っており、多数のレコードを収集したようです。

トキワ荘時代

トキワ荘  漫画雑誌の連載で多忙となった手怩ヘ、上記のように上京して新宿区四谷の八百屋の二階に下宿しましたが、その後、漫画雑誌社の斡旋で当時豊島区南長崎三丁目に新築されたばかりであったアパート トキワ荘に転居しました。

左の写真は後に作られたトキワ荘の模型で、手怩ウんが住んでいた二階には外階段であがる造りになっていました。
このアパートで手怩ウんは 『鉄腕アトム』 、 『リボンの騎士』 などの傑作を描きました。手怩ウんがここにいたのはわずか1年でしたが、その間に、新進漫画家の声価を確固たるものにしました。

手怩ウんは、このトキワ荘でもラジオの電源を入れ放しにして音楽放送を聴きながら漫画の制作に励んだということです。1954年10月、手怩ウんはトキワ荘を離れ、豊島区雑司が谷の並木ハウスに転居しました。

手怩ウんがいなくなった後、また漫画雑誌社の斡旋で漫画家のタマゴたちがトキワ荘に次々に入居し、トキワ荘は新進漫画家の聖地といわれるようになりました。

アニメーションの制作

 さて、手怩ウんには、漫画を描き始めたころから抱いていた夢がありました。それは、当時は「漫画映画」と呼ばれていた漫画アニメーションを制作することでした。

太平洋戦争終了後、アメリカのディズニー映画など海外の優れたアニメーション作品が日本で上映されるようになりました。1950年に公開された 《白雪姫》 、1951年公開の 《バンビ》 、1953年公開の 《シンデレラ》 、 《不思議の国のアリス》 などのディズニー映画は、敗戦から立ち直りつつあった日本で大ヒットとなりました。

西遊記 それらを目にした手怩ウんは、少年時代から抱いていたアニメーション制作の夢をさらに膨らませたことでしょう。

そのころ、日本の大手映画会社でもアニメーションを制作する動きが出てきました。1958年、練馬区東大泉町にあった東映動画から手怩ウんの漫画 「僕のそんごくう」 を元にした劇場用カラー漫画映画 《西遊記》 の制作依頼がありました。

 手怩ウんとしてはついにチャンス到来となり、東映動画の嘱託社員になってアニメーション制作に熱中しました。カラー漫画映画 《西遊記》 は1960年に完成公開され、大好評を博して海外でもヴェニス映画特別大賞を受賞しました。

虫プロダクション

 漫画映画 《西遊記》 の成功に力を得て、手怩ウんは1961年に「株式会社虫プロダクション」を創設し、自宅の庭に作った建物でアニメーション作品の制作を開始しました。

鉄腕アトム 手怩ウんがまず手がけたのは、自分の漫画作品で抜群の人気を誇る 『鉄腕アトム』 のアニメーションでした。

1963年1月1日から虫プロダクション制作のテレビアニメ 《鉄腕アトム》 が毎週30分枠で放送を開始しました。

当時はまだカラーテレビ受像機がそれほど普及していなかったので、アニメ 《鉄腕アトム》 はモノクロ作品で制作されました。

テレビアニメ 《鉄腕アトム》 は、視聴者のお茶の間で子供たちの大人気を得て4年間、193話にわたって放映されました。さらに、テレビアニメ 《鉄腕アトム》 はアメリカをはじめ海外にも輸出され、好評を博しました。

当初は経営が苦しかった虫プロダクションも、 《鉄腕アトム》 が世界的に大ヒットすると莫大な利益が上がるようになりました。虫プロダクションの社員も急速に増加し、最盛期には社員数が550名にも達したそうです。

『クラシック音楽館』

 これらアニメーション映画の制作を通じて、手怩ウんは音楽との係わり合いをさらに深めて行くことになりました。その様子は手怩ウん没後の2008年に出版された 『手塚治虫クラシック音楽館』 という書籍中に詳しく記述されています。

この本の内容は、半分ほどは手怩ウんの音楽関係のエッセイや漫画を編集したものです。残りの部分は、手怩ウんのもとで長年月にわたりアニメーションの制作に携わった小林準治さんが書いています。小林さんが描いたと思われるイラストも随所に挿入されています。

同書の「第五楽章」というところに手怩ウんのエッセイが掲載されていますが、その中に 『ブラームスからアトムマーチへ』 というエッセイがあります。その文中で手怩ウんはアニメーションと音楽について次のように述べています。
動画は、音楽や音響効果なしでは考えられない。ラッシュという、音抜きフィルムを見た者ならばはっきりとそれがわかるのだ。絵が動くだけのマンガ映画はなんとも味気ないものである。
前記のように、手怩ウんは青年時代にアメリカ・ディズニー映画を観て大いに感激したのが後のアニメーション映画制作の原動力になりました。
音楽に精通していた手怩ウんは、ディズニー映画のアニメとともに演奏される音楽がすばらしい効果を発揮するのに心底から感動したのでしょう。そして、自分のアニメーション映画にもディズニー映画の音楽に負けない優れた音楽をつけようと誓ったに違いありません。

鉄腕アトムマーチ

  上記 『ブラームスからアトムマーチへ』 というエッセイの中で、手怩ウんはテレビアニメ 《鉄腕アトム》 につけた音楽について次のように語っています。
鉄腕アトムを最初に "試作品(パイロットフィルム)" として作ったとき、音楽としては実はリカルド・サントスの 《ホリデイ・イン・ニューヨーク》 のレコードを使用した。奇妙なことに、これが鉄腕アトムのムードにぴったりあった。

        中略

僕は作曲家の高井達雄氏に 《ホリデイ・イン・ニューヨーク》 のレコードを聴いてもらい、これに雰囲気がそっくりでオリジナルなものを作ってもらいたいと頼んだ。そして出来あがったのがあのアトムのマーチである。曲はおかげさまでヒットした。リカルド・サントスなんかとはまったく似ていない。

鉄腕アトムマーチ  高井さんが作曲した音楽は、手怩ウんのイメージとは少し異なったかもしれませんが、明快なメロディーと力強いリズムを持つマーチの傑作でした。
毎週の鉄腕アトムの放映日、子供たちはこのアトムマーチがテレビから流れるのを聞き、テレビの前に座って鉄腕アトムの画面に見入りました。

やがて、 《鉄腕アトムマーチ》 は吹奏楽版の行進曲に編曲され、日本中の学校などの吹奏楽団で演奏されるようになりました。
部活の吹奏楽団などで、運動会や高校野球の入場行進の際にこのマーチを演奏した経験がある方も多いことでしょう。

アニメ 《ジャングル大帝》

ジャングル大帝  手怩ウんの漫画 『ジャングル大帝』 は、上京する前の1950年ごろから書き始めたもので、手怩ウんがごく初期から手がけてきた作品の一つです。

上記テレビアニメ 《鉄腕アトム》 に続き、この 『ジャングル大帝』 を原作としたテレビアニメシリーズが1965年から放送を開始しました。

当時アメリカではカラーテレビの普及が進んだため、モノクロのテレビアニメ 《鉄腕アトム》 はもう売れなくなっていました。そこで 《ジャングル大帝》 は最初からアメリカへの輸出を意図して日本初のカラーテレビアニメとして制作されました。

冨田勲  テレビアニメ 《鉄腕アトム》 の音楽が大成功した経験から、手怩ウんはアニメ 《ジャングル大帝》 にも世界に誇れる音楽をつけようと考えました。

音楽の作曲は、音響監督からの推薦で当時非常に評判の高かった冨田勲さんに依頼することになりました。冨田さんは手怩ウんより4歳若く当時30歳代の初めでしたが、すでに映画音楽、テレビ番組の音楽などで優れた業績をあげていました。

冨田さんというと私どもはシンセサイザの作曲家と思いますが、冨田さんがシンセサイザに出合って作曲を始めるのは1970年以降のことです。

従って、アニメ 《ジャングル大帝》 の音楽は従来からのオーケストラを使ったものでした。

アニメ 《ジャングル大帝》 は、アニメ版のミュージカルのような構成をとり、一話ごとにアニメ画面に合わせて新たに作曲、録音をしたということです。作曲者冨田さんのご苦労は大変なものだったと想像されます。その甲斐があって、アニメ 《ジャングル大帝》 の音楽は非常に好評で、アメリカに輸出した際も絶賛されたそうです。

アニメ 《火の鳥2772》

 1967年、手怩ウんはかねてより構想を練っていた長編漫画 『火の鳥』 の雑誌連載を開始しました;。過去、現在、未来を行き来するという火の鳥(不死鳥)を中心にした物語で、手怩ウんの晩年にいたるまで映画、アニメ、ラジオドラマ、ビデオゲームなどさまざまなジャンルで継続され、手怩ウんのライフワークの一つになりました。

火の鳥2772  1980年、長編漫画 『火の鳥』 をもとに手塚さんの原案・構成・総監督により劇場用アニメーション映画 《火の鳥2772》 が制作・公開されました。

長編漫画 『火の鳥』 の未来を描いた編をさらに発展させたSFアニメーションで、宇宙ハンターとして成長したゴドー・シンゴが伝説の火の鳥を捕まえ、地球を救うべくはるか広大な宇宙へ飛び立つストーリーになっています。

この作品でも手塚さんはアメリカのSF映画に負けない壮麗な音楽をつけようと想を練りました。たまたま作曲家樋口康雄の作品を演奏会で聴き、 《火の鳥2772》 の音楽を樋口さんに依頼しました。

手塚さんは、その少し前にアメリカのSF映画 《スターウォーズ》 を見てクラシックなおもむきのある音楽に感銘を受けたそうです。作曲家樋口さんは、手塚さんの希望を受けて弦楽器と木管楽器を中心にすえた静穏なBGMを創作しました。

当時、ヴァイオリニスト千住真理子さんが国際的に活躍し始め、アメリカでの評価も高まっていました。樋口さんは、 《火の鳥2772》 の音楽はその千住真理子さんをソリストとしてヴァイオリン協奏曲のスタイルで構築しました。

当時17歳だった千住真理子さんの演奏は人間の声によるナレーションを思わせるデリケートさに満ちており、 《火の鳥2772》 のアメリカでの公開の際に大好評を博したそうです。

漫画 『ルードウィヒ・B』

ベートーヴェン  前記 『手塚治虫クラシック音楽館』 には手怩ウんがクラシックの大作曲家について書いたエッセイが9編掲載されています。

その中に 『ベートーヴェンの部屋』 というエッセイがありますが、これは手怩ウんがウィーンに行き、ベートーヴェンが1814年ごろ住んでいた部屋を訪問したときの話です。左下の写真は、手怩ウんがその部屋でベートーヴェンが使用していたピアノの前に座ったのを撮影したものです。

『手塚治虫クラシック音楽館』 には共同執筆者小林準治さんが 『手塚治虫とベートーヴェン』 という章も書いています。

ベートーヴェン その中で小林さんは次のように語っています。
クラシックのあらゆる音楽を愛好した手塚治虫だったが、なかでもとりわけ尊敬していたのがやはりベートーヴェンであったと思われる。

確認したことはないけれど、手塚のなかではベートーヴェンは神に近いような人だったのではないかと思う。
手怩ウんは自分の作品中にベートーヴェンを5回も登場させていると小林さんは述べています。

その手怩ウんは、最晩年の1987年6月からついにベートーヴェンの伝記を題材にした長編漫画 『ルードウィヒ・B』 の連載を開始しました。ベートーヴェンの生涯をボンで過ごした少年時代からほぼ史実にそって書き進めるつもりだったようです。

しかし、連載開始から1年あまりがたったころ、手怩ウんは胃痛に悩むようになり、入院した病院で胃がんと診断されました。病気が進行するなか、手怩ウんは 『ルードウィヒ・B』 を執念をもって継続しましたが、ついに1989年2月にこの世を去りました。享年60歳でした。

音楽劇 『ルードウィヒ・B』

漫画  『ルードウィヒ・B』  手怩ウんの逝去により、長編漫画 『ルードウィヒ・B』 は1989年2月号の連載をもって最後となりました。その号はベートーヴェンが20歳ころのストーリーだったそうです。
ベートーヴェンは1792年11月、22歳のときウィーンに出てきて作曲家ハイドンに弟子入りしました。したがって手怩ウんはその少し前、ベートーヴェンがまだボンにいたころまで 『ルードウィヒ・B』 のストーリーを書き進めたのでしょう。

ベートーヴェンはウィーンに出てきてから3年近く経った1795年、3つのピアノソナタからなる作品2を完成し、師ハイドンに献呈しました。

このころからベートーヴェンはそれまでにはなかったスケールの大きい構築的な作風を確立し、その後音楽家として大飛躍する基礎を固めました。

手怩ウんの長編漫画 『ルードウィヒ・B』 が、ベートーヴェンがいよいよ本領を発揮したその時期を描くことなく未完に終わったのは、世界の手恷。虫ファンにとっても、またベートーヴェンファンにとっても大変残念なことです。

このたび、漫画 『ルードウィヒ・B』 をもとに

       《ルードウィヒ・B 〜ベートーヴェン 歓喜のうた〜》

という音楽劇がつくられ、2014年の11月から上演されることになりました。音楽劇の内容は、未完に終わった漫画 『ルードウィヒ・B』 にベートーヴェン後期の中心である交響曲第9番「合唱付き」にいたるストーリーを追加したものだそうです。

同音楽劇の音楽監督は、作曲家・音楽プロデューサーの千住明さんが担当します。千住明さんは34年前に手怩ウんの劇場用アニメーション映画 《火の鳥2772》 の音楽でヴァイオリン・ソロを演奏した千住真理子さんのお兄さんです。

手怩ウんが終生もっていたベートーヴェンへの思いが、手怩ウんに縁があるヴァイオリニスト千住真理子さんのお兄さんである千住明さんによってどのように音楽で表現されるか、手恷。虫ファン、ベートーヴェンファンの皆さんが楽しみにして待っています。

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