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オスマントルコ軍楽

 最近、インターネットの動画サイトでオスマントルコ軍楽隊の演奏を目にしました。現在のオーケストラのティンパニに似た形状の大太鼓を前面に置き、その背後のトランペットのような金管楽器、オーボエに似た木管楽器でメロディーを演奏します。そして大太鼓とシンバルなど打楽器を盛んに打ち鳴らしてリズムをとる大変勇壮な音楽でした。

この演奏を聴いて、昔、「阿修羅のごとく」というテレビドラマでこの曲をテーマ音楽に使っていたのを思い出しました。調べると、このテレビドラマは向田邦子脚本で1979年〜1980年にNHK総合テレビで放送され、四姉妹とその父母をめぐる秘め事、隠し事を描いたものとのことでした。阿修羅とは仏教の守護神の一人で、闘争的な性格から人と畜生の間に位置するということです。四姉妹の内面の葛藤を阿修羅にたとえたということでしょうか。

私は当時このテレビドラマはほとんど見ませんでしたが、テーマ音楽のトルコ軍樂は「三歩進んで一歩さがる」という独特のリズムで強く印象に残りました。

オスマン帝国とは

オスマン帝国  小アジア西北部に勢力を持っていたイスラム部族オスマン家は、14世紀に入って領土を拡大し、ヨーロッパ諸国が聖地防衛のために派遣した十字軍を撃破しました。

15世紀以降、オスマン軍は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルをたびたび攻撃しましたが、1453年、オスマン軍はついにコンスタンティノープルを陥落させ、イスタンブールと名付けました。

以降オスマン帝国はイスタンブールを首都とし、そこから大軍を発してヨーロッパ諸国を脅かすようになりました。オスマン帝国軍は、1526年8月にハンガリー軍を撃破し、1529年9月からウィーンを包囲しました。

これをオスマン帝国軍の第一次ウィーン包囲と呼びます。しかし、ウィーンは当時から堅固な城壁を周囲にめぐらせていて、度重なるオスマン帝国軍の猛攻を耐えしのぎました。
やがて冬が近くなると、オスマン帝国軍はウィーンの厳しい寒さをしのぐ装備を持っていなかったので、10月にはウィーン攻略を断念してトルコに軍を引きました。

第二次ウィーン包囲

 17世紀に入るとオスマン帝国は一段と強盛になり、地中海世界の半分以上とウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアなど東ヨーロッパ諸国も支配下に収めるに至りました。

1683年、オスマン帝国は150年前には不成功に終わったウィーン攻略に再び乗り出しました。15万のオスマン帝国軍はハハンガリーからオーストリアに進撃し、現在では映画 《第三の男》 で有名になったプラーターの森まで押し寄せました。
この時期にはウィーンの城壁はさらに強化されていましたが、オスマン帝国軍は地下道を掘って侵入し、城壁の一部を占拠したということです。

ウィーンが陥落の一歩手前の危機に立ったとき、ようやくオーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍が到着し、ウィーン郊外カーレンベルクの丘に集結しました。

第二次ウィーン包囲 ヨーロッパ連合軍がウィーンを包囲しているオスマン帝国軍の背後を突いたので、オスマン帝国軍はやむなくウィーン包囲を解き、東方に向けて退却しました。

こうして、1529年の第一次ウィーン包囲に続き、今回もウィーンは強大なオスマン帝国軍の大攻勢をかろうじてしのぎ切ることができました。

ウィーン防衛戦の立役者は、フランスから援軍としてやってきた若きプリンツ・オイゲンでした。1694年にオーストリア軍総司令官に抜擢されたオイゲン公は、1697年、「ゼンタの戦い」でオスマン・トルコ軍を撃破し、ヨーロッパをイスラム勢力の侵略から救ったのです。

上の写真のベルベデーレ宮殿は、その救国の英雄オイゲン公が建設したものです。宮殿の中の天井画は、オイゲン公の対トルコ戦争勝利をテーマとして描かれています。

トルコ軍楽隊

 トルコ軍楽隊の歴史は8世紀ごろにさかのぼるとされますが、1453年のビザンチン攻略以降はオスマン帝国軍には欠くべからざる組織になり、軍楽隊の編成も明確になりました。
オスマントルコ軍楽の主な使用楽器は、次の通りです。
  • ズルナ

    西洋楽器のオーボエに似たリード管楽器で、大小2種類があります。チャルメラのような脈動感のある大きな音を出します。

  • ボル

    西洋楽器のトランペットに似た金管楽器で、するどい高い音を出します。現在ではバルブのある西洋楽器のトランペットが用いられます。

  • ケス

    大きな鍋のような形状の胴体に皮を張った大太鼓で、現在西洋のオーケストラに使われている打楽器ティンパニの原型とされます。これを小型化した「ナッカーレ」という打楽器といっしょに使われます。

  • ダウル

    両面に皮を張った大太鼓です。西洋楽器の大太鼓に似ていますが、ダウルはそれより小型で、演奏者が左手で持って右手の撥で叩きながら行進します。

  • ジル

    大型のシンバルです。現在西洋のオーケストラに使われている打楽器シンバルは、この楽器から発展しました。

トルコ軍楽隊  オスマン帝国の軍隊は、メフテルハーネと呼ばれる独特の軍楽隊の勇壮な音楽に乗って敵軍に向かって行進しました。

1529年9月、1683年7月の二度に渡るウィーン包囲の戦いでもやはりこのトルコ軍楽隊が軍隊を先導して行進し、城壁の中に立てこもるウィーンの人々を震え上がらせました。 

それまで見たこともない上記のような楽器を使ってエクゾティックなメロディを強烈なリズムで奏でながら迫ってくるトルコ軍楽隊は、城壁の内部で見つめるウィーンの人々にはまさに地獄の音楽に聞こえたことでしょう。

トルコ・ブーム起こる

 18世紀にはいるとオスマン帝国の勢力が衰え始めたこともあり、1718年にヨーロッパ諸国とオスマン帝国との間で和平条約が締結されました。その後のヨーロッパ諸国には、戦争を通じて知られるようになったオスマン帝国の文化・風物に対する関心が広まりました。

まずトルコ軍楽隊は、その勇壮な音楽で自軍の将卒を鼓舞し、敵軍に脅威を与える効果が認められ、ヨーロッパ諸国の軍隊に導入されて行きました。オスマン帝国から完全編成のトルコ軍楽隊が相手国に提供された例も多かったということです。
やがて、かつてオスマン帝国軍のトルコ軍楽隊の演奏を怖気をふるいながら聞いたオーストリアも、自分のトルコ軍楽隊を編成して折に触れ演奏させるようになったそうです。

トルコ・コーヒー 軍楽隊についでオスマン帝国からヨーロッパ諸国に伝わったのは、トルコの伝統的嗜好飲料コーヒーでした。上記第2次トルコ戦争でウィーンを包囲したオスマン帝国軍が撤退した後に、トルコ兵たちが日ごろ飲んでいたコーヒー豆の袋が多数残されていました。

それらのコーヒー豆を見つけてためしに飲んでみたウィーン市民は、やがてコーヒーが大好きとなり、現在ではウィーンの街中いたるところにカフェがあります。
コーヒーはその後他のヨーロッパ諸国にも伝わり、現在ではイギリスを除くほとんどの国々でもっとも愛好される飲料になりました。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 西洋音楽の父といわれる大作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1683年の第二次ウィーン包囲の2年後にドイツ中部で生まれました。

バッハが30歳を越えた時期には、ドイツの音楽界にもトルコ軍楽の影響が濃くなってきました。
バッハは35歳ごろ多数の「世俗器楽曲」を作曲しましたが、それらの中に 《G線上のアリア》 で有名な 《組曲第3番》 があります。この作品は、当時のトルコ軍楽ブームを反映してティンパニやトランペットを含む構成になっており、バッハはそれら新しい楽器を生かしてダイナミックな音楽を創造するのに成功しました。

また、バッハはライプツィヒにいた1732年ごろ 《コーヒー・カンタータ》 という世俗カンタータを作曲しました。これは、当時トルコから伝えられて大流行したコーヒーのことばかり考えている若い娘をテーマとした10曲からなる喜劇的な歌物語です。
当時ライプツィヒではコーヒー店が大人気になっていましたが、このカンタータはそれらコーヒー店の中の舞台や庭で盛んに演奏されたということです。

モーツアルトとトルコ音楽

モーツァルト  大作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、第二次ウィーン包囲の73年後の1756年にオーストリア西部のザルツブルクで生まれました。

この時代にはヨーロッパ諸国のトルコ音楽ブームはバッハの時代よりさらに高くなっており、モーツァルトの作曲活動にも大きな影響をあたえました。

モーツァルトは、1775年、19歳のときヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K.219を作曲しましたが、その曲の第3楽章にはトルコ風の行進曲が挿入されていることから、「トルコ風」という名で呼ばれています。

1783年ごろ、モーツァルトはピアノ・ソナタ11番イ長調K331/300iを作曲しました。この作品の第3楽章はトルコ行進曲風のロンドになっているため、この曲は通常 《トルコ行進曲付き》と呼ばれます。 1783年が第二次ウィーン包囲から100年目にあたるので、モーツァルトはトルコ行進曲を組み入れたこの曲を作ったという説があるそうです。
この時代には、トルコ音楽ブームに乗って「シンバルつきのビアノ」が製造されたということです。ビアノ演奏者が専用のペダルを踏むとそのシンバルが鳴り、トルコ軍楽らしい響きを聴衆に感じさせたそうです。

後宮からの誘拐 また、モーツァルトは得意のオペラでもトルコをテーマとした作品を作りました。1782年に完成したオペラ 《後宮からの誘拐》 は、主人公ベルモンテが、召使ペドリッロに助けられて、トルコ人の太守セリムの後宮に囚われの身になっている恋人コンスタンツェを救い出すというストーリーです。

オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の依頼により作曲されたもので、ウィーンのブルク劇場で初演され大成功を収めました。オーストリア皇帝がトルコもののオペラを作らせ、お膝元の劇場で初演させたということから、当時のトルコ音楽人気がわかります。

ベートーヴェンとトルコ音楽

ベートーヴェン  大作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、第二次ウィーン包囲の87年後に当る1770年に現ドイツ南部のボンで生まれました。
ヨーロッパ諸国のトルコ音楽ブームはこの時代にも続いており、ベートーヴェンもトルコ音楽の影響を受けた作品を何曲か残しています。

ベートーヴェンは、1809年に作曲した 《6つの変奏曲Op76》 というピアノ曲の中にトルコ音楽風の行進曲を挿入しました。その曲は、1812年に作曲した劇付随音楽 《アテネの廃墟》 にオーケストラ作品 《トルコ行進曲》 として転用されました。

ベートーヴェン中期の大作交響曲第3番にも、トルコ音楽の影響が見られます。この交響曲の第4楽章は自作のバレエ舞曲 《プロメテウスの創造物》 からの主題と10の変奏曲で構成されていますが、その中に付点のリズムを持つ力強い行進曲があります。そのエクゾティックな曲調は、当時流行のトルコ軍楽を取り入れたものとされます。

ベートーヴェン後期の傑作 《第九交響曲》 終楽章には、トルコ風の音楽が挿入されています。「歓喜に寄す」の独唱・合唱が第3節まで進んでから休止した後、ファゴットとコントラファゴットに先導されて「第九のトルコマーチ」と呼ばれる行進曲が始まります。フルートとピッコロがメロディを奏で、テノールのソロがそれに加わります。やがて、ティンパニ、シンバル、トライアングルが加わって行進曲を盛りたてて行きます。

その他の作曲家

  • ヨーゼフ・ハイドン

      交響曲の父といわれる作曲家ヨーゼフ・ハイドンは、第二次ウィーン包囲の49年後の1732年にハンガリーとの国境に近いオーストリア東部で生まれました。
    ハイドンが晩年の1794年に作曲した交響曲第100番 《軍隊》 の中には、トルコ軍楽風にティンパニ、シンバルなどの打楽器やトランペットを使った行進曲が挿入されています。

  • カール・ウェーバー

    作曲家カール・ウェーバーは、第二次ウィーン包囲の103年後の1786年にドイツ北部のリューベックで生まれました。 ウェーバーが晩年1826年に作曲したオペラ 《オベロン》 の第1幕フィナーレでは、舞台の上でトルコ軍楽隊がにぎやかに楽器を鳴らしながら行進するということです(私はこのオペラを見たことがありません)。

  • フランツ・シューベルト

    作曲家フランツ・シューベルトは、 第二次ウィーン包囲の114年後の1797年にウィーン近郊で生まれました。1818年にシューベルトはエステルハージ伯爵家のふたりの娘にピアノを教えていましたが、その練習教材として多数のピアノ連弾曲を作曲しました。
    それらの中に普通 《軍隊行進曲》 と呼ばれる作品があります。トルコ軍楽の太鼓や管楽器の音を感じさせる勇壮な音楽で、後にオーケストラ用にも編曲されました。現在では吹奏楽のためにも編曲され、吹奏楽団の主要レパートリの一つになっています。

  • ヨハン・シュトラウス2世

    ワルツ王と呼ばれる作曲家ヨハン・シュトラウス2世は、第二次ウィーン包囲の132年後の1825年にウィーン近郊で生まれました。この時代にはオスマン帝国の脅威はまったく無くなっていたので、1857年に皇帝フランツ・ヨーゼフは手狭になっていたウィーン市街を拡張するために城壁を撤去するように命じました。
    ヨハン・シュトラウス2世の作品 《取り壊しポルカ》 は、城壁撤去の工事が進行し、ウィーン市街に建設ラッシュが起こった様子を軽快な音楽で描いています。なかなかの出来の作品なので、おなじみのウィーンフィル・ニューイヤーコンサートで何度も演奏されています。

  • トルコ軍楽隊の演奏

     第一次世界大戦の敗北によりオスマン帝国は解体され、やがてトルコ共和国が建国されました。その後、トルコ軍楽隊は一時廃絶されましたが、1952年になってトルコ民族の音楽遺産として再興されました。現在では、首都イスタンブールにある軍事博物館で毎日トルコ軍楽隊の演奏が行われ、世界中から来た観光客の人気を呼んでいるということです。

    トルコ軍楽隊の演奏

    小アジアは、アレクサンダー大王の遠征でもわかるように、古来 「東西文明の十字路」 と呼ばれた地域です。前記のように、オスマン帝国は15世紀に東ローマ帝国を攻め滅ぼし、その首都コンスタンティノープルをイスタンブールと名付けました。以来イスタンブールはイスラム国家オスマン帝国の首都となりましたが、東ローマ帝国の国教であった東方正教の跡が現在でもこの都市の方々に残っているということです。
    私は、かねてよりその古都イスタンブールを訪れたいと願っています。そしてイスタンブールに行ったら、ぜひ上記軍事博物館で名物のトルコ軍楽隊の演奏を観たいと思います。

    現在のトルコ共和国は日本とは古くから友好関係にあり、本場のトルコ軍楽隊がときどき日本の各地を訪れて演奏活動をしているそうです。我が家の近くの東京・渋谷にも来たことがあるようですが、残念ながらそのときは私は気がつきませんでした。
    本場のトルコ軍楽隊が次回東京の近くに来たら、私はさっそくその会場に行って生演奏を観せてもらおうと思います。

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