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ジュール・ヴェルヌ

ジュール・ヴェルヌ  フランスの作家ジュール・ヴェルヌは、1828年にフランス西部ロワール地方の港町ナントで生まれました。少年時代、ヴェルヌは港に出入りする交易船を眺め、船乗りたちの話を聞いて、まだ見ぬ外国への夢を膨らませたということです。

父が弁護士だったため、ヴェルヌはそのあとを継ぐべくパリの法律学校に進学しました。そのパリで、ヴェルヌはさまざまな分野の芸術家や科学者と交流するようになりました。
それらの中に、当時「パリの王様」と呼ばれたアレクサンドル・デュマ(大デュマ)とその息子でやはり作家のデュマ・フィスがいました。

1948年の二月革命によってルイ・フィリップの七月王政が打倒された後、ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオンが権力を握って皇帝となりナポレオン3世と称しました。
このころイギリスで始まった産業革命がフランスに波及して製造事業が盛んになり、大資本家、工業経営者などを中心とするブルジョワ社会が形成されてきました。

首都パリでは、治安確保のためもあって、ナポレオン三世の意を受けたオスマン男爵によって大規模な市街改造が断行されました。また、パリを中心として各方面への鉄道が相次いで敷設され、首都パリとその近郊の拡大が続きました。

産業の拡大と大公共工事により、ナポレオン三世治下の第二帝政時代にはかつて日本にもあったバブルが発生しました。そのバブルは1870年に勃発した普仏戦争でフランスが大敗北を喫したことで終焉し、フランスの社会は宴のあとの静穏状態になりました。

科学技術の大進歩

蒸気機関車  19世紀には科学史上重要な研究が多数行われ、それらが相次いで人類にとって有用な技術として実用化されました。

18世紀中ごろにジェームズ・ワットらによって開発された蒸気機関をもとに、1803年に世界初の蒸気機関車が完成しました。1825年には、G・スティブンソンが長距離でも走行できる本格的なSLを製作しました。

蒸気機関を船舶の動力とする努力が方々で行われ、アメリカのロバート・フルトンが1809年に外輪式蒸気船を開発して商業的運行を始めました。
1830年代には外輪式蒸気船によって大西洋横断航海が行われるようになりました。

19世紀前半には、電磁気学の領域で画期的な研究が相次いで行われました。

電信機 それらをもとに、イギリスのウィリアム・クック、チャールズ・ホイートストンが1837年に電信機を開発しました。同じころ、アメリカではサミュエル・モールスとアルフレッド・ヴェイルがモールス符号を使った電信システムを開発しました。

1866年には大西洋横断電信ケーブルが開通し、それに続いてパリ、ロンドンなどヨーロッパの主要都市とアメリカ、アジアなどとの間の電信が可能になりました。

『気球に乗って五週間』

 19世紀後半、ヴェルヌが作家への道を歩み始めたころは、上記のように科学技術の進歩がめざましく、鉄道、蒸気船、電信などの新技術が世界中に普及しつつありました。
生来好奇心が旺盛であったヴェルヌが当時日進月歩を続ける科学技術に深い関心を抱いたのは当然のことだったでしょう。

気球に乗って ヴェルヌの友人にフェリックス・ナダールという写真家がいました。ナダールは1860年ごろから熱気球の開発に乗り出し、高さ40メートルの巨大熱気球を製作して飛行実験を行いました。

ヴェルヌはがその熱気球からヒントを得て、1863年に冒険小説 『気球に乗って五週間』 を発表しました。これはヴェルヌの最初の冒険小説 であり、当時の自然科学に憧れる風潮に乗って大人気を博したということです。

この作品で一躍流行作家となったヴェルヌは、その後出版社と契約を結んでさまざまなテーマの科学・冒険小説を発表しました。

『80日間世界一周』

 上記 『気球に乗って五週間』 の翌年、ヴェルヌは同じく科学冒険小説の 『地底旅行』 を刊行し、さらに1865年には有名な 『月世界旅行』 を世に送りました。

その5年後の1870年にはヴェルヌは 『海底二万里』 を出版しました。進歩主義者であったヴェルヌはあらゆる戦争に反対する平和主義者でもあり、また帝国主義によって虐げられた民族を擁護する論陣を張っていました。 『海底二万里』 は、科学冒険小説であるのにとどまらず、ヴェルヌの平和主義、民族解放などの思想も盛り込んだ作品になっています。

その3年後、1873年にヴェルヌは代表作となった 『80日間世界一周』 を発表しました。

 『80日間世界一周』 イギリスは1858年にインド・ムガール帝国を廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を発足させました。また、1869年には地中海と紅海を接続するスエズ運河が開通し、ヨーロッパとアジア諸国との間の航行日数が大幅に短縮されました。

ヴェルヌがそれまでに書いた冒険小説は、みな地底や月世界など当時の技術では実現不可能と考えられていた場所への旅行記が中心になっていました。
それに対し、この 『八十日間世界一周』 は、小説中で主人公が語っている通り、当時の汽船、交通機関、電信網を利用しても十分実現の可能性があるものでした。ヴェルヌは、ストーリーに世界一周の途中経由して行く国々の実情や国民性なども盛り込んでなかなか面白く仕立てています。

世界一周のコース

  『八十日間世界一周』 は、小説が発表されたと同じ時期の1872年10月に時代設定されています。当時イギリスはヴィクトリア女王治世の後期にあり、「7つの海に覇をとなえる」といわれた世界帝国になっていました。

小説の主人公イギリス人フィリアス・フォッグは独身の資産家で、毎日ロンドンの紳士クラブ「リフォームクラブ」に行って仲間たちとトランプゲームに熱中していました。
ある日、フォッグはリフォームクラブで「英領インド帝国に新たに鉄道が設けられた」という新聞記事を目にしました。フォッグは「その鉄道路線が開通したら、80日間で世界一周できる」と述べたところ、リフォームクラブの他の会員たちと論争になりました。

論争のあげく、ついにフォッグは自ら80日間で世界一周できるのを証明すると宣言し、その大旅行の成否に他の会員たちと大金をかけました。

フォッグは直ちに執事パスパルトゥーを伴って旅行に出立し、汽船でドーヴァー海峡を渡り、カレーから汽車でイタリア北部の港湾都市ブリンディジに行きました。
そこから汽船で地中海を渡って完工したばかりのスエズ運河を通過し、インド洋を横断してインド帝国の西岸ボンベイに着きました。

ボンベイから東海岸カルカッタまでは鉄道を利用しましたが、その鉄道がまだ工事が完了していない部分があってやむなく象に乗って進んだり、殉死させられそうになった土地の女性アウダ姫を救出したりというストーリーが挿入されています。

世界一周 1

インド東海岸カルカッタから汽船に乗り、マラッカ海峡、シンガポールを経て香港に着きました。香港では横浜行きの汽船に乗り遅れてピンチになりましたが、幸いわずか20トンの小型スクーナーをチャーターして上海に行き、そこで横浜行きの汽船に乗ることができました。

ようやく着いた横浜で一時離ればなれになった執事パスパルトゥーを見つけ、いっしょに太平洋を横断する外輪汽船に乗ってアメリカ西海岸サンフランシスコを目指しました。

サンフランシスコに上陸した後、フォッグ一行は3年前に開通したばかりのアメリカ大陸横断鉄道に乗り、アメリカ東海岸ニューヨークに向かいました。
途中西部でインディアンの襲撃を受けるというハップニングがありましたが、なんとか遅れを取り戻し、オマハ、シカゴ経由でニューヨークに着きました。ところがニューヨークで乗る予定の汽船がなぜか予定より早くニューヨークを出港していたのです。

そこで、フォッグはニューヨーク港で出港準備中だった石材運搬船ヘンリエッタ号を大金で買収し、行き先をフランス・ボルドーからイギリス・リヴァプールに変更させました。出港時は空荷だったヘンリエッタ号は、客船を上回る時速12ノットで大西洋を横断し始めました。

世界一周 2

ところが先を急ぐあまり、ヘンリエッタ号はボイラーで石炭を焚きすぎて、積んでいた石炭をすべて使い切ってしまいました。そこで、フォッグはヘンリエッタ号を買い取り、船内の木材をすべてはがし、ボイラーで燃やしてリヴァプールに向け航行しました。

やっとの思いでアイルランドに着いたヘンリエッタ号を降りて、フォッグはダブリン経由でイギリス・リヴァプールに向かいました。ところがそこでフォッグは銀行強盗に間違えられ、税関署の留置室に拘束されてしまいました。・・・・・・・・・・。

映画 《80日間世界一周》

 小説 『80日間世界一周』 は発表後すぐに大評判となったので、2年後の1874年にジュール・ヴェルヌらの脚色でパリのサン・マルタン橋劇場で上演されました。劇の音楽は、当時オペラ作曲家として高名だったフランツ・フォン・スッペが担当したということです。

その後、1946年にはニューヨークのブロードウェイで名優オーソン・ウェルズによって上演されました。このときの劇音楽は、当時ミュージカルの作曲家として名声をはせたコール・ポーターが作曲したそうです。

映画 《80日間世界一周》 第二次世界大戦終了後、戦勝国アメリカには空前の海外旅行ブームが起こりました。その大旅行人気を追い風として、1956年にアメリカ・ハリウッドで映画 《80日間世界一周》 が制作されました。

監督はイギリス出身で戦争映画、SF映画などを得意としたマイケル・アンダーソンでした。
主人公フィリアス・フォッグ役は英国紳士役がぴったりの名優デヴィッド・ニーヴン、執事パスパルトゥー役はコメディアンのマリオ・モレノ、インド以後旅行に同行したアウダ姫役は当時22歳だったシャーリー・マクレーンが演じました。

この映画の音楽は、それまでに前年の 《エデンの東》 など幾多の名作を世に送ってきたビクター・ヤングが担当しました。

小説では前記のようにフォッグ主従はイタリア北部の港湾都市ブリンディジから汽船に乗ったと書かれていますが、映画では二人はマルセイユに向ったという筋になっています。
その途中、汽車が事故で進行しなくなったので、二人は気球を調達して空中の旅を始めました。ところがその気球は風で西方に流されてスペインに行ってしまいました。
この気球のくだりは、ヴェルヌが1863年に書いた冒険小説 『気球に乗って五週間』 の筋をとりいれたものでしょう。

この映画では多数の有名俳優たちが端役として短いカットで登場したので、観衆たちは「スターを探せ」ゲームに興ずることになりました。
酒場のシーンでは、マレーネ・ディートリッヒが自慢の脚線美を披露しました。同じく酒場のシーンで、フランク・シナトラがピアニストとして出演しました。またコメディアン バスター・キートンが車掌役で出演しました。

映画は、ハリウッドのプロデューサー マイケル・トッドが開発した「トッドAO方式」でワイドスクリーン撮影されました。観衆たちは、その大スクリーンに繰り広げられる世界の壮麗な風物と劇場に響き渡るビクター・ヤングの華麗な音楽に魅了されました。



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