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イギリス・ロンドン
 バトル・オブ・ブリテン
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バトル・オブ・ブリテン記念碑

 イギリス国会議事堂の大時計塔ビッグベンは、ロンドン観光の目玉の一つです。その写真を遠くから撮るために、ビッグベンのすぐそばにあるウェストミンスター橋を渡り、テームズ川の対岸に行きました。
写真を撮ってからからまたウェストミンスター橋に戻り、テームズ川の下流の方向を見渡すと、テームズ川の西岸になにか金色に輝くモニュメントがあるのに気がつきました。場所は、ロンドンの新名物大観覧車ロンドン・アイのテームズ川を隔てた対岸、お城のような国防省の建物の前あたりです。

ウェストミンスター橋を渡ってテームズ川の西岸をその金色のモニュメントに向かって歩いて行くと、その手前に別の横に長いモニュメントが見えてきました。そのモニュメントには横に長い褐色のレリーフ(浮彫り)がはめ込まれており、その下に "THE BATTLE OF BRITAIN" という文字が刻まれてありました。

近寄ると、レリーフの中央には、飛行服を着たパイロットが緊急出動の指令を受けて飛行機に向かって走ってゆく姿が刻まれてありました。それを見て、このモニュメントが第二次大戦の初めのころのイギリス戦闘機部隊を記念するものであるのがわかりました。

バトル・オブ・ブリテン

バトル・オブ・ブリテン
バトル・オブ・ブリテン

 1940年5月、ナチ・ドイツは、満を持してヨーロッパ西部戦線で攻撃を開始しました。

まず圧倒的に優勢な航空機兵力でその地域の制空権を奪い、次にその航空機兵力の支援のもと数千台にのぼる戦車軍団が進撃する電撃戦と呼ばれるものでした。

先端技術を投入し、全力を挙げて増強されてきたドイツ軍の攻勢には、戦争の準備が遅れたヨーロッパ西部諸国はまったく対抗できませんでした。

西部戦線で戦闘が始まってから僅か1ヶ月ほどで、オランダ、ベルギー、フランスは相次いで降伏するに至りました。

イギリスはヨーロッパ西部戦線に戦闘機ハリケーンを主体とする戦闘機部隊を派遣していましたが、1937年に制式配備されたハリケーンはドイツの新鋭戦闘機メッサーシュミットBf109に歯が立ちませんでした。
1969年に公開されたイギリス映画 《空軍大戦略》 の冒頭で、メッサーシュミットとの空中戦に敗れたハリケーン部隊の残存機がイギリスに向かって飛び立つシーンがありました。

フランスが降伏してまもなくの1940年6月18日、イギリス首相チャーチルは議会で演説を行い、「 《フランスの戦い》 は終わった。そして 《英国の戦い(バトル・オブ・ブリテン)》 がまもなく始まるであろう」と述べて、国民に団結を訴えました。

英独の航空機戦力

 バトル・オブ・ブリテンが始まる時点で、ドイツは英仏海峡沿いの基地に戦闘機・爆撃機合計で約3000機もの航空兵力を集結したとされます。
一方イギリス空軍のほうは、この時点ではわずか600機の戦闘機を保有・配備しているのみでした。それらのうち、旧型のハリケーン機が過半数を占め、後にバトル・オブ・ブリテンで勇名をはせることになる新鋭機スピットファイアはまだ数が少なかったのが実情でした。

しかも、ドイツ空軍のパイロットはスペイン内戦以来の歴戦の経験と実績を誇っていたのに対し、イギリス空軍の方は急きょ訓練を終えたばかりのパイロットが多かったのです。

世界はイギリス攻防空戦の成り行きに注目しましたが、イギリス空軍は遠からずドイツ空軍の攻勢の前に圧倒されるであろうと予想する人が大半だったそうです。

イギリスのレーダー網

 1939年9月1日、ドイツ軍はついにポーランドに侵攻を開始しました。
イギリスは直ちにドイツに宣戦布告し、同時にドイツ空軍による空爆に備えてかねてより研究してきた早期警戒用レーダー網を設置し始めました。また、そのレーダー網でキャッチされた情報に基づいて英仏海峡沿岸の空軍基地から戦闘機をスクランブル発進させてドイツ空軍機を迎撃するシステムの整備を急ぎました。
今日の言葉で言うと、早期警戒情報システムとその運用ソフトウェアの整備ということになります。このシステムは、当時のイギリス空軍大将の名前から 「防空ダウディング・システム」 と呼ばれました。

1940年7月10日の朝、英仏海峡を越えてきたドイツ空軍戦闘機Bf109Eの編隊がこのレーダー網で発見され、さっそくイギリス空軍の戦闘機スピットファイアが迎撃に出動しました。これが 「バトル・オブ・ブリテン」 の始まりとされます。

以降も防空ダウディング・システムは有効に機能し、ドイツ空軍爆撃機とそれを護衛する戦闘機が目的地に接近すると、その上空にはイギリス空軍の戦闘機編隊がすでに待ち構えていることが多かったといわれます。

このシステムにより、イギリス空軍は、少ない戦闘機を効率よく出撃させて圧倒的に優勢なドイツ空軍と互角以上に戦うことができたのです。上記イギリス映画 《空軍大戦略》 では、イギリス空軍の防空指令本部で多数の女性職員が双方の空軍機を示す小さな模型を大きなボード上に配置するシーンがありました。

ドイツ戦闘機の航続距離

 イギリス空軍にとって、防空上有利な点がもう一つありました。それは、大陸から英仏海峡を越えて攻撃してくるドイツ空軍戦闘機の航続距離が短かったことです。
ドイツ空軍機に限らず、当時のヨーロッパの主力戦闘機は、敵爆撃機を迎撃撃破するのを最大の使命としていたので、基地からの急上昇するスピードと最高速度を大きくする設計になっていました。従って、航続距離は短いのが普通で、イギリス空軍のスピットファイアも1827kmとそれほど長くありませんでした。

バトル・オブ・ブリテン時点のドイツ空軍の主力戦闘機メッサーシュミットBf109は、「電撃戦」の際に地上戦支援にも使われたことからわかるように強力な火器とかなりの爆弾積載量を誇り、しかも600km/h以上の高速で飛行できました。
これらのスペックは当然ながら相当な燃料消費を必要とし、航続距離は720kmぐらいしかなかったのです。

大陸から英仏海峡を越えてきたメッサーシュミットBf109は、イギリス上空には20分ぐらいしかとどまることができなかったといわれます。そこで、イギリス空軍の戦闘機は、メッサーシュミットが大陸へ戻りかけたころからドイツ空軍の爆撃機を攻撃して大きな戦果を挙げたということです。

戦闘機スピットファイア

 イギリス空軍の新型戦闘機スピットファイアは、バトル・オブ・ブリテンが始まったあたりからようやく生産が本格化し、スピットファイアで構成された飛行中隊が多くなりました。またスピットファイアは、エンジンやプロペラなどが次々に改良されて行き、それにつれて性能が大きく向上したということです。

このページを書くに際して戦闘機スピットファイアの写真を探しましたが、なかなか見当たりませんでした。なにせ70年近く前に活躍した戦闘機ですから、実機はイギリスやアメリカに10台くらい残っているだけのようです。
少し探しているうちに、飛行機の模型を制作していらっしゃる方のウェブがあるのを知りました。そのウェブ 翔バナイカイ新館 にスピットファイアの初期のモデルMRK1aの写真があったので、制作者にお願いしたところ、このページに掲載する許認がいただけました。制作者フライング・シープドッグ様、まことに有難うございました。

スピットファイアMRK1a

スピットファイアは、上の写真でわかるように、楕円形の広い主翼、同じく楕円形の尾翼と断面が縦方向に長い胴体が特徴です。この広い主翼により、翼面加重が低くなって運動性能はかなり良好であったとされます。そのおかげで、最高速度がより大きいメッサーシュミットBf109との空中戦でも優位に立ったということです。

バトル・オブ・ブリテンの終結

 劣勢と見られていたイギリス空軍の大健闘に、イギリス国民は勇気づけられました。バトル・オブ・ブリテンが始まった1940年7月月間では、イギリス空軍は自軍の撃墜された機数の2倍のドイツ空軍機(戦闘機・爆撃機合計)を撃墜したといわれます。

しかし、圧倒的な機数を擁するドイツ空軍は、次第にイギリス空軍の飛行場やレーダーサイトを破壊してイギリス空軍を追い詰めて行きました。

8月25日に、イギリス空軍の数少ない爆撃機の一部がドイツの首都ベルリンに特攻空爆を行いました。これに激怒したヒトラーは、イギリス戦線の全機をあげてロンドンを爆撃するように命じました。これによりロンドンは大きな被害をこうむりましたが、その間にイギリス空軍は体勢を立て直してその後の激戦に備えることができたといわれます。

1940年9月15日に、ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンで最大の爆撃機・戦闘機を動員してロンドン空爆を仕掛けました。これを迎撃するイギリス空軍戦闘機との間で激しい空中戦が行われましたが、ここでもドイツ空軍の護衛戦闘機の航続距離不足が露呈され、イギリス空軍は186機ものドイツ空軍戦闘機・爆撃機を撃墜したとされます。一方ドイツ空軍によって撃墜されたしたイギリス空軍機は、わずか25機だったそうです。

この大損害を見て、ドイツ空軍は、イギリス空軍を短期間のうちに撃滅してイギリス東部の制空権を獲得するという当初の方針をあきらめざるを得なくなりました。

チャーチルの賛辞

 バトル・オブ・ブリテン記念碑で、テームズ川に面したほうに回ると、下の写真のようにやはり横に長いレリーフ(浮彫り)があり、その下に次の文章が刻まれてありました。

NEVER IN THE FIELD OF HUMAN CONFLICT WAS SO MUCH OWED BY SO MANY TO SO FEW.

(人類の戦争において、これほど多数の人々が、このように少数の人々からこれほど多くの恩恵をうけたことはかつてなかった)

  大戦終了後当時イギリスの首相であったウィンストン・チャーチルが著わし、後にノーベル文学賞の対象となった 『第二次世界大戦』 のバトル・オブ・ブリテンの章にある一節です。

バトル・オブ・ブリテンが始まったとき、イギリス空軍は戦闘機はわずか600機を保有しているのみで、そのパイロットは1000名ぐらいであったとされます。その戦闘機部隊の獅子奮迅の活躍により、イギリス上空の制空権はかろうじて守り抜かれました。

チャーチルの賛辞

もしイギリス空軍が、ドイツ空軍の猛攻をささえきれず屈服していたら、その後はどうなったでしょうか。大戦終了後の研究によれば、仮にドイツ空軍が海峡上の制空権を手中にしたとしても、ヒットラーが計画していた英仏海峡横断上陸作戦はとても実現できなかったであろうとされます。
第二次世界大戦の転機となった連合軍によるノルマンディ上陸作戦は、英米協力による巨大な経済力、組織力によって初めて可能になったのです。

しかし、英仏海峡およびイギリス東部の制空権がドイツ空軍に奪われたら、イギリスは枢軸側との戦線を縮小し、もっぱら自国の防衛に努めざるを得なくなったでしょう。当時まだヨーロッパに参戦していなかったアメリカは、それを見て、ヨーロッパ救援のための出兵を断念したかもしれません。

一方ヒットラーは、イギリスからの反攻の恐れが大幅に減少したと見て、戦力の大半を東方に振り向けてロシア攻撃を行ったことでしょう。その結果、ヒットラー政権が強固になって長く継続し、ヨーロッパは長期の暗黒時代を経験することになったかもしれません。

戦死したパイロットたち

 上の写真の記念碑の横に、やはり横に長いレリーフ(浮彫り)がありました。そのレリーフの左端には当時のイギリス戦闘機大隊のエンブレムと思われるものがいくつも並べられており、その右側には多数の戦死したパイロットたちの氏名が掲示されていました。
パイロットたちの氏名の背景に、戦闘機スピットファイアの線画が彫りこまれてありました。

前後4ヶ月近く継続したバトル・オブ・ブリテンの期間中に、イギリス空軍戦闘機隊はドイツ空軍機1887機(戦闘機・爆撃機合計)を撃墜したとされます。しかし、イギリス空軍の損害もまた甚大で、この期間中に戦闘機を中心に1、023機を失い、527名のパイロットが戦死しました。

スピットファイアのパイロットたち

戦死したパイロットたちの氏名を見てゆくと、イギリス人以外に旧英連邦諸国ニュージーランド、カナダ、オーストラリア、南アフリカのパイロットたちが多数いるのがわかりました。

バトル・オブ・ブリテンに参戦した外国籍パイロットのうちで、自由ポーランド空軍所属のパイロットが最も人数が多かったとのことです。祖国がドイツとソ連に占領される際に脱出したポーランド人パイロットたちは、イギリスに亡命した後バトル・オブ・ブリテンに参戦し、全部で145人以上がドイツ空軍機と渡り合ったそうです。

同じく大戦が始まる前にナチ・ドイツに併合されたチェコスロヴァキアのパイロットたちも、バトル・オブ・ブリテンに多数参戦しました。

それらヨーロッパ諸国のパイロットたちの氏名も、所属した外国人飛行機部隊のエンブレムとともに上の写真の慰霊碑に掲載されていました。

イギリス空軍の記念碑
イギリス空軍の記念碑

 パイロット慰霊碑からテームズ川沿いの歩道をさらに下流側(北方向)に少し歩くと、ウェストミンスター橋から見えた金色のモニュメントがありました。石柱の上には、金色に輝く大きな鷲の像が載っていました。これが、イギリス空軍の象徴のようです。

このモニュメントの北側は小高い丘になっており、そこに昔のお城のような国防省の建物があります。その国防省の近くに、これらの記念碑を立てたのでしょう。

イギリス空軍記念碑の下には円形のエンブレムがあり、その中に "PER ARDUA AD ASTRA" と記されてありました。「苦難を越えて栄光へ」という意味のラテン語だそうですが、これがイギリス空軍のモットーになっているということです。

記念碑の花輪
記念碑の花輪

 イギリス空軍戦闘機部隊が圧倒的に優勢なドイツ空軍を撃退したのを見て、イギリス国民は大いに勇気づけられ、自由世界は喝采を送りました。
イギリス攻撃戦で、ドイツ空軍は合計2000名の優秀な乗員を失ったとされます。1941年6月から始まった対ソ連戦争では、この大損失の影響でドイツ空軍は乗員不足に悩むことになりました。ソ連空軍戦闘機部隊の予想外の活躍もあり、戦局は次第にドイツにとって不利に傾きました。

イギリス空軍記念碑の下の道路に、誰が置いたのか小さな花輪がありました(上の写真)。この大戦で失われたイギリス空軍の乗員を悼むものでしょうか。
ドイツ空軍側で戦死した2000名の乗員も、大半はヒトラーに駆り立てられてやむなくイギリス空爆に参加したのでしょう。双方ともに、多数の前途ある若者たちがこの過酷なイギリス攻防空戦で命を落としました。

記念碑の下の花輪が塵や落葉にまみれていたのを清掃し、テームズ河畔の風で乱れていた花輪のリボンをきちんと整えました。花輪の前で脱帽して頭をたれ、このような大戦が今後二度と起こらないようにと祈りました。

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