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 英仏海峡
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英仏海峡

 英仏海峡は、イギリス本島とフランスの間にある長さ約560kmの海峡です。
英仏海峡のもっとも北の部分は東西の幅が非常に狭くなっており、イギリス側にはドーヴァー、フランス側にはカレーという港湾都市ができて古来英仏間の交通の要衝になっていました。この海域は、通常、イギリス側の港の名前からドーヴァー海峡と呼ばれます。

ドーヴァー海峡は、もっとも狭い部分ではわずか34kmしかありません。後で述べるように、第二次大戦ではナチ軍はフランス側のカレーに長距離砲を置き、ドーヴァー海峡を越えて対岸のドーヴァー市を砲撃しました。
その後、1957年には、ドーヴァー市の海岸を飛び立った人力飛行機がドーヴァー海峡を越えてカレー近郊の砂浜に着陸するのに成功しました。

今回は、この狭い英仏海峡を隔ててイギリスと大陸諸国がさまざまな係わり合いをもってきた歴史の址を訪ねましょう。

ブーディッカの銅像
ブーディッカの銅像

 ロンドン名物ビッグベン時計塔のそばに架かっているウェストミンスター橋のたもとに、馬二頭が牽く古代の戦車に乗った女性の銅像がありました。この女性はブーディッカという古代イギリス東部地域のケルト人の女王だそうです。

紀元前のシーザーの北方ヨーロッパ遠征に続き、やがてローマ帝国軍は英仏海峡を渡って進攻し、イギリスの主たる部分を征服しました。その際に、このブーディッカ女王が強大なローマ帝国軍に対してケルト人の部族を糾合して大規模な反乱を起こしたということです。

ロンドン塔

 1066年、イギリスのエドワード懺悔王が死去すると、フランス北部・ノルマンディーの領主ウィリアム一世がその王位継承権を主張して英仏海峡を渡りイギリスに攻め込みました。ウィリアム一世は、大陸で鍛え上げた騎兵軍を駆使してイギリス軍を撃破し、やがてロンドンに入城してノルマン朝を開きました。

ロンドン塔は、そのウィリアム征服王がロンドンの防御を固めるためにテームズ川河口近くに建設させた城砦です。その後、歴代の王により次々に拡張され、今日見られる多数の城郭ができました。そのような経緯のためか、城砦の造りがフランス各地に見られる様式に似ているように思われます。

城砦の北側を中心に、空堀が城砦を取り囲んでいます。英仏海峡からテームズ川を攻め上ってくる敵に対する防御最前線となるこの城砦の守りの堅さを印象つけています。

城砦の北側は、いくつかの塔屋を持つ高い城壁になっています(下の写真)。そのさらに奥に高い塔が4基立っていますが、これが城砦の中枢であるホワイト・タワーという建物です。この城砦全体がロンドン塔と呼ばれるのはこれらの塔があるためです 。

ロンドン塔

ドレークの乗船
イギリスの私掠船

 1558年に即位したエリザベス女王は、とりあえず国内を取りまとめることに成功しました。
以降、イギリスは海外に進出し、アフリカ、アジアなど方々に植民地を建設し始めました。

しかし、当時のイギリスは、正規の海軍はまださほどの艦隊兵力を持っていませんでした。
そこで、植民地の建設、維持の際、外国に対抗するために私掠船や海賊船を利用することが多かったのです。

私掠船とは、国から免許状を発行してもらって一応国から公認された形で外国の船舶や港を略奪する海賊勢力です。

私掠船の代表が、カリブ海の海賊として名高いドレーク船長のグループでした。海賊ドレークは、エリザベス女王の公認の下、スペインの新大陸植民地を略奪したり、新大陸から銀などを積んでスペインに向かう船を襲って財宝を奪ったりしました。これによって得られた莫大な富の一部が、エリザベス女王に献上されたといわれます。
上の写真は、ロンドン・テームズ河畔にあったドレーク艦隊の旗艦ゴールデン・ハインド号を復元した帆船です。

スペイン・無敵艦隊の来襲

 イギリスの私掠船や海賊船の略奪に激怒したスペイン国王フェリペ2世はエリザベス女王にそれらの海賊行為を取り締まるように要求しましたが、海賊に免許状を付与して見返りに巨富を得ているエリザベス女王がそれに応ずるはずがありませんでした。

業を煮やしたスペイン国王フェリペ2世は、イギリス艦隊を殲滅してイギリスを占領する決意を固めました。1588年5月、対イギリス戦の兵力を乗せた「無敵艦隊」がリスボンから出航し、英仏海峡に向かいました。
イギリスは、それに対抗してドレークを実質的な司令官とする艦隊を組織し、英仏海峡南西端の軍港プリマスに集結させました。

1588年7月28日、ドレークの率いるイギリス艦隊が、ドーヴァー海峡フランス側のカレー港沖に停泊していたスペイン艦隊を急襲しました。イギリス艦隊の艦船は、スペイン艦船よりやや小型で機動性に優れ、また射程の長いカルヴァリン砲という艦砲を装備していました。イギリス艦隊は操船技術、艦砲技術でもスペイン艦隊を圧倒し、翌日にはスペイン・無敵艦隊の大敗は明らかになりました。

この海戦で、スペイン側は艦隊の1/3を失ない、また2/3に近い将兵が海の藻屑と消えたとされます。以降、イギリスの海軍力は次第にスペインをしのぐようになり、19世紀初めにはイギリスはトラファルガーの海戦でスペイン海軍を壊滅させて「7つの海に覇をとなえる」海軍国になりました。

ダンケルクの戦い

 1940年5月10日、ドイツ軍は満を持して西部戦線オランダ・ベルギーに侵攻を開始しました。圧倒的に優勢な航空機兵力と数千台もの戦車軍団とが連携して進撃する電撃戦と呼ばれるものでした。

オランダ、ベルギーはまたたく間に蹂躙され、5月17日にはドイツ軍はフランス北部に進撃しました。この戦線にはフランス軍、ベルギー軍とともにイギリス陸軍の遠征部隊が布陣していましたが、ドイツ軍はそれら連合軍部隊の背後を突いて西方に向かい、ドーヴァー海峡の港湾都市カレーとダンケルクの中間でドーヴァー海峡の東岸に達しました。

下の地図に見られるように、ドイツ軍のこの進撃により、ドーヴァー海峡東岸の連合軍部隊はカレーとダンケルクの中間で分断され、やがて連合軍部隊はカレー、ダンケルクそれぞれの狭い地域で海を背後にしてドイツ軍によって完全に包囲されてしまいました。

ダンケルクの戦い

最終的に、ダンケルクの海岸にはイギリス陸軍の遠征部隊とフランス軍あわせて約35万人が追い詰められてまさに背水の陣をしいていました。イギリス首相チャーチルは、これらの将兵を救出するために、イギリスの英仏海峡沿岸の船舶で利用可能なものはすべてダンケルクに向かうように要請しました。

この呼びかけに応じて、イギリスの英仏海峡沿岸の各港からダンケルクまで約50kmの航行に耐えるありとあらゆる船舶がいっせいにダンケルクに向かって出航しました。
軍艦、客船、貨物船、フェリーはもとより、漁船、遊覧船、はてはヨット、はしけにいたるまであらゆる船舶が、ダンケルクの海岸で窮地に追い詰められた仲間たちを一人でも多くイギリスに連れ帰ろうとして、ドーヴァー海峡を埋め尽くして東を目指しました。

ダンケルクの戦いの大詰めといえるこの時期に、ドイツ軍の機甲師団を含む主力部隊は攻撃の手を緩めたといわれます。その理由はさまざまに推測されますが、ドイツ軍機甲師団がそれまであまりにも進撃が急だったので将兵の疲労がピークに達しており、弾薬などの補給も追いつかなかったためともいわれます。
またヒトラーが、イギリスとの早期講和の可能性を残すために、ダンケルクのイギリス軍を全滅させるほどの攻撃を控えさせたとの説もあります。

そこで、ドイツ軍のダンケルク攻撃最終段階は、主として空軍によって行われることになりました。この場面で、イギリス空軍の戦闘機が海峡を越えて飛来してダンケルク上空の防衛にあたり、ダンケルク海岸の友軍の被害を最小限にとどめるのに成功しました。

1940年5月27日にイギリス軍はダンケルクから撤退を開始し、ドイツ空軍機の間断ない来襲の中、兵士たちは救助に駆けつけてくれた船舶にすし詰めになって母国を目指しました。撤退作戦は昼夜を問わず行われ、8日後の6月4日までにはダンケルクに追い詰められた約35万人のうち336,000名あまりが母国の港に迎えられたとされます。

この撤退作戦の奇跡的な大成功をみて、イギリス国民は大いに勇気付けられ、自由世界は喝采を送りました。このようにして救出された将兵たちは、やがて1944年のノルマンディー上陸作戦に参加して、ふたたびフランスに戻ってドイツ軍と戦うことになりました。

バトル・オブ・ブリテン

 上記ダンケルクの撤退作戦が終了してからわずか一ヵ月後の1940年7月10日から、ドーヴァー海峡を越えてきたドイツ空軍機とイギリス空軍の戦闘機との間で 「バトル・オブ・ブリテン」 と呼ばれた航空戦が始まりました。詳細は こちら をご覧ください。

ノルマンディー上陸作戦
ノルマンディー上陸作戦

 ロシア戦線では、1942年から1943年にかけてのスターリングラードの戦い以降、ドイツ軍は広大なソ連国内の方々で敗北を喫していました。
1943年7月10日には、連合軍によるイタリア・シチリア島上陸作戦が決行され、枢軸側勢力の退潮が明瞭になりました。

かねてより連合軍はフランスからドイツ軍を駆逐するための上陸作戦を検討してきましたが、やがてその上陸地点が英仏海峡に面したフランス・ノルマンディー海岸に決定されました(左の地図参照)。

ドイツ軍は連合軍がフランス本土上陸作作戦を練っているのを察知していましたが、最後までその上陸地点はイギリス海岸からの距離がもっとも短いドーヴァー海峡のカレーであろうと予想していました。

ノルマンディー海岸は、フランス・セーヌ湾南部で東西に長く伸びている海岸で、浜は遠浅で潮の干満差が大きいので知られています。英仏海峡のイギリスの軍港ポーツマスの南に位置し、ポーツマスからの距離は150kmほどです(上の地図参照)。
上陸地点としてはイギリス本土からの距離が長いのが難点でしたが、逆にそのためにドイツ軍の防御体勢が他の地域ほどは厳しくないということが判明しました。この海岸では潮の干満差が大きいのも、小型舟艇による上陸作戦に適していました。

かくて、人類史上空前の大上陸作戦が、英仏海峡中央部を舞台にして繰り広げられることになりました。上陸作戦の司令官にはアメリカ軍のアイゼンハウアー将軍が就任し、イギリス軍と連携して詳細は極秘に保ちつつ巨大な作戦の準備を進めました。

史上最大の作戦

 D−DAYといわれた1944年6月6日、ポーツマスをはじめ英仏海峡のイギリスの港から6000を超える軍艦、輸送船団がフランス・ノルマンディー海岸に向けて出航しました。同時に、延べ12,000機といわれるアメリカ空軍機、イギリス空軍機がノルマンディー海岸を急襲し、海岸のドイツ軍防衛拠点を爆撃しました。

戦後、アメリカの作家コーネリアス・ライアンがこの作戦をテーマに "The Longest Day" というノンフィクション小説を書きましたが、1962年にそれが巨額の制作費で映画化されました。日本でも 《史上最大の作戦》 という名前で公開され、大ヒットになったので、ご覧になった方も多いと思います。

17万5000名の連合軍兵士が上陸用舟艇でノルマンディー海岸に殺到しましたが、ドイツ軍の反撃はすさまじく、アメリカ軍、イギリス軍ともに多数の死傷者が出ました。しかし、兵力と支援・補給体制で優位に立った連合軍は、数日のうちにノルマンディー海岸各地に橋頭堡を構築するのに成功しました。

7月7日にはノルマンディー地方の重要拠点カーンが連合軍の手に落ち、以降連合軍はフランスのドイツ軍を追って次第に北上して行きました。かくて、英仏海峡を舞台とした史上最大のイベントであるノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦の連合軍側勝利に大きく貢献することになりました。

英仏海峡と海底トンネル

 18世紀末にフランス皇帝に即位したナポレオンは、まもなく圧倒的な軍事力でヨーロッパの大多数の国々を征服しました。ナポレオンが次に狙ったのは、英仏海峡の西に隣接するイギリスの征服でした。
ナポレオンはフランスとスペインの艦艇を統合した強力な艦隊を組織してイギリスに向かわせましたが、これはトラファルガーの海戦でイギリス艦隊に撃破されてしまいました。

海軍力ではイギリスに及ばないのをさとったナポレオンは、次にドーヴァー海峡に海底トンネルを掘削してイギリスに侵攻しようとしました。実際に海底の地質調査を行ったといわれますが、やがてナポレオンが失脚したため、この計画は頓挫しました。

19世紀末になると、イギリスとフランスの関係は平穏となり、両国間の交通・物資輸送のニーズも高まったので、ドーヴァー海峡に海底トンネルを設ける計画がふたたび検討され始めました。しかし、20世紀になってから第一次世界大戦、第二次世界大戦が相次いで起こり、海底トンネル計画はふたたび没になりました。
上記のように、イギリスは歴史的に大陸との間にある海によって外国からの侵略をまぬかれてきたので、海底トンネルに対する反対意見が多いのは当然のことだったのです。

ユーロスター
ユーロスターの開通

 1980年代以降、国際平和、ヨーロッパ連合への動きが強まるにつれ、ドーヴァー海峡に海底トンネルを設ける計画がまた検討されるようになりました。

1984年に英仏両政府間で海底トンネルの基本的な合意がまとまり、1986年には事業が英仏両政府により認可されて海底トンネル掘削工事がスタートしました。工事には、日本の川崎重工が製造したシールドマシンが使用されたそうです。

チャネル・トンネルは、海底部の総距離は37.9Kmと世界一長く、それを含めた全長は50.5Kmもあるそうです。1990年の末、チャネル・トンネルは貫通し、その後の鉄道工事を経て1994年11月にドーヴァー海峡経由の高速鉄道ユーロスターが開業に至りました。

私は、ユーロスターのパリの発着駅である北駅のそばのホテルに宿泊して北駅の中を何度も通りましたが、このユーロスターには乗ったことがありませんでした。
今回このウェブページを書くに当たり、ユーロスターの写真がないので困り、インターネットを検索したところ、 武庫川女子大学生活環境学部の牛田 智(うしださとし)教授のウェブ にユーロスターの写真が掲載されているのを見つけました(上の写真)。
牛田先生にお願いしたところ、写真をこのページに転載する許可がいただけました。牛田先生、まことに有難うございました。

平和な英仏海峡

 上記のように、英仏海峡はこれまでイギリスと大陸諸国との間で幾多の戦争の舞台になってきました。これも、英仏海峡が狭くて比較的簡単に横断して攻撃したり攻め込んだりすることができたからでしょう。しかし21世紀に至っては、もはやそのような戦争はまったく考えられなくなりました。

上記のように、ドーヴァー海峡はもっとも狭い部分ではわずか34kmしかありません。現在では多数の男性・女性がドーヴァー海峡横断の水泳を成功させています。1957年には、人力飛行機によるドーヴァー海峡横断も行われました。

現在では、英仏海峡の狭さを生かして人間の往来や物資の流通が盛んに行われています。上記高速鉄道ユーロスターの開業も、21世紀の平和な英仏海峡を象徴する事業といえましょう。

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