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オランダ・アムステルダム
 ゴッホ美術館
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王立博物館の建物
王立博物館の建物

 王立博物館でレンブラントなどの名画を見終わって外に出ると、南の方向、少し離れたところにゴッホ美術館が見えました。そこに向かって歩いてゆく途中、振り返ると王立博物館の巨大な建物が見えました。

今回は王立博物館が大改修中だったので、ルーベンスやファン・ダイクの名作はほとんど見ることができませんでした。王立博物館の改修が終了したら、ぜひまた訪れてそれら名作を見たいと思います。

ゴッホ美術館
ゴッホ美術館

 少し南に歩くと、国立ゴッホ美術館の前に出ました。こちらは左の写真のように近代的なビルディングです。

ゴッホ美術館は1973年に建てられた比較的新しい美術館ですが、ゴッホ作品の収蔵は油彩、素描合わせて700点を越え、世界一を誇っています。

1999年には新館が建設されましたが、この設計は先に亡くなられた世界的建築家黒川紀章さんによるものだそうです。

ゴッホは、1853年にオランダ南部のズンデルトに生まれました。フランス印象派の開祖モネは、ゴッホより13歳早い生まれで、1874年にパリで開催された第1回印象派展には《印象・日の出》しました。そのときゴッホはを美術商の店員として働いていましたが、やがて解雇されてしまいました。

1880年に至って、ゴッホはようやく画家になる決意を固め、デッサンなど基本的な勉強を始めました。そのころのゴッホの作品はオランダ農民の貧しい生活を描いたものが多く、その後の輝かしい色調の作品が同じ画家から生まれたとはとても信じることができない暗い画調でした。

1886年、33歳のとき、ゴッホはパリに移住し、ロートレックなどと同じ画塾で勉強を始めました。このあたりから印象派の明るく力強い表現方法を身につけ、ようやくゴッホの真骨頂が発揮されるようになったのです。
その後1890年に、ゴッホはパリの北オーヴェル・シュル・オワーズで猟銃自殺を遂げました。従って、ゴッホが真の意味で画家として活動した期間は、正味わずか4年あまりしかなかったということになります。

花咲く梅の木
花咲く梅の木

 この美術館では、ゴッホの短い画家としての生涯に描かれた作品を年代別にわかりやすく展示しています。

ゴッホがパリに来たころは、日本の浮世絵の平面的画調が画家の間で評判になっていました。左の作品は、ゴッホが歌川広重の梅の絵を模写したものだそうで、ゴッホがパリに来て間もないころに描かれました。

パリ時代の自画像
パリ時代の自画像

 この自画像は、パリ時代の最後のころ、1888年2月に描かれたものです。
パリに来てわずか2年でゴッホの画風が大きく変わり、構図が大きくなったと同時に明るい色彩、大胆でのびやかなタッチを自由に使っているのが見られます。

この1888年はじめから1890年の夏に自殺するまでの2年余りの期間にゴッホは400点余りの作品を残していますが、ゴッホの生涯の傑作は大多数がこの期間に制作されました。
もしゴッホがアムステルダムで美術商の店員を続けていたら、またゴッホが牧師になるための勉強を続けていたら、あるいはもしゴッホがパリに出てこなかったら、私どもは現在この19世紀を代表する画家の作品を見ることはできなかったでしょう。

アルル時代 《収穫》

 上図の作品を描いてまもなく、ゴッホはパリを去って南仏アルルに住み着きました。当時パリの画壇ではジャポニズムという日本の絵画への憧れが高まっていましたが、ゴッホも浮世絵に見られるような明るい陽光を求めて南仏に行ったのです。

下の作品はアルルの6月ごろ、麦の取り入れを描いたもので、この時期の傑作のひとつです。構図が大きく、その隅々まで大変な集中力で仕上げてあるのが印象的です。

色彩も、黄色と青の対比を中心に赤や緑のアクセントを効果的に用いており、いよいよゴッホの本領が発揮されてきた感があります。

アルル時代《収穫》

アルル時代の作品

ゴーギャンの椅子 ひまわり

 アルルで、ゴッホはまもなく「黄色い家」に転居し、そこで他の画家たちとともに制作をしたいと考えました。
当時パリで生活に困っていたゴーギャンがその誘いに乗り、アルルに来ることになりました。そのゴーギャンのために、ゴッホは椅子を買い求め、上の絵を描きました。

ゴーギャンは、1888年の10月にアルルに来てゴッホと共同生活を始めましたが、12月ごろには二人の強烈な個性は衝突するようになりました。
 12月の末には二人は激しい喧嘩をし、その後ゴッホが自分の左耳を切り取るという事件が起こりました。

上のひまわりの絵画は、その翌年1889年の1月に描かれたものです。ゴッホは生涯にひまわりの絵を13枚描きましたが、うち6枚は1888年8月にアルルで描きました。

上の作品はそれらより半年近く後に制作したものですが、ゴッホのひまわりの中でも特に優れたものの一つかと思います。精神異常の影響はまったく見られません。

《麦畑と雷雲》

 ゴッホは、1889年の1月に退院しましたが、その後も精神の不安定が続いたため、5月8日に牧師に付き添われてサン・レミの精神療養院に入院しました。ここでは自室の他に制作室を与えられて、自由に画作をすることができたそうです。

この時代には非常に優れた作品を多数残していますが、時折襲ってくる発作、錯乱状態に苦しむことも多かったといわれます。

やがてゴッホは、サン・レミ療養院にとどまっていては自分の精神不安定は直らないと思うようになり、1890年5月にサン・レミを離れてパリの北オーヴェール・シュル・オワーズに向かいました。

オーヴェール・シュル・オワーズは、セーヌ川の支流オワーズ川に沿った美しい丘陵地帯で、私も一度訪ねたことがあります。川沿いにある国鉄の駅を出て緩やかな坂道を上がって行くと、ゴッホの絵にも登場する教会がありました。
その横を抜けてさらに坂道を登ると、急に目の前が開けて広大な麦畑に出ました。私どもは3月の末に行ったので、麦畑は青々としていて、麦の実はまだ付いていませんでした。

夜警

上の作品はゴッホが1890年7月に制作したとされますが、麦畑がまだ青々としているので、ゴッホがオーヴェール・シュル・オワーズに着いてまもなくの6月ごろ描いたものかと思います。低く垂れ込めた雷雲が濃いブルーで描かれ、その下に拡がる薄緑色の麦畑との対比が鮮やかです。

《麦畑とからす》

 北国オーヴェール・シュル・オワーズでは、7月ごろが小麦の収穫の時期です。下の有名な作品は、そのころ上記の作品と同じ麦畑を描いたものです。麦畑は、日本でいう「麦秋」の状態で、黄金色になった麦は穂の重さで横に垂れ下がっています。

下の作品を描き終った7月27日、ゴッホはこの麦畑の中で猟銃を自分の胸に発射して自殺を図りました。ゴッホが肖像画を描いたガッシュ医師が駆けつけましたが、もはや手遅れでした。急報を受けてパリから飛んできた弟テオに看取られて、ゴッホは37歳の短い一生を終えました。

ユダヤの花嫁

私どもも、3月の末にこの場所に行ったとき、上図の名作の中央に描かれている農道を画面の奥のほうに歩いて行きました。しばらく歩くと、農道が十字に交差する場所がありましたが、その曲がり角に「ゴッホ終焉の地」を示す石の標柱が立っていました。
見渡す限りの広大な麦畑の中、青い麦のおもてを渡ってくる風の音とはるか上空のひばりの鳴き声が聞こえるのみでした。

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