旅景広々トップ 旅行の準備 旅のご注意 旅の便利帳 旅行グッズ リンク


ロシア・サンクトペテルブルグ
 クリミア/ 苦難の歴史
メニューへ

ウクライナ共和国

 2014年4月、ロシア共和国はウクライナ共和国の南端、黒海に突き出ているクリミア半島を実質的に武力で制圧しました。その後クリミアで実施された国民投票の結果、ロシア共和国プーチン大統領はクリミア半島はロシア共和国に編入されたと宣言しました。

下の地図に見られるように、ウクライナ共和国は黒海北岸にあってその東側ではロシア南西部に隣接しています。またその西側ではポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアの東欧諸国とも国境を接するという重要な位置にあります。
旧ソ連圏の東欧諸国が近年次第に西欧に接近しつつある中、ロシア共和国としてはウクライナ共和国の動向に神経を尖らせていることでしょう。

ウクライナ

クリミア半島

クリミア半島  第一次露土戦争(1768〜75年)で帝政ロシアはトルコに勝利し、クリミア半島全域がロシア領になりました。
帝政ロシアのエカテリナ二世はクリミア半島南端にセバストポリ港を建設し、黒海艦隊の基地としました。

以後クリミア半島には次第にロシア人が住み着いて、クリミア半島はロシアの海軍基地であるのにとどまらず、黒海周辺諸国、さらには地中海諸国との交易地としても重要な位置を占めるようになりました。

また、クリミア半島最南端にある都市ヤルタは、温暖な海洋性気候でロシア国民憧れの保養地となりました。

ロシアの小説家チェーホフは、19世紀末に療養のために気候のよいヤルタに移り住みました。有名な短編小説 『犬を連れた奥さん』 は、ヤルタで休暇をすごす銀行員とやはりサンクトペテルブルグから保養に来た上流婦人との不倫の恋愛を描いたものです。
当時の上流階級では、ヤルタに別荘を持つ人が多かったのでしょう。

ギリシア植民地時代

 黒海は、ボスポラス海峡で地中海北東部エーゲ海に接続されています。紀元前7世紀ごろ、ギリシャ人は黒海に進出し、その中央部に突出しているクリミア半島に植民都市を建設しました。現在のセヴァストポリの近郊には最大のギリシャ植民都市ケルソネソスが開かれ、黒海海上交易の要衝として繁栄しました。

ウクライナ黒土地帯で産する穀物、毛皮は、地中海諸国にとって欠くべからざるものになりました。また、南ロシアからは多数の奴隷が地中海諸国にもたらされたということです。

紀元前5世紀ごろに、それらギリシャ植民都市を中心に「ボスポラス王国」が建設され、紀元前4世紀末には黒海北岸のほとんどを勢力範囲に収めました。

1世紀に入ると地中海で勢力を拡大したローマ帝国が黒海の各所を実質的に支配するようになり、ボスポラス王国は以後ローマ帝国の属国として存続することになりました。

フン族の侵入

 3世紀に入ると、それまでヴォルガ川東方にいた匈奴系の遊牧民集団フン族が西方に移動し、ウクライナ、クリミアを脅かし始めました。この地域の豊富な産物は、昔から今と同じように周辺諸国によってねらわれてきたのです。

4世紀半ばには、黒海北岸、クリミア半島のボスポロス王国領土はあらかたフン族の手に落ちました。ボスポロス王国の残存部は、6世紀に東ローマ帝国の属国になりました。

7世紀以降、黒海の北にはキエフ大公国が興り、勢力を拡大していました。キエフ大公国は、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア三国にとって共通の祖国とされます。
10世紀中ごろ、キエフ大公国はドニエプル川を経由して南方黒海沿岸に進出し、クリミア半島の北部を征服しました。クリミア半島の南部は、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)によって支配されました。

モンゴルの征服

ハーン・オゴタイ  第2代モンゴル帝国皇帝 ハーン・オゴタイ(左の絵画)は、1236年にロシア・東ヨーロッパへの遠征を指令しました。チンギスハンの孫とされるバトゥの率いるモンゴル軍はヴォルガ川を越えて西に進軍し、1238年にクリミア各地を侵略しました。

1240年にはキエフ大公国の首都キエフが陥落し、キエフ大公国は滅亡しました。

クリミアは、1239年からモンゴル帝国内の王国キプチャク・ハン国によって支配されるようになりました。当時はモンゴル帝国に従属する遊牧民系国家がタタールと呼ばれていました。中国、日本ではタタールは韃靼(だったん)とも表記されています。

また、この時代にはクリミア半島南部沿岸の一部がイタリアの都市国家ヴェネツィア、ジェノヴァによって支配されました。イタリアの都市国家が地中海から黒海に進出し、多数の植民都市を建設したということから、クリミアが南ロシアの物産の集散地として、また黒海沿岸地方の軍事拠点としていかに重要であったかがわかります。

クリミアのキプチャク・ハン国はやがて弱体化し、代わって15世紀中ごろにチンギス・ハンの血筋をひくクリミア・ハン国がこの地に建国されました。それ以後15世紀中ごろまで、ロシア中央部、南部一帯は「タタールのくびき」のもとに置かれることになりました。

クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク系のイスラム教徒たちが多数居みつきました。現在のクリミアでは全人口の10パーセントがクリミア・タタール人であるとされますが、それらはクリミアがモンゴル帝国の属国に支配されていた歴史の名残です。

モスクワ大公国

イヴァン大帝  そのころ、北東ルーシの小国であったモスクワ公国が次第に勢力を増しつつありました。
1380年、モスクワ公国のドミトリー・ドンスコイ大公は、ルーシー諸国と同盟し、増税を要求するタタールの軍勢をクリコヴォの戦いで破りました。

その後、15世紀初めにモスクワ大公国のイヴァン3世(イヴァン大帝、左の絵画)は大公国内の反乱を鎮圧し、ロシア北東部に大領土を確保しました。

前記のように当時はクリミアと南ロシアはクリミア・ハン国の支配下にありました。モスクワ大公国の南部はしばしばクリミア・ハン国の軍勢によって攻撃されたということです。

オスマン帝国の進出

 15世紀後半、クリミア・ハン国では王位をめぐって内紛が起こりましたが、黒海南岸各地を支配していたオスマン帝国がそれに介入し、クリミア・ハン国を属領にしました。

オスマン帝国は、1475年にそれまでイタリアの都市国家ジェノヴァが領有していたクリミア半島南岸の港湾都市をも攻撃して自領としました。これにより、クリミアと黒海北岸一帯は実質的にオスマン帝国によって支配されることになりました。

この時代には、クリミア北部ではイスラム教スンナ派を信仰するクリミア・タタール人が多数を占めていました。そのほかに紀元前のギリシャ植民以来のギリシャ人、アルメニア人(いずれも正教会信徒)が住んでおり、さらにユダヤ人もかなりいました。

クリミア南部では、オスマン帝国から移住したトルコ人が増加しつつありました。

ロシア帝国に併合さる

 モスクワ大公国はその後ロシア北西部で次第に勢力を増し、君主がツァーリを名乗って「ロシア・ツァーリ国」になりました。1721年にロシア・ツァーリ国のピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言し、ロシア帝国が誕生しました。

エカテリナ2世  当時はオスマン帝国がなお強大で、黒海周辺とクリミア半島を実質的に支配していました。
かねてより南方への領土拡大を図っていたロシア帝国のエカテリナ2世(左の絵画)は、1768年に黒海北岸一帯でオスマン帝国と交戦を始めました。これを第一次露土戦争と呼びます。

戦争でロシア帝国は大勝し、オスマン帝国はクリミア・ハン国の宗主権をロシア帝国に譲渡しました。その後1783年にロシア帝国はクリミア・ハン国全域を併合しました。

エカテリナ2世は、黒海の制海権を得るべくクリミア半島の南端に軍港セヴァストポリを開きました。

それを契機として、クリミア半島にはロシア人、ウクライナ人の入植が相次ぐようになりました。その結果、クリミアの住民のうちクリミア・タタール人の比率は次第に減少し、現在はロシア系が過半数を占めるとされています。

クリミア戦争

 上記クリミアの占領ののちも、ロシア帝国は黒海周辺やバルカン半島へ進出する動きを見せました。それらにより、オスマン帝国や地中海への影響を恐れるイギリス、フランスなどとロシア帝国との間に緊張が高まりました。

クリミア戦争 1853年、バルカン半島でのスラヴ系民族の反乱をきっかけとして、ロシア帝国とオスマン帝国の間で戦闘が始まりました。

これにかねてよりオスマン帝国を支援していたフランスが加わり、さらに地中海での権益を守ろうとするイギリスもオスマン帝国側に参戦しました。

戦闘はドナウ河畔のブカレストで始まりましたが、やがてクリミア半島南端にあるロシア帝国黒海艦隊の基港セヴァストポリの周辺が主戦場になりました。

1854年、オスマン帝国、フランス、イギリスの同盟軍がセヴァストポリの近くに上陸し、セヴァストポリに向かって進撃しました。同盟軍はコサックなどのゲリラ攻撃で苦戦しましたが、1855年9月にようやく要衝セヴァストポリを陥落させました。

この時期には両陣営ともにもはや戦争継続が困難になり、結局クリミア戦争は翌1856年に「勝者なし」のドローで終結しました。クリミア半島の軍港セヴァストポリは、ロシアがオスマン帝国から奪った都市との交換でロシアに返還されました。

クリミア・タタール人は、戦火を逃れるために故郷を離れる人が多くなりました。黒海の対岸、同じイスラム教国のオスマン帝国に多数のクリミア・タタール人が移住したそうです。

ロシア革命

ロシア革命  バルカン半島での民族運動を契機として、1914年から第一次世界大戦が始まりました。
その末期、各戦地でロシアの敗北が続く中、1917年2月にペトログラードで食料・燃料を要求する民衆のデモが起こりました。

皇帝ニコライ二世は退位し、1917年3月3日に300年以上の歴史を持つロマノフ王朝は断絶しました。 これがロシアにおける社会主義革命の第一歩となった二月革命です。

10月25日、レーニンが率いるボリシェヴィキは首都ペトログラードの軍隊とともに市内要所を占領し、革命軍が冬宮内に進入しました。

この十月革命によりソヴィエト共産主義の中央集権体制が一応成立しましたが、当時はドイツ帝国、オスマン帝国との戦争が継続中であり、また国内各所ではソヴィエト共産主義に対抗する「白ロシア」勢力が反乱を起こしていました。

第一次世界大戦終結後、白ロシア軍の残存勢力はクリミア半島に立てこもりました。その後、ポーランドとソビエト連邦との間の戦争が終了したので、ソビエト連邦軍はその兵力をクリミアに集中して白ロシア軍の掃討に乗り出しました。
1920年11月にクリミアでの戦闘は終了し、クリミアは最終的にソビエト連邦の構成国となってクリミア自治ソビエト社会主義共和国が発足しました。

1930年代には、ソビエト連邦の地域開発計画によってロシア人、ウクライナ人などスラブ系人口が大幅に増加しました。

第二次世界大戦

 1930年代のドイツではヒトラーに率いられたナチスが権力を握り、「ドイツ民族統合」を旗印に周辺諸国を侵略し始めました。1939年のナチスのチェコ侵攻を見て、ついにイギリス、フランスはドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。

当初はドイツはソビエト連邦と相互不可侵条約を結び、友好関係にありましたが、1941年8月、ドイツは突如大軍を動員してポーランドからソビエト連邦領内に侵攻しました。

独ソ開戦 ドイツの攻撃は、北方レニングラード、中部のモスクワ、南部のキエフ・スターリングラードの3方面に向かって行われました。

ヒトラーは、鉄鉱石、石炭など資源に恵まれ、またヨーロッパの穀倉地帯でもあったウクライナ、クリミアにドイツ民族を移住させる構想をもっていました。

第二次世界大戦においても歴史は繰り返され、ウクライナ、クリミアの豊かさ、戦略的重要性は侵略者ヒトラーにねらわれることになったのです。

ドイツ軍は9月末にウクライナの首都キエフを陥落させた後、クリミア半島に向かいました。多大な損失を出しながらドイツ軍はクリミア半島にわたるペレコープ地峡を突破し、やがて軍港セヴァストポリを除くクリミア半島全域を占拠しました。

1941年10月から、クリミア半島南端のセヴァストポリをめぐる攻防戦が始まりました。セヴァストポリ守備兵の抵抗はきわめて頑強で攻防戦は長期にわたりましたが、ついに1942年7月にセヴァストポリは陥落し、クリミア半島全域がドイツに占領されました。

独ソ戦末期には形勢は逆転し、1944年にソビエト連邦軍はクリミア半島北端のペレコープ地峡を封鎖し、半島内に残存するドイツ軍を攻撃しました。まもなくクリミアのドイツ軍は降伏し、てセヴァストポリもソビエト連邦軍に奪還されました。

ヤルタ会談

 ドイツ軍がクリミアから駆逐された直後の1944年5月、スターリンはクリミア・タタール人の全員を中央アジアへと強制移住させました。この処置は、クリミア・タタール人の一部にナチス・ドイツの占領軍に協力した者がいたことを理由にして行われたということです。
移住先の中央アジアでの生活は過酷で、10万人のタタール人が飢えや病気で死亡したとされます。この悲劇は現在に至るまでクリミアの民族問題に影響しているそうです。

その後、同年6月にはクリミアに住んでいたアルメニア人、ブルガリア人、ギリシア人もタタール人と同じように中央アジアに追放されました。この結果、クリミアの住民はロシア人、ウクライナ人の比率が一段と高くなりました。

ヤルタ会談  独ソ戦の前には、クリミア半島最南端にある都市ヤルタは温暖な海洋性気候でロシア国民憧れの保養地となっていました。

1945年2月に、そのヤルタで第二次世界大戦の戦後処理を話し合うヤルタ会談が開催されました。左の写真は、ヤルタ会談に出席したイギリス・チャーチル首相、アメリカ・ルーズベルト大統領、ソ連・スターリン書記長(左から)の3首脳です。

クリミア、ウクライナ領に

 1954年、ソビエト連邦最高会議幹部会はクリミア州をロシアからウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管することを決定しました。これは、クリミア地域とウクライナが歴史的、経済的、文化的に共通性、近接性が高いのが理由とされました。

観光地クリミア 第二次世界大戦後には、クリミアはソビエト連邦圏内のメジャーな観光地となり、大型ホテルや保養所が盛んに建設されました。

観光客は、ソ連、東欧衛星諸国はもちろんのこと、東ドイツやバルト諸国からもこの地を訪れました。

また、ギリシア、イタリアなど地中海諸国からの大型観光船も、クリミアの各地を盛んに訪れるようになりました。

この時期にはクリミアでは鉄道などインフラが次第に整備され、観光業が盛んな沿岸地域を中心に経済が発展しました。スターリンによって追放されたタタール人などは帰国がなかなか許されませんでしたが、ロシア人、ウクライナ人の移住者が増加し、1989年には160万人のロシア人と62万人のウクライナ人が半島に居住していたということです。

ソビエト連邦の崩壊

ビエト連邦の崩壊  1991年8月、ソビエト連邦でクーデターが起こり、クリミア・フォロスの別荘で静養していたミハイル・ゴルバチョフ大統領が軟禁されました。
それを契機としてソビエト連邦の崩壊が始まり、ウクライナは12月に行われた住民投票の結果、独立国となりました。

クリミアでも住民投票が行われ、過半数の賛成によりクリミアは「クリミア自治共和国」として新生ウクライナに属することになりました。

スターリンによって中央アジアに追放されたクリミア・タタール人などは帰国が許され、クリミアではタタール人の人口比率が徐々に増加し始めました。

一方、クリミアの人口で60パーセント以上を占めるロシア系住民は、クリミア半島がウクライナ領になったのに不満を持ち、ロシア共和国に帰属したいと願うようになりました。

クリミア危機(2014年)

 2014年に、ウクライナの首都キエフで親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領に抗議するEU派市民の大規模なデモが起こりました。ヤヌコーヴィチはロシア共和国に亡命し、親EU派のトゥルチノフ氏が大統領代行に就任しました。

その後、クリミア半島にはロシア共和国の支援を受けた「ロシア系住民自衛組織」なる武装集団が各地に現れ、クリミアを実質的に武力支配下に置きました。
その中、3月11日、クリミア自治共和国議会とセヴァストポリ特別市議会は、クリミアおよびセヴァストポリがウクライナから独立したと宣言しました。

前記のように、クリミアでは3月16日に住民投票が行われ、ロシア共和国への編入を希望する住民が圧倒的多数を占めました。それをもとに、3月18日にロシアのプーチン大統領とクリミア・セヴァストポリの代表とはクリミアとセヴァストポリの編入条約に署名しました。

しかし、ウクライナ共和国はクリミア共和国の独立およびロシア共和国への編入を認めていません。また、アメリカ合衆国、欧州連合、そして日本政府は住民投票がウクライナの国内法に違反したものであるとし、その結果を承認していません。
現在世界の大多数の国ではクリミアのロシア共和国への編入を承認していません。

クリミアは楽園

 前記のように、1768年の第一次露土戦争でウクライナを手に入れたエカテリナ2世は、さらにその南方のクリミアをも併合するべく、1775年に多数いた愛人の一人であったポチョムキンを黒海北岸の県知事として派遣しました。

ポチョムキンは、その後まもなくオスマン帝国が条約に違反したという主張のもとにクリミアに侵攻し、半島全域をロシア帝国の支配化におきました。その後、ポチョムキンはエカテリナ2世に「ロシアには楽園が必要です」というレポートを送りました。

セヴァストポリ 翌1776年、ポチョムキンはエカテリナ2世の命によりクリミア半島の南端セヴァストポリに軍港の建設を開始しました。
セヴァストポリには黒海艦隊が置かれ、ロシア帝国の黒海における防衛、対外戦略の拠点となりました。

それから11年後の1787年、エカテリナ2世はポチョムキンのすすめにより黒海北岸・クリミア半島の視察におもむきました。
クリミアの明媚な風光に感激した女帝は、クリミアのさらなる開発を指示しました。

それから250年近く、ロシア人の心中にはクリミア半島なかんづくその南端のセヴァストポリ・ヤルタがロシアの楽園として、そして黒海戦略の拠点として刷り込まれてきました。

上の写真は、現在のクリミア・セヴァストポリ港です。セヴァストポリには開放経済が導入され、黒海の中央部に位置するという利点により外国企業が多数進出しています。
またすぐ近くにあるヤルタと同じくセヴァストポリはもともと風光明媚な土地であり、保養・観光地として開発が進みつつあります。
住民の過半がロシア系で占められていることもあり、ロシア共和国としてはクリミアは何としても自国の勢力範囲に置きたいのでしょう。

このページで説明したように、クリミアはその豊かさ、経済的・軍事的な立地の重要性のためにこれまで2000年以上にわたり歴史の荒波に翻弄されてきました。今回のクリミア危機もその一つであり、今後10年経っても解決には至らないように思われます。



メニュー



旅景広々トップ 旅行の準備 旅のご注意 旅の便利帳 旅行グッズ リンク

このウェブの姉妹サイト
実りのとき
このウェブの姉妹ブログ
実りのときブログ