サンクトペテルブルグは、私にとってはエルミタージュ美術館のある街であり、また大小説家ドストエフスキーが傑作を生んだのち亡くなった街です。ここにドストエフスキーの記念館があると聞き、日本にいるときからぜひその記念館に行こうと決めていました。
ドストエフスキーは27歳のとき、帝政ロシアの打倒をはかる革命家集団に加わったということで逮捕され、シベリアに流刑に処されました。38歳になったとき、ようやく政府に許されて首都サンクトペテルブルグに帰ってきました。
その後最初に書いた小説が、名作 『罪と罰』 だそうです。1859年のことで、日本では明治維新の8年ほど前にあたります。 |
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その後エネルギッシュな創作活動を行って多数の名作を生んだドストエフスキーは、1881年、60歳のとき、サンクトペテルブルグで亡くなりました。
亡くなるまでの最後の2年間をすごした家は、世界遺産ネフスキー大通りの東のはずれの南側にあり、現在ドストエフスキー記念館となっています。私どもは、ネフスキー大通りから観光クルーズで有名なフォンタンカ運河に沿ってドストエフスキー記念館に向かいました。 ネフスキー大通りから入ってしばらく行くと、左のドストエフスキーの銅像がありました。 |
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大作曲家ベートーベンはウィーンの街の方々で転居を繰り返しましたが、ドストエフスキーもなんども引越しをしたそうです。
ドストエフスキーは、日当たりと風通しのよい角の部屋を好んだとのことで、ついの住家となったこの建物でも角部屋の1、2階を借りました。
没後130年近くになるドストエフスキーですが、最近に至っても人気は一向に衰えません。生年が8年ほどあとのトルストイよりも、ファンが多いのではないかと思います。 この日も、記念館の前には多数の若者たちが集まっていました。 |
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ドストエフスキー宅の一階だったところが、現在のドストエフスキー記念館の入口になっています。
入口は、左の写真のように道路から少し下がった半地下のような構造になっていますが、これは極北の地サンクトペテルブルグの厳しい冬に備えたものでしょうか。ドストエフスキーには 『地下室の手記』 という作品もあるそうです。
サンクトペテルブルグにはこのような半地下の建物が多いようですが、時には大河ネバ川の氾濫により低地の建物で死者が出たこともあるということです。 |
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記念館内部は、創作活動の展示、五大長編の展示、ドストエフスキーが生活した部屋の3つの部分からなっています。
作品の手書き原稿、関連する絵画、銅版画、蔵書などが多く、また折に触れやり取りした手紙などもたくさんあります。 ドストエフスキーの筆跡は非常に端正で、実に見事でした(といっても、キリル文字なので、私にはまったく読めませんでした)。
展示の説明は大部分がロシア語ですが、英語の説明もかなり付いていたので、私どもにも大体理解できました。 |
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展示品の中に、左のドストエフスキーの肖像画がありました。ペロフという帝政ロシア時代の高名な画家の作品だそうです。 ドストエフスキーの父は貴族の家系で医師だったそうですが、この肖像画から貴族階級の人品、知識階級の繊細さが見られるように思われます。
ドストエフスキーは、シベリアに流刑される前から小説を書きはじめ、『貧しい人たち』 などの作品を残しています。シベリアからサンクトペテルブルグに帰ったのち、自ら雑誌を刊行し、長編『虐げられた人々』と『死の家の記録』 を掲載しました。 |
それまでのドストエフスキーの作品のなかでもっとも有名なのは、『死の家の記録』 ではないかと思います。これは刑務所内の囚人の生活を描写したもので、癲癇のシーンなども出てきます。ともかく読みやすい小説ではなく、当時の文学評論家の受けもあまりよくなかったようです。
1866年に至って、ドストエフスキーは長編小説 『罪と罰』を発表し、大飛躍を遂げました。『罪と罰』 は、帝政ロシアの行き詰まりが明瞭になってきた19世紀半ば、人生、宗教などの価値観に悩む若者の姿を克明に描いたものです。まず、作品の企画、構想の段階で、小説としての成功が見えてきたと思います。若者たちは、時代を超え国を超えて、このような問題に苦悩してきているからです。 こうして、ロシアの長編小説として最初の世界的文学作品が誕生することになりました。 |
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『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、地方から出てきた大学生で、ペテルブルグで下宿していました。
ドストエフスキーは、自分が住んでいたペテルブルグの東南部にこの下宿の場所を設定しました。 小説には、ラスコーリニコフの下宿の窓から、はるか西のほうにロシア正教の有名な寺院であるイサク大聖堂(左の写真)が見えると書いてあります。 |
この下宿だけではなく、ラスコーリニコフに殺される婆さんの質屋、女主人公ソーニャの家などもあらかたがこの地域に設定されているそうです。
青少年が、成長する過程で危険な思想に取りつかれるのはよくあることです。ラスコーリニコフは、人間には凡人と非凡人があると考えるようになりました。小説では、ラスコーリニコフは非凡人は大きな事業を成し遂げるためには凡人を殺害することも許される、という論文を書いたことになっています。
貧民から金品を巻き上げているあの質屋の婆さんから金を奪い、それで貧民のための施設をつくるほうが社会のためになる、という論理で、婆さんを斧で殺す犯行に及びました。 しかし、その際たまたま婆さんの妹リザベータが外からその現場に帰ってきたので、勢いでそのリザベータも殺してしまいます。リザベータは、女主人公ソーニャの友達で、信仰心の篤いおとなしい女性でした。
この一件は、私ども読者にとっても実に悲惨で哀切きわまりありません。ラスコーリニコフにとっても自分の主義とは関係のない罪を犯したわけで、以降ラスコーリニコフの信念はぐらつき、深刻に悩むことになります。 |
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やがて、ラスコーリニコフは恋人ソーニャに犯行を告白しました。ソーニャは驚いて、警察に自首するようにといいます。結局、ラスコーリニコフはシベリア送りとなり、ソーニャもラスコーリニコフについてシベリアに行くことになりました。
小説のこのあたりは、ヨハネ福音書の「ラザロの復活」のくだりが引用され、重要な役割を果たしています。この作品が偉大な宗教小説であるといわれるのがわかります。
左の写真は、記念館の近くにあったウラージミル教会というロシア正教の教会です。 |