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ボストン美術館

 親水公園バックベイ・フェンを歩いているうちにボストン美術館の開館時間になったので、公園を出てボストン美術館に向かいました。
ボストン美術館には、正面入口のほかにウエストウイングにも入口(西側入口)があります。私どもは、バックベイ・フェンに隣接する西側入口から入場しました。

下の写真は、バックベイ・フェンの出口近くからボストン美術館のウエストウイングを撮影したものです。ウエストウイングは、高い列柱のある横幅の広い造りになっており、入口はニューヨークのメトロポリタン美術館と同じように大きな石段を登った上にありました。

ボストン美術館西側

美術館2階へ

 入口の近くには、すでに団体客とガイドなどがかなり集まっていました。日本人のグループもいくつかいらっしゃるようです。この美術館は、日本のボストン旅行ツアーにはかならず組み込まれているのです。

私どもは、例によって入場すると直ちに今後もっとも混雑が予想されるセクションに向かいました。それは、美術館2階にあるヨーロッパ絵画の展示室です。
特に、美術館ウエストウイングのフェンウェイに面した印象派の展示室は団体客が集中する場所なので、混雑が激しくならないうちに入室するのがよいでしょう。

ターナー 《奴隷船》
ターナー  《奴隷船》

 その印象派の展示室に入る一つ前の19世紀ヨーロッパ絵画の部屋で、ターナーのすばらしい絵画を見つけました。

絵画のタイトルは、なんと《奴隷船》で、奴隷船の船外に死んだ奴隷、死にかけた奴隷を投げ落としている様子を描いたものだそうです。画面の下の方に描かれているのが、投げ棄てられた奴隷たちでしょうか。

奴隷貿易は、アフリカ諸国の住民を拘束してカリブ海諸国などヨーロッパのプランテーションに売却するというのがもっとも普通の方式だったので、イギリスに住んでいたターナーは奴隷船を直接見たことはなかったと思われます。
また、この作品が描かれたのは1840年だったとのことで、そのころは奴隷貿易はすでにほとんど行われなくなっていました。

従って、私どもにはこの作品がなぜ制作されたかは不明ですが、それはともあれ、絵画としてはこれは実にすばらしいとしかいいようがありません。印象派運動の契機となったモネの《印象・日の出》は1873年に描かれましたが、ターナーのこの作品はすでにその33年前に同じ世界を目指していたように感じられます。

ミレー	《洗濯女》
ミレー  《洗濯女》

 上記ターナーの作品の近くに、フランス・バルビゾン派の画家ミレーの《洗濯女》という絵画がありました(左の写真)。

日本では農民画家というイメージで知られているミレーですが、パリ・ルーブル美術館のミレーの展示室に行った方は、ミレーの作品のテーマや画風が非常にバライエティに富んでいるのをご覧になったことでしょう。

それらの作品の大多数に見られるのは、当時の国民の最下層であった小作農民や羊飼いなどへの思いやりをこめた作者の温かい視線です。

ミレーは逆光あるいは半逆光を利用した構図をよく使ったとされます。この作品でも、有名な《晩鐘》と同じように落ちてゆく夕陽を背景とし、川で洗った洗濯物を肩に担ぐ洗濯女を描いています。静かな川面が夕焼け空と同じオリーブ色に染まっているのが印象的です。

ドガ 《母と娘たち》
ドガ 《母と娘たち》

 ドガの父の兄弟であった女性とその二人の娘たちを描いた作品のようです。
皆黒い服を着ているので、この女性の夫が亡くなったときの葬式を描いたのでしょうか。

ドガは1834年生まれなので、モネが上記《印象・日の出》を発表したときはもう40歳に近くなっており、画家としてかなりの実績をあげていました。

ドガは、モネたちの印象主義運動には理解を示しつつも、それに積極的に関わることはせず、上の写真の作品のような静穏な画風を守りました。

モネ	《洗濯女》
モネ 《妻と息子》

 印象派の始祖モネが描いた妻カミーユと息子の絵画です。制作は1975年とのことで、上記1973年の印象派旗揚げの2年後になります。

このころモネは「日傘」シリーズの女性像を多数制作していますが、それらは皆妻カミーユがとなっています。モネの収入が不安定だったので、妻カミーユが夫の制作を助けたのです。

そのように献身的に夫を支えた妻カミーユは、その後病気になり、上の絵画が描かれた4年後に32歳の若さでこの世を去りました。モネは、極度の悲しみに打ちのめされつつも、冷たくなったカミーユの表情をキャンバスに描いたということです。

ミレー	《洗濯女》
ルノアール 《ブージヴァルのダンス》

 だれでもテレビや画集で一度は見たことのあるルノアールの代表作の一つです。

ブージヴァルとは、パリ郊外ヴェルサイユの近くの地名だそうです。パリに住んでいる人々が暖かい時期に郊外に行楽に行ったときの様子を描いたのでしょうか。

この作品は1883年、作者が42歳のときの作です。ルノアールがモネの印象主義運動に参加してからすでに10年近い年月が経っており、色彩や構図など、印象派絵画の様式が確立しているのが見られます。

また、踊っている二人の姿、表情などには、モネにはないルノアール独特のあでやかさが感じられます。

この時期以降は、ルノアールは、形状の描写より光の効果を重んじる印象派主義から次第に離れて、古典主義への復帰を探るようになりました。

ミレー	《洗濯女》
ゴッホ 《郵便配達夫》

 これまた大変有名なゴッホの絵画 《郵便配達夫ルーラン》 です。

1886年、33歳のとき、ゴッホはパリに移住し、ロートレックなどと同じ画塾で本格的に絵画の勉強を始めました。
この作品は、1888年、パリからさらにアルルに移った年のの夏ごろに描かれました。

ゴッホは、この郵便配達夫ルーランと親しくなり、その肖像画を何枚も描いています。また、ルーランの奥さんをモデルにした作品も残しています。

パリ時代の最後のころから、ゴッホは自分の画風を確立しつつありましたが、この作品ではそれがさらに発展し、強烈な個性が発揮された絵画になっています。

しかし、まもなくゴッホは精神の異常をきたして「耳きり事件」を引き起こし、病院に収容されることになりました。

ゴーギャン 《我々はどこから来たか》

 この大美術館でももっとも有名な絵画の一つが、ゴーギャンの大作《我々はどこから来たか》でしょう(下の写真)。アルルでのゴッホとの共同生活が破綻した後、ゴーギャンはパリに帰りましたが、やがて楽園を求めて南太平洋のフランス領タヒチ島に移住しました。

その後、タヒチ島で制作した作品を携えてパリに帰りましたが、結局それらの作品は評価されなかったので、ゴーギャンはやむを得ず再度タヒチ島に渡りました。

タヒチ島での貧困生活の中で、人生に別れを告げる目的で制作したのが、この大作《我々はどこから来たか》でした。ゴッホとの共同生活が破綻してから約10年後の作品です。

ゴーギャン 《我々はどこから来たか》

私どもが行ったときは、この作品は、2階の19世紀ヨーロッパ絵画の展示室ではなく、1階のアメリカ絵画の展示室に近い場所に展示されていました。展示室の一つの壁全体を占めるような大きな作品でした。

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